日本民主党
日本民主党 Japan Democratic Party | |
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成立年月日 | 1954年11月24日 |
前身政党 |
改進党 自由党(鳩山一郎派) |
解散年月日 | 1955年11月15日 |
解散理由 | 自由党と合同し自由民主党を結成(保守合同) |
後継政党 | 自由民主党 |
政治的思想・立場 | 保守 |
日本民主党(にほんみんしゅとう)は、かつて存在した日本の政党。総裁は鳩山一郎が務めていた。
党史
保守勢力の合同の前段階として、1954年11月24日に結党された。当初は保守系の自由党と中道系の改進党が合同する予定であったが、与党自由党における吉田茂首相のワンマン体制が自由党内で軋轢を生み、その結果、自由党を離党した鳩山一郎派と改進党で合同し、吉田内閣を退陣に追い込むことに目標を変更した。自由党に対抗するため、自主憲法論を唱え再軍備を主張した。
第5次吉田内閣は造船疑獄などにより支持を失い、日本民主党結成により内閣不信任決議案可決が必至となった。追い詰められた吉田首相は衆議院解散を断念し、内閣は総辞職した。12月10日、第一次鳩山内閣が成立する[1][2]。少数与党内閣であったため、1955年1月24日に衆議院解散となった。2月27日の第27回衆議院議員総選挙では第1党となったが過半数には達せず、右派社会党、左派社会党が合計で民主党とほぼ匹敵する議席数を獲得した。
社会党の伸長を受けて、日本民主党と自由党の合同、いわゆる保守合同が政治日程に登ってきた。民主党は三木武吉総務会長を中心として岸信介幹事長らが保守合同を牽引した。しかし三木武夫や松村謙三ら旧改進党の左派系は合同に反対した。三木が保守合同に反対した理由としては、保守政党と革新政党の二大政党制が実現すると、保守政党はより保守化し、革新政党はより革新化する力学が働くため、健全な議会政治が育たないことを挙げていた。また自由党内も緒方竹虎総裁は合同に積極的であったものの、吉田を中心に強硬な反対派が存在した。民主、自由両党ともに反対派を抱え、保守合同はたやすく実現しなかったが、革新側の社会党再統一(10月13日)と財界からの要望もあり、1955年(昭和30年)11月15日、保守合同が実現し自由民主党が結成された[3][4][5]。
自由民主党の派閥である「清和会」・「政策科学研究所」・「新政策研究会」が旧民主党の潮流を継ぎ、旧自由党が保守本流と呼ばれたのに対して、旧民主党は保守傍流と呼ばれた。
役職
歴代総裁一覧
代 | 総裁 | 在任期間 | |
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1 | 60px | 鳩山一郎 | 1954年(昭和29年)11月24日 - 1955年(昭和30年)11月15日 |
歴代役員表
総裁 | 副総裁 | 幹事長 | 総務会長 | 政務調査会長 | 最高委員 | 参議院議員会長 |
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鳩山一郎 | 重光葵 | 岸信介 | 三木武吉 | 松村謙三 | 芦田均 石橋湛山 大麻唯男 苫米地義三 星島二郎 |
苫米地義三 |
鳩山一郎 | 重光葵 | 岸信介 | 三木武吉 | 清瀬一郎 | 芦田均 安藤正純 北村徳太郎 |
苫米地義三 |
鳩山一郎 | 重光葵 | 岸信介 | 三木武吉 | 清瀬一郎 | 芦田均 安藤正純 北村徳太郎 植原悦二郎 |
苫米地義三 |
党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 120/- | 466 | |
第27回総選挙 | ○185/286 | 467 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
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(結党時) | ?/- | - | 250 | 選挙を経ないまま自由民主党に参加 |
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
出典
参考文献
- 石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』岩波書店・岩波新書、2004年、ISBN 4-00-430904-2
- 小宮京『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』木鐸社、2010年、ISBN 9784833224277
- 御厨貴「昭和二十年代における第二保守党の軌跡 『芦田日記』『重光日記』にみる芦田・重光・三木」『年報・近代日本研究・9 戦時経済』山川出版社、1987年、ISBN 4634613905
- 村川一郎・石上泰州『日本の政党』丸善株式会社・丸善ライブラリー、1995年、ISBN 4-621-05153-9
- 村松玄太「三木武夫の政治的発話とその推敲課程」『三木武夫研究I』明治大学史資料センター編著、明治大学史資料センター、2010年