星島二郎

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星島 二郎(ほししま にろう、明治20年(1887年11月6日 - 昭和55年(1980年1月3日)は、日本弁護士政治家衆議院議員。元衆議院議長従二位勲一等旭日桐花大綬章

来歴・人物

岡山県児島郡藤戸町(現倉敷市藤戸町)出身。政界入りする前は弁護士であり、東京日比谷片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。

戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。あと4年議員を続ければ議員在職50年の表彰を受けることができる状況で、秘書の加藤六月を後継者に指名し、政界を引退。政界引退後は自民党顧問、共立女子大学理事を務めた。

略年譜

- 東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。弁護士となる傍ら犬養毅の秘書として政治の勉強をする。
5月10日 - 立憲国民党公認で郷里から総選挙に立候補し初当選(以降、17回連続当選)。
9月1日 - 所属政党の国民党が解党。
11月8日 - 革新倶楽部の結成に参加。
- 治安維持法に反対する。政革合同に際しては、師の犬養に従い立憲政友会に合流。
4月15日 - 廣田内閣鉄道参与官に就任。
5月20日 - 政友会の分裂に伴い久原房之助、鳩山一郎らとともに正統派(久原派ともいう)に属する。
11月10日 - 鳩山、尾崎行雄ら翼賛政治に反対する議員とともに同交会を結成。
4月30日 - 翼賛選挙に非推薦で当選。
5月14日 - 同交会が解散。
11月9日 - 旧政友会正統派→旧同交会の流れを汲む日本自由党の結成に参加。
- 自由党政調会長に就任。5月22日第1次吉田内閣商工大臣として入閣。
1月31日 - 内閣改造に伴い、閣内移動で無任所の国務大臣となる。
6月 - サンフランシスコ講和会議全権委員。
- 自由党鳩山派の1人として自由党を離党、日本民主党の結成に参加。
- 保守合同に伴い自民党に参加。所属派閥ははじめは鳩山派、同派分裂後は岸派から藤山派
6月11日衆議院議長に就任するが、警職法改正をめぐる会期延長問題で国会が混乱した責任を取って、わずか半年後の12月13日に辞任。
- 政界引退。
1月3日 - 老衰のため92歳で死亡。

所属政党

家族

星島家

岡山県倉敷市藤戸町東京都
曽祖父宜平は嘉永2年(1849年)に児島郡庄屋となり、文久2年(1861年)には苗字帯刀御免となった[1]。宜平の弟茂八郎は分家を立てた[1]。茂八郎の子寛(ゆたか)は明治33年(1900年)から5年間藤戸村長を務め、その長男昴一も明治44年(1911年)から昭和12年(1937年)まで6期藤戸町長を務めた[1]。祖父啓三郎は、土地所有面積の拡大、更に、備前紡績をはじめとする地元企業への出資、藤戸銀行、星島銀行の創業など、家産の保全拡大に努めた[1]。父謹一郎は大正4年(1915年)から同12年(1923年)まで貴族院議員を務めた[1]。兄の義兵衛は岡山電気軌道などの役員をへて岡山県農工銀行頭取になり、山陽学園理事長・校長などをつとめた実業家[2]
  • 妻 雛子
  • 長男 東一
  • 次男 光平
  • 長女 節子

脚注

外部リンク


議会
先代:
益谷秀次
日本の旗 衆議院議長
第47代:1958年
次代:
加藤鐐五郎
先代:
角田幸吉
日本の旗 衆議院人事委員長
1949年 - 1950年
次代:
田中伊三次
党職
先代:
結党
自由党総務会長
初代:1950年
次代:
益谷秀次
先代:
斎藤隆夫
民主自由党総務会長
第2代:1949年 - 1950年
次代:
解党
先代:
北昤吉
日本自由党政務調査会長
第3代:1946年
次代:
芦田均
先代:
吉田茂
日本自由党総務会長
第3代:1946年 - 1948年
次代:
解党
公職
先代:
小笠原三九郎
日本の旗 商工大臣
第28代:1946年 - 1947年
次代:
石井光次郎

テンプレート:衆議院建議委員長 テンプレート:衆議院人事委員長


テンプレート:日本自由党 (1945-1948)