星電社
株式会社星電社(せいでんしゃ)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く家電量販店を経営する企業。ヤマダ電機傘下の家電量販店の一つである[1]。
かつては兵庫県内で「せいでん(Seiden)」の店舗ブランドで量販店を営業していたが、ヤマダ電機傘下に入った後はヤマダブランドの量販店をフランチャイズ運営するほか、せいでんブランドで携帯電話店を営業している。
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歴史・概要
創業から日本一の家電販売店へ
1945年(昭和20年)11月1日に、闇市が広がっていた神戸市生田区三宮町のバラックで創業者の後藤博雅[2]・英一兄弟が、真空管(ラジオのパーツ)を専門に扱う卸・小売店として、合資会社 星電社を設立し、創業。1949年(昭和24年)1月21日に現法人の株式会社 星電社を設立する。
暗闇に輝く星になぞらえて、店名を星電社と名付けたとされている[2]。
1962年(昭和37年)に甲子園店を開業させたのを皮切りに、一時は全国展開を図り[3]、1969年(昭和44年)に家電売上高日本一を達成し[2]、全国に70店以上を構えた[2][4]。
兵庫県周辺での地域密着戦略の展開
1972年(昭和47年)に創業者の後藤博雅が「お客さまに密着するため、兵庫県周辺での事業を絞る」との方針を打ち出し、店舗を一気に半減させて兵庫県周辺のみに営業エリアを縮小させリージョナルチェーンへと方向転換をした[2]。
この地域密着の方針により、1977年(昭和52年)に、家電量販店大手では珍しい御用聞きの専任者が配置され[5]、全盛期では120人ほどに上ったほか[2]、1978年(昭和53年)には姫路本店を開業するなど兵庫県を中心に店舗を展開[3]、バブル期にも広い売り場や駐車場を持つ郊外型店舗ではなく、より地域に密着する為の小型店を多数展開する独自の営業戦略を採った[2]。
また、商品価値を丁寧にきちんと説明できる店員により付加価値の高い商品を適正価格で販売して利益を出す方針も採っていた[6]。
バブル期の大量出店
バブル期には地域密着の小型店を積極的に出店したほか[5]、1992年(平成4年)に神戸ハーバーランドに開店した[7]ハーバーランド店に20億円を投じるなど約30店の新規出店を行った[5]。
この大量出店により人手不足となって御用聞きの専任者を引き上げたことから競合他社に顧客が流出する結果となった他、債務の増大や既存店売上の減少など、経営面で負の側面が多く生じる結果となった[5]。大量出店に合せて1991年(平成3年)には高卒と大卒を合せて160人の新卒採用を行った[8]。
1992年(平成4年)5月期には兵庫県を中心に約60店舗を展開して売上高約694億円を上げ、関西で最大の家電量販店チェーンとなり[8]、従業員数も全盛期には約1500人に達した[9]。
阪神・淡路大震災による被災と郊外型店との競合激化
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災により総売上高の42%を稼いでいた[6]三宮本店が全壊したほか[3]、物流拠点や在庫商品など[3]100億円を超える被害を受け[6]業績が悪化し始めた[3]。
そこに同じ兵庫県内に本拠地を置いていたライバルの家電量販店チェーンのミドリ電化(現・エディオン)が阪神・淡路大震災のあった1995年(平成7年)ごろから郊外への大型店を増やし、売上高を2倍以上に伸ばした[6]。またコジマやヤマダ電機などの関東の家電量販店チェーンもその頃から兵庫県内でも大きな駐車場を持つ郊外型店の出店攻勢をかけ始めるなど、安売りを武器にした郊外型量販店との競争が激化し始めた[6]。
星電社は営業エリアを限定した関係で、売上規模がコジマやヤマダ電機などの低価格を売りにする家電量販店チェーンより大幅に劣ったため、仕入価格が高くなり店頭価格が5-10%ほど高くなったり[10]、完全買取を条件に独自商品をメーカーに通常より数%以上安いコストで製造してもらえないなど価格競争への対応力が弱かった[6]。さらに休日に家族連れが商品を車で持ち帰れる郊外店で買う傾向が強まる中、店舗の半数が駅前など市街地立地の店舗であったため郊外店と差別化した品揃え対応ができない中途半端な商品政策になるなど、家電販売業界の変化への対応も遅れがちとなった[6]。
1998年(平成10年)3月に三宮本店を当時全国最大の家電店として再建したものの、震災後に若返えりつつ来街者数が回復した三宮の客層変化に対応できず[6]、来店客回復の目論見は大きく外れ、売上は回復できなかった。これに伴い南館を閉鎖し手工芸用品専門店のユザワヤに貸し出したり[11]、2000年(平成12年)7月にハーバーランド店を閉店[7]するなど集客力の落ちた店舗の閉鎖を進め、2002年(平成14年)1月に28店舗まで集約[3]。
その後も店頭の品揃えが粗利益率の高いテレビや洗濯機など一般家電が少ない一方で粗利益率の低いパソコンが多い構成によりマツヤデンキを粗利益率で5-6ポイントも下回るほどの低い収益性であった[12]ことなどにより、店舗のうち約3分の1が赤字となり[3]、2001年(平成13年)5月期の売上高も約344億円にまで減少していた[3]。
民事再生法の適用申請から再生へ
阪神・淡路大震災による被災や郊外型店との競合激化による業績の低迷を受けて負債総額約280億円を抱えて約22億円の債務超過に陥り、2002年(平成14年)1月8日に神戸地方裁判所に民事再生法の適用を申し立てて同日保全命令を受けて事実上破綻した[3]。
破綻後も全店舗の営業やポイントサービスと補修などのサービスも継続しながら再建の支援企業の交渉を行っていった[3]。
しかし、破綻に伴う信用不安から商品の入荷が少なくなって次々と商品在庫が底を突いて販売が出来なくなるような状況も生じ、社員数も約150人に減少した[9]。
再建の支援企業探しは難航したものの2002年(平成14年)4月25日にレンタルビデオ店TSUTAYAを展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブとの間で包括支援の基本合意を締結して再生への動きが本格化し始めた[13]。
この合意により[13]、三宮、姫路、芦屋、三原、龍野、赤穂、西脇、豊岡の8店[14]を家電販売店「seiden」として引き続き営業し[13]、11店はカルチュア・コンビニエンス・クラブに譲渡してTSUTAYA店舗に転換すると共に[13]、当社の100%減資後の増資をカルチュア・コンビニエンス・クラブが引き受けて同社の子会社となることになった[13]。
支援企業のカルチュア・コンビニエンス・クラブは同社が保有していなかった家電販売のノウハウを補うため、家電メーカーに強い影響力を持つ家電量販店のマツヤデンキに支援を依頼し、2002年(平成14年)7月15日にマツヤデンキが社長などの経営陣を派遣するほか、情報システムの共有や商品供給で協力する形で支援に乗り出すことを発表した[15]。
また再建に当たっては、旧経営陣が責任を取って総退陣している。
この両社の支援を受けて、改装費用約1.3億円を投じて[2]2002年(平成14年)10月26日に地下1階と地上1階に映像ソフトの品ぞろえが、当時関西一というレンタルビデオ店「TSUTAYA」を開業させる形で改装してハードとソフトの連携で相乗効果が発揮させる複合型家電店とした三宮本店を新装開店させて[16]、先行して改装した姫路本店と同業態へ転換するなど改装を進めて経営の再建を行っていった[14]。
2002年(平成14年)12月25日に神戸市内で債権者集会を開いて銀行借入や家電メーカーなどの売掛債権などの一般債権約238億円の97%カットなどを盛り込んだ再生計画案を可決し、同日神戸地方裁判所から同計画案の認可決定を受けた[17]。
この再生計画に関連して三宮本店などを除く保有不動産17物件を売却し、担保権を持つ金融機関からの借入れの返済に充てたため、豊岡や姫路など営業中の店舗と本社事務所などはリースバック方式で賃貸借契約を結んで使用し続けることになった[17]。
2003年(平成15年)3月5日までに実施された減増資の際には投資会社のアドバンテッジパートナーズが設立して運用しているファンドが8.5億円を出資して筆頭株主となり[18]、残り1億円を元々の支援企業であるカルチュア・コンビニエンス・クラブが出資して正式に再建がスタートし[18]、2006年(平成18年)3月2日には民事再生手続きを終えた[19]。
支援企業の破綻と経営再編
2003年(平成15年)9月25日に当社の家電販売業務の再生支援をしてきた家電量販店のマツヤデンキも民事再生法の適用を申請し、翌日の26日に産業再生機構の支援決定を受けて再建に乗り出すことになった[20]。
その産業再生機構から2003年(平成15年)にマツヤデンキの営業を譲渡され[19]、2005年(平成17年)にサトームセンの全株式を創業家から買収していた[19]新生銀行系列のファンドが2006年(平成18年)3月3日にアドバンテッジパートナーズが設立して運用しているファンドとカルチュア・コンビニエンス・クラブから株式の90%を取得して[21]2006年(平成18年)10月1日に持ち株会社のぷれっそホールディングスを設立して経営統合することになった[22]。
2007年(平成19年)5月15日にぷれっそホールディングスの全株式をヤマダ電機が取得して子会社化されることが発表され、同社の傘下に入った[23]。
この間の2006年(平成18年)には三宮本店を全面改装して家電製品を中心とした生活空間づくりを提案する売場構成に転換し、2008年(平成20年)末から三宮本店の全フロアで複数の商品を組み合わせたセット販売に取り組むなど提案型の販売戦略の展開を進めた[24]。
また、2006年(平成18年)6月に[8]7店舗で17人の御用聞きを復活させて[2]各担当者が担当地区をくまなく回る地域密着による営業戦略に再挑戦し[25]、2007年(平成19年)に入ってからは個別の担当者の直接の売上では採算レベルに達していないものの[26]、御用聞きの担当者がいる地域からの売上が前年比でプラスになるなどの成果が出始めた[26]。
ヤマダ電機のフランチャイズ化によるせいでんブランドの終焉
前述の経営再編の際には、店名は従来通り「せいでん」(seiden)が使用され続けていたが、兵庫県内に13店を展開しているヤマダ電機とチラシを共通化や仕入れ、物流、店舗運営などを効率化してコストを削減すると共に売上拡大を図ることを目的に、ヤマダ電機のフランチャイズ化をすることになった[27]。
2009年(平成21年)7月3日にヤマダ電機のフランチャイズ店に切替えて「せいでん」の三宮本店がLABI三宮になり[28]、本店以外に芦屋や姫路など計7店がテックランドに名称変更し[28]、ヤマダ電機のフランチャイズ店にならなかった西脇店と携帯電話専門店のデュオこうべ店は同月中に閉店し[29]、看板やチラシには引き続き「せいでん」のロゴマークを使うものの[28]、店舗名称としてのせいでんは消滅した[28]。
その後約4ヶ月で姫路・三原の2店が閉店している。なお、転換後も既存店舗と区別するため看板・チラシにはせいでんのロゴマークが入る。レシートにはヤマダ電機の下に「株式会社 星電社」と住所が明記されている。
また、ヤマダ電機による買収により同社の連結子会社になった後も、ぷれっそホールディングスが当社を含む3社の持ち株会社のままになっていたが[30]、2012年12月に同社が清算されて以降はヤマダ電機の直接傘下となっている。
2016年10月現在の店舗は、LABI三宮の他、テックランドが芦屋、New淡路、龍野、赤穂、豊岡の5店の計6店である。
三宮本店
かつて三宮本店が全国一の売り上げを誇った家電量販の先駆けとなった店舗である[12]。
1971年(昭和46年)に、現本社を置く神戸の三宮に大型店舗を開業させたのを機に、家電量販店に転換している[31]。
阪神・淡路大震災前には総売上高の42%を稼いでいた[6]。
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災により本館が全壊したが、三宮周辺だけで約60億円に上る復興費用を掛けて[2]1998年(平成10年)3月に三宮本店を当時は全国最大の家電店として再建した[32]。
しかし、再開業初日にJRと阪神の元町駅まで約500mの入店待ちの行列が出来るとの当社幹部の予想に反してわずか100mに満たない行列しか出来ず、来賓の同業他社の幹部から「こんな寂しい開店日になるとはね」と云われるほどの来店者に留まった[26]。震災後に他店舗を閉鎖したにも拘らず震災前の42%から35%へと当社の総売上高に占める三宮本店の比率が下がり[6]、売上は回復できなかった。
こうした売上の伸び悩みを受けて南館を閉鎖して手工芸用品専門店のユザワヤに貸し出す[11]など売場の再編も進められた。
神戸地方裁判所に民事再生法の適用を申し立てて破綻した後の2002年(平成14年)10月26日には地下1階と地上1階に映像ソフトの品ぞろえが当時関西一という支援企業のカルチュア・コンビニエンス・クラブが運営するレンタルビデオ店「TSUTAYA」を開業させる形で改装してハードとソフトの連携で相乗効果が発揮させる複合型家電店として新装開店した[16]。
また、2006年(平成18年)には全面改装して家電製品を中心とした生活空間づくりを提案する売場構成に転換し、2008年(平成20年)末から三宮本店の全フロアで複数の商品を組み合わせたセット販売に取り組むなど提案型の販売戦略の展開を他の店舗に先駆けて進めた[24]。
2009年(平成21年)7月3日にヤマダ電機のフランチャイズ店に切替えた際には当店のみLABI三宮としてLABIの店名が採用された[28]。
関連項目
脚注
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「yamada-denki-csr-report-2013-7
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 竹内章、高見雄樹 (2007年3月3日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 3.創業者の教え 損得よりも商売の善悪を優先する”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 “星電社が再生法申請 営業は全店で継続”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年1月9日)
- ↑ 兵庫県内各地に多数の店舗を構えたほか、首都圏でも田園調布や東急東横線の学芸大学駅前に、大阪でも阿倍野や梅田に、それぞれ出店していた。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 竹内章、高見雄樹 (2007年3月5日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 5.参謀役 次、失敗は許されない。”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 6.9 松井元、大久保直樹、高見雄樹 (2002年1月10日). “星電社再生法申請 低価格競争に追いつけず”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 7.0 7.1 “News ANGLE2002 神戸ハーバーランド開業10年”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年11月1日)
- ↑ 8.0 8.1 8.2 竹内章、高見雄樹 (2007年3月1日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 1.御用聞きチーム 会社再建へ合言葉は「地域密着」”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 9.0 9.1 竹内章、高見雄樹 (2007年3月2日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 2.再チャレンジ お客さんあっての店なんだ”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 竹内章、高見雄樹 (2007年3月4日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 4.下町育ち 気持ちよく売り、買ってもらう”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 11.0 11.1 “星電社が民事再生法申請 負債推計280億円”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年1月8日)
- ↑ 12.0 12.1 藤本陽子 (2002年10月29日). “この人に聞く 星電社・平井進吾社長”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 “星電社支援に「TSUTAYA」のCCC”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年4月26日)
- ↑ 14.0 14.1 “星電社・三宮本店、26日改装開店”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年10月22日)
- ↑ “マツヤデンキが社長派遣 星電社の再建支援”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年7月16日)
- ↑ 16.0 16.1 “センター街に活気再び 星電社改装に1000人行列”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年10月26日)
- ↑ 17.0 17.1 “星電社の再生計画認可”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年12月26日)
- ↑ 18.0 18.1 “再生計画に沿い減増資 星電社”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2003年3月1日)
- ↑ 19.0 19.1 19.2 “マツヤデンキ サトームセン 星電社が経営統合”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2006年3月3日)
- ↑ “再生機構、マツヤデンキと明成商会の支援を正式決定”. 読売新聞 (読売新聞社). (2003年9月27日)
- ↑ “家電量販3社統合へ・マツヤデンキ、サトームセン、星電社”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2006年3月3日)
- ↑ 高見雄樹 (2006年9月8日). “来月、新会社「ぷれっそHD」を設立 星電社・マツヤ・サトー統合”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ “マツヤデンキなど買収 ヤマダ電機、首位独走へ”. 四国新聞 (四国新聞社). (2007年5月15日)
- ↑ 24.0 24.1 三宅晃貴 (2009年3月24日). “わが社のカイゼン 現場が生む知恵(15)家電量販店 せいでん三宮本店(神戸市中央区)セット販売 満足上乗せ”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 竹内章、高見雄樹 (2007年3月7日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 7.モノ売る喜び 売った買っただけじゃないんだ”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 26.0 26.1 26.2 竹内章、高見雄樹 (2007年3月8日). “連載 まい・らいふ 第3部 リターンマッチ 8.刻む一歩 ここで商売をやっていきたい”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 高見雄樹 (2009年6月27日). “消える「せいでん」ヤマダ電機傘下、店名変更”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 西井由比子 (2009年7月4日). “LABI三宮新装開店「せいでん」ロゴは残す”. 神戸新聞 (神戸新聞社)
- ↑ “星電社の8店舗、ヤマダの看板に、「せいでん」消える”. 日経MJ (日本経済新聞社). (2009年6月29日)
- ↑ CSR REPORT 2011 (Report). ヤマダ電機. (2011-6).
- ↑ 三宮本店については、1980年代には、現在はユザワヤに売却された建物に「南館カーサ」を開店、家電以外の生活用品を幅広く取り揃えるという東急ハンズに似た趣向を模索した。また、現在でも星電社のパソコン関連売場の名として残る「PC-PORT」は、1994年(平成6年)3月12日に、三宮本店に「関西初のコンピューマート」として開店しており、三宮本店では今日の大手家電量販店が展開する総合性・先進性を兼ね備えた売場作りがなされていた。
- ↑ “信じた道を一心に 記憶胸に再出発”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2002年1月18日)
外部リンク
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