新田荘
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新田荘(にったのしょう)は、上野国新田郡を中心とした地域(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市の一部と埼玉県深谷市の一部)にあった荘園。
"「新田荘遺跡」"
概要
北は鹿田山、東は金山丘陵、西は早川、南は利根川に囲まれた地域にあった[1]。
天仁元年(1108年)に発生した浅間山の噴火によって荒廃した新田郡の一部を源義重(新田義重)が地主職を得て再開発し、保元2年(1157年)に開発した19郷を金剛心院に寄進した功績によって改めて下司職に任ぜられた。通説ではこの年を新田荘の成立年とする[2]。なお、領家は藤原忠雅であった。
その後、新田荘は新田郡のはぼ全域に拡大し、義重の没後はその子供たちによって分割された。その後、鎌倉時代の天仁元年(1224年)の段階では、新田氏宗家と庶流の世良田氏・岩松氏の3氏の間で分割支配されている。新田氏宗家は新田政義の時代に幕府によって新田荘の大半を没収されて岩松氏や世良田氏ら一族に分割され、宗家が新規に開墾していた所領のみが残された。後に宗家が惣領の地位を回復したものの、新田荘の中でも小領主に転落してしまった[3][4]。新田義貞の時代に南朝軍の中核になり、新田氏一族もこれに従うが南朝の敗退とともに没落、北朝に降った岩松氏が事実上の宗家の地位を占めて新田荘を支配した。だが、戦国時代に入ると岩松氏も家臣の由良氏によって取って代わられると荘園の実態を失い、やがて豊臣政権の小田原の役に由良氏が巻き込まれて所領を失い、新田荘も解体に追い込まれた。
脚注
- ↑ ただし、後世において利根川の流路の変化によって旧荘域の中を流れるようになり、現在では新田荘の旧荘域の一部が埼玉県に組み込まれている。
- ↑ 新田荘の本家は鳥羽天皇が建立した金剛心院であるが、同院の創建は保元2年の3年前にあたる久寿元年(1154年)であるため、寄進自体はこの時行われた可能性もある。また、義重の父である源義国が久寿元年当時にはまだ健在であり、開発・寄進の主体が義国であり、義重はその没後に新田郡の地主職とともに権利を継承した可能性も浮上する(山本隆志『東国における武士勢力の成立と発展』思文閣出版、2012年、P48-50)。
- ↑ 勝守すみ「新田氏の所領について」(初出:『群馬大学紀要 人文科学篇』2号(1953年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)
- ↑ 伊藤貞子「東国に於ける荘園制」(初出:『法政史論』11号(1958年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)
参考文献
- 峰岸純夫「新田荘」(『国史大辞典 11』(吉川弘文館、1990年) ISBN 978-4-642-00511-1)
- 峰岸純夫「新田荘」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5)
- 峰岸純夫「新田荘」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3)
- 黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)
- (採録論文には新田荘関係の論文が多数含まれている)