早川町
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早川町(はやかわちょう)は山梨県の南西端にある町で、長野県や静岡県と県境を接する。福島第一原発事故などによる影響を受けている福島県内の町を除く、自然人口として日本で最も少ない「町」であるとともに、山梨県内の町としては最も西にあたる。「日本で最も美しい村連合」の一つ。
Contents
概要
- 北部・西部を南アルプス(赤石山脈)、東部を櫛形山系、南部を身延山地に囲まれた山間地域。面積の約96%は山林となっており、急峻な地形に40ほどの集落が点在している。
- 町のほぼ中央を、町名の由来にもなった富士川の支流早川が貫流している。
- 実質的には、早川沿いの県道南アルプス公園線が町外へ通じる唯一の道となっている。
- 過去の歴史から、人口の約4割の姓が望月である。
- 住民アンケート等の結果により2002年3月、旧・合併特例法の期限内には合併しないとの決断を下した。
地理
標高
- 最高:3189m(間ノ岳山頂)
- 最低:約330m(山吹発電所付近)
歴史
沿革
山間部で平坦地が少ない河内地方では先史・古代の遺跡は少ないが、1974年(昭和49年)から翌1975年(昭和50年)にかけて町史編纂に伴う調査により、町域では19遺跡の存在が確認された。多くは縄文時代の集落遺跡で河川沿いの河岸段丘に点在し、縄文早期末頃から縄文前期後半に遺跡数が増大し、縄文後期後半には減少に転じる。
古代の律令制下では巨摩郡に属する。中世には鎌倉時代に身延山に草庵を結んだ日蓮の書簡に「早河」の地名が見られる。戦国期には河内領主の穴山氏が支配し、町域には黒桂山・保山の金山が開発された。
- 江戸時代 - 甲斐国志によると、早川入りに、初鹿島村、小縄・高住・赤沢村、榑坪村(くれつぼむら)、千須和村(せんずわむら)、薬袋村(みないむら)、塩之上村、笹走村、大島村、雨畑村、草塩村、京ヶ嶋村、保村(ほうむら)、黒桂村、西之宮村、早川村、大原野村、新倉村、湯島村、奈良田村の19ヶ村があった。
- 1956年(昭和31年)9月30日 - 明治の合併で発足した本建村(もとだてむら)、五箇村(ごかむら)、硯島村(すずりしまむら)、都川村(みやこがわむら)、三里村(みさとむら)、西山村(にしやまむら)が合併して早川町が発足。
人口
早川町(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
行政
産業
近世から高度経済成長期までは、自給的食糧生産である焼畑と現金収入の道である林業・木工業、鉱山労働、養蚕、換金作物の栽培(コウゾ、ミツマタ、タバコ、コンニャク、シイタケなど)との複合的な生業が営まれてきた。町中部の茂倉(もぐら)集落の特産である「茂倉うり」のように、他地域との往来が少ない町ならではの伝統野菜もある[1][2]。
太平洋戦争後は林業や建設業、養豚などの産業も台頭した。現在では林業・養豚は主要産業とは言えず、建設業も縮小している。
隣接する自治体・行政区
教育
2012年(平成24年)度より、町内の小中学校に通学する児童・生徒の教材費や給食費、修学旅行費など義務教育にかかる経費の完全無償化に取り組んでいる。
- 早川町立早川南小学校
- 早川町立早川北小学校
- 早川町立早川中学校
交通
- 町内に鉄道路線はないが、早川町乗合バスが1日4往復運行されている(詳細は当該項を参照)。最寄りの駅はJR身延線下部温泉駅。
- 町内に高速道路は通っていない。最寄りのICは中央自動車道の甲府南IC、河口湖IC、中部横断自動車道の増穂ICなど。
- 山梨県道37号南アルプス公園線
- 山梨県道810号雨畑大島線
自治体交流
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
名所・旧跡
- 奈良田温泉
- 西山温泉:当地にある慶雲館は世界最古の旅館としてギネスワールドレコーズから認定を受けている。
- 湯島の大杉:下湯島の山王神社境内にある山梨県指定の天然記念物(1958年(昭和33年)6月19日指定)。樹高45m、幹囲11.1m、推定樹齢は伝承1200年、山梨県内で最も大きな杉の木である。
- 新倉の糸魚川-静岡構造線(新倉の断層):国の天然記念物。
- 赤沢宿:身延山と七面山を結ぶ参詣道の途中にある講中宿。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定。
祭事・催事
- 南アルプス山菜祭り(5月3日)
- 南アルプス紅葉とそば祭り(11月第2日曜)
早川町を舞台とした作品
- 小説
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ “【ぐるっと首都圏・食べる・つながる】山梨・早川 茂倉うり/伝統の夏野菜、みずみずしく 高齢化で減産、担い手守れ”. 『毎日新聞』朝刊. (2017年8月7日)
- ↑ “茂倉うり”. 早川町ホームページ . 2017-8-7閲覧.
- ↑ 柴田彩子(2015)「そば処武蔵屋という山村女性のスモールビジネスを可能にした要因」『弘前大学大学院地域社会研究科年報』第11号,pp. 67-78
典拠レコード: