放生会
放生会(ほうじょうえ)とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。福岡などでは「ほうじょうや」という[1]。
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歴史
放生会は古代インドに起源をもつ行事で中国や日本にも伝えられた[1]。
『金光明最勝王経』長者子流水品には、釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が、大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちは三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が説かれている。また『梵網経』にもその趣意や因縁が説かれている。
中国における放生会
仏教儀式としての放生会は、中国天台宗の開祖智顗が、この流水長者の本生譚によって、漁民が雑魚を捨てている様子を見て憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取って放生池に放したことに始まるとされる。また『列子』には「正旦に生を放ちて、恩あるを示す」とあることから、寺院で行なわれる放生会の基となっている。
日本における放生会
日本においては天武天皇5年(677年)8月17日に諸国へ詔を下し放生を行わしめたのが初見であるが[2]、殺生を戒める風はそれ以前にも見られたようで、敏達天皇の7年(578年)に六斎日に殺生禁断を畿内に令したり、推古天皇19年(611年)5月5日に聖徳太子が天皇の遊猟を諫したとの伝えもある[3]。持統3年(689年)には近畿地方を中心とする数か所に殺生禁断の地が設けられ、定期的に放生会が開かれるようになった[1]。聖武天皇の時代には放生により病を免れ寿命を延ばすとの意義が明確にされた[4]。
放生会は、養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として同年あるいは神亀元年(724年)に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した八幡神の託宣により宇佐神宮で放生会を行ったのが嚆矢で[5]、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。
明治元年(1868年)4月24日に神仏分離のため仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府によって禁止され、7月19日には宇佐神宮や石清水八幡宮の放生会は仲秋祭や石清水祭に改めさせられた[6]。本祭開催日も、古来より1200年以上、旧暦8月15日の祭礼として行なわれてきたが、明治の廃仏毀釈により、10月10日(仲秋祭)に変更を余儀なくされた[7]。
現代では収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮(八幡神社)で催される。特に京都府の石清水八幡宮や福岡県の筥崎宮のもの(筥崎宮では「ほうじょうや」と呼ぶ)は、それぞれ三勅祭、博多三大祭の一つに数えられ多くの観光客を集める祭儀としても知られている。また、これらの行事にはウナギの取扱業者やフグの調理師などが参加する姿が見られる[1]。
寺院
- 例年4月17日[1]。寺の南にある猿沢池が放生池とされ、桶に入った鯉や金魚などを池に放す[1]。興福寺は石清水八幡宮の放生会にも参加しているが、興福寺内で行なわれる春は仏教、石清水八幡宮で行なわれる秋は神仏習合の名残としての儀式である。
- 東京早稲田にある放生寺(ほうしょうじ)は穴八幡宮の旧別当寺で、寺号に「放生」の名を持つ。この寺号は、開創当時より徳川将軍家より厚い崇信を受け、慶安2年(1649年)、徳川3代目将軍家光より「威盛院光松山放生会寺」という寺号を受けたものである(寺紋に葵の御紋を使用することも許されている)。
- 放生会法要は、その開創当時から行われていたと伝えられ、現在は毎年体育の日に、日々食事で魚介、鳥、動物などの命をいただくことに感謝をする「放生供養法要」を厳修し、境内の放生池に金魚を放流する。
- よく放生寺ではペット供養が行われているといわれているが、これは間違いである。
神社
- 日本における放生会の起源であるとされるが、その内容はいくつかの点で独特である。
- 正式には陰暦8月15日であるが、現在は体育の日を最終日とする3日間(土曜日から月曜日)に催される。「仲秋祭」という名に改称されているものの、マスコミや観光客に限らず氏子など関係者も「放生会」と呼んでいる。
- 放生会で放されるのは蜷(巻貝)である(通常は演出効果の意味もあり魚や鳥が使われる)。
- 北九州にある幾つもの神社が神幸に加わり、古宮八幡宮から神体となる銅鏡が奉納されるなど、北部九州の神社が一体となって行なわれる。
- 10年に1度「臨時勅使奉幣祭」と重なる。次回は平成27年(2015年)。
- 例年9月15日に石清水祭の中の儀式として執り行われる。
- 宇佐神宮より八幡神を勧請したのとほぼ同時期に放生会も伝わり、天暦2年には勅祭として執り行われるようになるなど、京都の年中行事の中でも重要な祭の1つであった。しかし明治期の神仏分離によって禁止され、石清水祭として残るものの、伝統の多くが失われていった。
- 平成16年(2004年)、「石清水八幡宮放生大会」として有志等の手により137年ぶりに古来からの神仏習合としての儀式が復活し、かつての放生会が推測できるような形での祭が行なわれている。
放ち亀・放ち鳥等
放生会には放ち亀や放ち鳥などの行事が行われる。放生会で亀や魚を逃がすために寺院等に設けられた池を放生池という[1]。
- かつては寺社近隣の河川で行われることもあり、亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕獲してまた新たな客に売るという商売が行われていた。現在の日本では行われていないが、台湾、タイ、インドでは今でも放生用に亀や魚、蛙、貝、鳥などを売る店・業者が存在する。タイ語では人助けを含めて徳を富む行為として「タンブン」と呼ばれる。タイでは放す生き物によりご利益が異なると信じられている。鰻は金運、亀は長寿、小鳥は幸運・幸福などである[9]。
- 江戸時代の放生会は民衆の娯楽としての意味合いが強く、文化4年(1807年)には富岡八幡宮の放生会例大祭に集まった参拝客の重みで永代橋が崩落するという事故も記録されている。
- 小林一茶の「放し亀 蚤も序(ついで)に とばす也」は亀の放生を詠んだ句である。
- 歌川広重の『名所江戸百景 深川万年橋』は亀の放生を描いた絵である。
- 落語『佃祭』には恩が帰るという話の本筋に関連して亀の放生に触れた脚本も有る。
- 落語『後生鰻』は鰻の放生を話の端緒としており、別題を『放生会』という。
- 天正最上の乱において、米沢城の最上義光を包囲した最上義守たちは、総攻撃を仕掛ける予定であったが、義守の側についていた伊達輝宗は放生会を理由に軍勢を引き上げてしまい、総攻撃は中止となった事がある。伊達は既に亘理元宗を通じて、優勢であった義光との和議を進めており、放生会を口実に軍勢を引き上げたと見られている。その後、義光有利の和議が成立し、天正最上の乱は終結した[10]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 歴史の謎を探る会 編 『もっとよくわかる世界の三大宗教』 KAWADE夢文庫、2006年。
- ↑ 『天武天皇紀』。
- ↑ 『聖徳太子伝暦』。
- ↑ 『続日本紀』天平勝宝3年(751)10月壬申(23日)条。
- ↑ 放生会の初めて行われた年を、『政事要略』、『東大寺要録』、『今昔物語集』等は養老4年とし、『八幡宇佐宮御託宣集』は神亀元年とす。他に養老6年に託宣があり神亀4年に斎行したという説もある(『二十二社註式』)。
- ↑ 神社と神道研究会編『八幡神社—歴史と伝説』、勉誠出版、2003年11月 ISBN 978-4585051282。
- ↑ 『八幡神とはなにか』p36飯沼賢司、角川学芸出版, Jun 10, 2004
- ↑ 鶴岡八幡宮 祭りの意味 例大祭
- ↑ 【ご当地Price】バンコク■善行積めるサービス・32円~捕まった生き物逃がしご利益『日経MJ』2017年7月31日アジア・グローバル面
- ↑ “天正最上の乱(5)”. ヤマガタン (2012年2月19日). . 2013閲覧.
参考文献
- 中野幡能『八幡信仰史の研究』(増補版)、吉川弘文館、昭和50年