支那
支那(シナ)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。現代の中国において、この呼称が悪意的、侮蔑的呼称であるとされることもある[1][2]。
Contents
言葉の由来
支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作 "Nuvus Atlas Sinensis" では、中原初の統一王朝秦(拼音: , 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語: Sinae)に由来するとされる[4]。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。
これが一般的な通説とされるが、戦前の日本の地理学者の藤田元春などは反対説を主張している。その諸説によると交易品であった絹糸に由来するもの、民族名である「チャン族」あるいは、「インドから見て辺鄙で遠いところ」との意からきたともいう。なお、このシナの発音が西洋に伝わり、英語の "China" フランス語の "Chine" などの語源ともなったといわれている。
紀元2世紀前後には、インドで中国を指して「チーナ・スターナ "China staana"」と呼んでいた。この表記について徐作生は、1995年に雲南省西部の都市「支那城」に由来するという説を発表している[5]。インド側からポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫して China と呼ぶ。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。
インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ "China staana"」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。
そのため「支那」は、この地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。
用法
「支那」という用語の用法としては以下のようなものがある。
2.の「中華民国」という国家に対する呼称としては、後述のように1930年(昭和5年)に日本に呼称を言い換えるように要請があったほか、すでに第二次世界大戦中、汪兆銘政権への配慮から「支那共和国」に代えて「中華民国」を用いるべきとされ、さらに1946年(昭和21年)、改めて外務省より「中華民国」を用いるよう通達が出されている。ただし民間などで中華人民共和国に対しても支那と呼称する者は存在する。
辛亥革命以前の共和主義運動の中では、漢人民族主義や、清朝の領土のうち漢人の土地の部分(中国本部、チャイナ・プロパー)のみを領土とする国家を追求する主張もみられたが、1911年(明治44年)以降、実際に共和政権が樹立されるにあたっては、モンゴル、チベット、東トルキスタン、満洲などを含む、清朝の遺領をそのまま枠組みとする領域が領土として主張され、また「中国」という多民族国家がこの領域を単位として古来から一貫して存在してきたという歴史認識が採用されることになった。
清朝を打倒して成立した中華民国は、「シナ」だけでなく、その周辺のモンゴル、チベット、東トルキスタン等もその領土として主張したため、厳密に言えば、支那(シナ)と中国は、領域も住人も、その範囲には著しい相違がある。中国では、シナとその周辺の諸地域、諸民族が古くから一体の「中国」を形成してきた、という歴史認識を採用したため、シナの部分だけを指す、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な国号を別途に設けることはしなかった。
その結果、「中国」の一部分である漢民族の土地だけに対し、ことさら「王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称」を別途つけることは行われなかった。これは中華思想において周辺世界は中華世界の辺境に過ぎず異民族「四夷」が跋扈する「化外の地」とみなしており、対等の国家ではありえなかった。
そのため、歴代皇帝が統治する王朝名は存在するが、その中華秩序による国家体制概念を指し示す国家名を必要としなかった。そのため、中国においては上記1.2.のうち、1.の用法で用いられる「支那」と置換可能な呼称も概念も作られることなく、現在に至っている。
歴史
日本における使用の歴史
日本において、「支那」の言葉が入ったのは、隋と同様に漢訳仏典を通じてであった。平安時代の高僧空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられた例[7]が確認できる。京都東福寺蔵の重要文化財にも「支那禅刹図式」(南宋作)がある。鎌倉時代には虎関師錬の元亨釈書・王臣伝論に「彼の支那は葱嶺の東」と見える。室町時代の僧万里集九の「山谷先生を祭る文」にも見える[8]。江戸初期の卍元師蛮『本朝高僧伝』巻一「釈福亮伝」には「支那に入って嘉祥師に謁し」とある。更に江戸時代初期には世界の中にこの地域を位置づける場合に「支那」の呼称が用いられた例を見ることが出来る。江戸初期『西洋紀聞』はキリスト教が禁止されていた日本に布教目的で潜入して捕らえられたイタリア人シドッチに対して新井白石が行った尋問の記録であるが、シドッチの日本上陸(1708年(宝永5年))および翌年の尋問を1725年(享保10年)頃までに完成させたものであり、その中ではアジア、アメリカ、ヨーロッパなどと並べて「支那」の記述が発見できる[9]。江戸中期の富永仲基『出定後語』や[10]、江戸中期の僧大玄の『淨土頌義鈔探玄鈔』[11]や、僧覚深『摩多羅私考』や[12]、佐藤信淵が1823年(文政6年)に著した『混同秘策』でも「支那」が用いられている。
江戸後期には「支那」と同じく梵語から取った「China」などの訳語としても定着した。幕末の洋学者佐藤元萇は六大陸と対比して支那を論じる[13]。幕末の英語辞書『増訂華英通語』の万延元年の福澤諭吉凡例では英語と中国語との対比で「支那」が使われている[14]。特に明治期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての、この地域の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えることが行われた(例:「漢文学」→「支那文学」)。日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐、漢、唐土」の文字を用いて「とう、から、もろこし」等と読んできたが、明治以前の文献調查では日本と中国対置すると呼んだ例が複数存在する[15]。
明治政府が清と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。学術分野では、伝統的には「漢」の文字を用いて「漢学」「漢文」等の呼称が用いられてきたが、明治中葉より、漢人の国家やその文化に対して「支那」が用いられるようになった。ただし「漢人」「漢民族」の定義は不確定であり学術的に確定しているわけではなかった。
日本は1876年(明治9年)以降、清国内に日本の郵便網を整備し郵便局(在中国郵便局)を設置した。これは欧米列強と同様に清国内で近代的郵便制度が未整備であった為であるが、19世紀末に清国政府による大清郵政が創業してからも存続していた。当初は日本国内と同様に日本切手を現地通貨で販売していたが、価値の低い清国通貨で購入した切手を日本本土に送る投機が行われるようになった。そのため1900年(明治33年)以降は日本国内で使えなくするため加刷切手に切り替えた。この時の加刷切手に地域名として「支那」を用いている。これは欧米列強が中国で発行した切手が国号の"Ch'ing"ではなく"China"(英米)を用いたのと同様であった。この切手もまた日本では支那は国家名ではなく地域名として用いられていたことを表している。
当初「支那」は同様に歴然として辱めた意がなかった。中華民国成立以前の日本公文書においてもいくつか支那の使用例は存在する[5]。しかし佐藤三郎は、この時期の中国人がアヘン戦争の敗北や改革の遅れなどにより「惰弱・因循姑息・驕慢不遜・無能・不潔」といった印象を持たれており、同時期に普及した「支那」の語がそれに結びつけられるようになったと指摘し、実藤恵秀も日清戦争後には日本人の「支那」という言葉には軽蔑が交じっていたと指摘している[16]。
近世から20世紀初期までの中国における使用例
19世紀末まで、中国大陸は清朝(満洲族)の統治下にあり、明治の日本以来は中国を清国と称し、その国民を清国人と呼んだ。清朝末期に共和主義運動が広まるにつれ、中国人共和主義者たちの間で、清国、清国人という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解の人たちから、清朝を共和制にかわる、未来建てる共和国の呼称についての模索が開始された。また中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が主に仏教文献で広く使われてきた。
清の末期(19世紀末 - 1911年(明治44年))の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、自称の一つとして用いられた一時期がある[17]。また、中華民国建国の父とされる孫文は1910年(明治43年)に「支那暗殺團」を設立している[18]。
王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な固有名詞の呼称のひとつとして古来の「支那」という呼称を選び取り、満洲族による清朝支配体制からの脱却を目指す革命家などの手で一時期広く使用された。たとえばもっとも早期から反清蜂起を繰り返してきた共和主義革命家孫文の前半生を紹介した宮崎滔天の『三十三年之夢』に孫文がよせた前書きでは、中国の呼称として、いくつかの名称と並んで支那の呼称が使用されている。日本の東京に留学していた宋教仁は機関誌の題目を「二十世紀之支那」としていた。また孫文(孫中山)の協力者であった日本人の梅屋庄吉が辛亥革命成功後に「支那共和国公認期成同盟会」を結成している。この時の額は広州にある孫中山記念館で保存されている。1902年には、日本に亡命していた中国人共和主義者たちが、上野精養軒で「支那亡国二百四十二年記念会」を企画した。
1911年の新国家の国号候補にもあがっている(最終的には「中華民国」が採用された)[19]。
中華民国成立後
梁啓超は1901年(明治34年)に『中国史叙論』において「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華は自尊自大の気味があるとしながら「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べている。
近代主権国家への性向をもつ政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも「中国」であって、この時期に次第に国名として定着しつつあった[20]。辛亥革命を経て成立した中華民国の国号について、日本政府は正式な国名を使用せず伊集院彦吉駐清公使の進言[21][22]による「支那」を採用した。
于紅によれば、これは近代日本の対中大陸政策を表徴するものであり、日中関係の不対等化を意味していたとする[23]。日本政府は中国政府と締結する条約の文面など、正式呼称を用いることが不可欠な場合を除き、この共和国に対する呼称を「支那共和国」と称することを定めた[24]。
以上の結果、日本における「支那」という呼称は、以下の2つの概念に対する呼称として使用されることになった。馬廷亮駐日代理公使からは「中華民国」を使うようにという抗議があったが、牧野伸顕外務大臣はすでに官報に告示済であり、訂正しがたいと回答している[25]。ただし両国間で往復する公文書に際しては、日本文では「支那共和国」、漢文では「中華民国」が用いられることとされた[25]。
国民党の北伐が完了し、国権回復運動が盛んになると、日本が用いる「支那共和国」という呼称に対する反発は再び強まった[26]。1930年(昭和5年)5月27日、中華民国は外交部に対し、「支那」と表記された公文書を受け取らないように訓令を発した[27]。中華民国中央政治会議による決議を受けて、中華民国外交部(外務省)が、英語による国号表記を“Republic of China (ROC)”とする一方で、中文表記を「大中華民国」であるとし、日本国政府に対し「支那の呼称を使わないよう」に申し入れてきた。
その理由として「支那という言葉の意味は大変不明確で、現在の中国とはなんら関係ない」というものであった。そのため、10月31日「支那国号ノ呼称ニ関スル件」という閣議決定で[28][29]、「これまでは外交文書で「中華民国」と書く必要のあるものを除いて通常文書では「清国」のことを「支那」と記載してきたが、当初から中華民国側は支那という呼称を好ましくないとしていたし、特に最近は中華民国の官僚や民衆が不満を表明することが多くなっているので、その理由の如何はさておいて、中華民国政府からの正式な申し入れはないけれども、今後は「支那国」ではなく「中華民国」と書くことにする。」と決定した。
この決定は「中華」が、かつての中華思想に基づくものであると見て、日本の知識人などには強い反発を持つ者も少なくなく[30]、外務大臣幣原喜重郎の「軟弱外交の証拠」であるとして、批判の対象となった[31]。
事変から戦後の状況
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を端緒とする中国国内における戦い(日中戦争)について、大日本帝国政府は「今回の事変を支那事変と呼称する」と決定した[32]。ここで戦争とせず事変としたのは宣戦布告によって戦時国際法に拘束されることを日華両国が望まなかったためである(宣戦布告した場合、中立国から武器を輸入することが出来なくなるなどの問題が起きるため)。
当時の日本では「支那」ないし「支那人」の呼称が一般的であったが、支那という言葉は、日清戦争以降、日支親善などと両国の頭文字を使って用いることもあった[33]。中国政府や中国人を非難するときにたびたびセットで使われた。このような表現としては「暴戻(ぼうれい)支那」や「暴支膺懲」等があった[34]。戦時中の中国人に対する蔑称としては「チナ」「ポコペン」「チャンコロ」などがあった。
中華民国が連合国の一員として第二次世界大戦の戦勝国になると、蒋介石は日本に対し、「今後は我が国を中華民国と呼び、略称は中国とするよう」主張した[35]。1946年(昭和21年)6月13日公表(6月6日通達)の「支那の呼称を避けることに関する件」という外務次官通達が行われ、「中華民国の呼称に関する件」という外務省総務局長通達を公告した。
これ以後、外務次官の通達により、放送・出版物においては、中国のことを支那と呼称することを自粛することになった。その理由として、中華民国の代表者から公式非公式に「支那」の字の使用をやめてほしいとの要求があったので、今後は理屈抜きにして、先方の嫌がる文字を使わないようにしたいとしている。
日本人が「支那」と呼んでいた事について、蒋介石中華民国総統は、対日戦の最中の対日言論集の中で「彼ら(日本人)は中国を支那と呼んでいる。この支那とはどういう意味であろうか。これは死にかかった人間の意である」と述べており[36]、中華民国指導者層には「支那」には侮蔑の意があると受け取っている者もいた。
なお、漢字で「中国」と表記されるようになったが、発音までは強制されなかったため、日本語読みで「ちゅうごく」[37]と呼ぶようになった。
そのため、当時大学にあった「支那哲学」といった教科名の変更が文部省(現在の文部科学省)から求められたほか、郵政省(現在の日本郵政)も国際郵便で旧「満洲国」地域は「中華民国東北」、「支那」「北支」「中支」「南支」と呼んでいた地域に「中華民国」と書いていなければ、郵便局では引き受けないと発表している[38]。
また、当時の内閣総理大臣吉田茂が国会答弁で「支那」と呼称した事に対し、野党から批判を受けた事に対し、中国文学者として著名であった青木正児が「悪い名称ではなかったから、吉田茂首相が使うのは問題にしないでほしい」という事を、朝日新聞に寄稿した[39]ところ、当時経済貿易新聞社主幹であった劉勝光は「日清戦争以後の教育方針が侮中国的であり「支那」という文字を見ると日本の軍閥・帝国主義を想起する」として、中国にはない単語であり、日本人による著作以外には存在しないなどと批判した[36]。
この点につき、加藤徹は「日本国政府が『支那共和国』という独自の呼称にこだわったのは(中略)1930年までだった。以後は、公文書のなかで『中華民国』という国名を使うようになった。既に第二次大戦中に、日本政府は、南京の中華民国政府(汪兆銘政権。日本と友好関係にあった。重慶の蒋介石政権とは別)の要請を受け、今後、段階的に『支那』という呼称をやめてゆくことを約束した。もし仮に、日本が第二次世界大戦で戦勝国となっても、『支那』は廃語となったろう」とする[40]。
現代の日本の状況
戦後、「日支事変」ないし「支那」といった表現が使われる場合[41]も少なくなかったが、21世紀現在の日本において、「支那」「支那人」が使用される頻度は少なくなり、一般的には「中国」「中国人」に取って代わられている。
現在、略称で「中」とする場合は、中国本土を支配する中国共産党の毛沢東政権による中華人民共和国を意味するが、「華」とする場合は、台湾に逃れた中華民国政府を意味する慣習がある[42]。そのため、日本政府が中国大陸を代表する中国政府として中華人民共和国ではなく台湾の中華民国を承認していた時期に、日本では二国間に対し前者を「日中」、後者を「日華」と表記していた。
なお中華人民共和国との国交がなかった時期には、日本では未承認国家ということで「中共」(中国共産党の意)といった略称が普通に使われていた[43]。また中華民国政府のことを「中国国府政府」(中国国民党政権の意)といった表現もあったが、いずれにしても「支那」が使われることはなくなった。
Microsoft Windowsに使用されているMicrosoft IMEや、ATOKなどの日本語入力システムでは、出荷時に「支那」という単語が辞書登録されておらず、初期状態では「しな」を「支那」に漢字変換出来ない。また読売新聞社が刊行した読売新聞紙面データを収めた「明治・大正・昭和の読売新聞」でデータベース検索する場合、原典の記事で、「支那」「支那人」「北支」と表現している場合、固有名詞で「支那派遣軍」とある場合を除き、「中国」「中国人」「華北」と表示される。
文化・学術・言論での使用
学術的な使用
一方で、学術的に漢字表記ではない片仮名「シナ」が現代でも用いられる場合が少なくない。言語学では、「シナ・チベット語族」などの学術用語が、標準表記として使われている。また、地理においても「東シナ海」(en:East China Sea)・「南シナ海」(en:South China Sea)・「インドシナ半島」(en:Indochina)が使われている。そして、「中国」という呼称は、「シナとその周辺の諸地域からなる多民族国家の呼称」であって、漢民族だけの固有の土地、言語等に冠することはできない、英語の「チャイナ」、フランス語の「シーヌ」ドイツ語の「ヒーナ」、ラテン語の「シナエ」、ポルトガル語の「シナ」等に対応する日本語の呼称は「支那(シナ)」であるという立場から、いわゆる中国語に対して「支那語」「シナ語」と呼称する研究者もいる。
日本の歴史学会では明治時代から、「支那」は東アジア地区の、黄河、長江流域を主たる国土を実効的に支配する部族、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な地域名称、国号として使用された。東京大学や京都大学に設けられた支那史専攻は、この地域国家の歴史を研究対象とする専攻である。日本の東洋史学界では、北アジアの遊牧民や、チベット、東トルキスタン、中央アジア、西アジアは「塞外」というカテゴリーに括られ、支那史とは別範疇に属していた。
日本の東洋史学界では、第二次世界大戦以後、中華民国に対して理屈は抜きにして「支那」という呼称を使うべきでないという外務省通達が出た後も、長らく「支那(シナ)」という呼称を使い続ける研究者もいた。榎一雄は、その晩年に至るまで、一貫して自身の用語としては「支那」の用語を用い続けた。
1992年(平成4年)に朝日新聞社から刊行された『地域からの世界史』シリーズの第6巻『内陸アジア』では、モンゴル史の専門家中見立夫が、上述の漢人国家と中国概念のズレについて考察したのち、
近代世界におけるモンゴル民族やチベット民族の歩みを跡づけると、「中国」という概念の問題が浮かび上がる。これらの民族には、少なくとも清朝崩壊の段階では、漢人が居住する地域といった意味での「中国」という言葉はあった。誤解を恐れずに書くならば、「シナ」(この場合、おおむねモンゴルやチベットは含まれない)という地域概念はあった。しかし、漢人たちが抱くような、多民族の共同体、歴史的な存在としての「中国」という概念は欠如していた。 — 地域からの世界史第六巻, 中見立夫
という文脈で「シナ」という語を使用している[44]。
田中克彦は、オットー・メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』の日本語翻訳版を出版しているが、この中で敢えて「シナ」を用いている。田中によれば「国家と民族は厳密に区別すべき」として「言語は国家ではなく民族と結びつくものであり、中国といえば多民族国家としての略称であって、国民を表す中国人とシナは別々に使うべきである」と主張している[45]。
木村光彦(青山学院大学教授)は、福澤諭吉の『学問のすゝめ』の支那表記は、現代日本語版では中国と言い換えらているが、福澤諭吉が『学問のすゝめ』を書いた当時は、中国という国家は存在しないため、支那と書くのは当然であり、中国と言い換えるのは「徳川家康が東京に幕府を開いた」と奇妙な事を言ってるに等しく、歴史上の用語を抹殺するかのような風潮には疑問を感じるとして、中華民国成立以後を CHINA と表記している[46]。その上で「この言葉は支那と同根であるが、なぜか誰も文句を言わない。それどころか、かの国自身、英語表記として使用しているのが可笑しい」と述べている。そしてロシアでは CHINA を「キタイ」といい、かつての漢族の北狄・契丹に由来するが、習近平は気にならないのだろうかと述べている[46]。
岡田英弘は、19世紀以前の隣の大陸(中国という国がないため、大陸という地理的概念で説明するしかない)を「中国と呼ぶのはおかしい」として、シナを使用する理由を以下のように述べている[47]。
中華民国は1912年、中華人民共和国は1949年にできたのであって、それ以前に中国という国はありません。「中国」と呼ぶから、大昔から今につながる不変・悠久の歴史を思い浮かべてしまう。しかし、実際には、「中国」はその領土も、そこに生きる人々も、王朝も、時代ごとに大きく違っている。滅亡と断絶、人間の大移動と入れ替わりが、あの国の歴史なのです。ここでは正しい歴史は記述できないので、19世紀以前の隣の大陸や文明には「シナ」という言葉を使うようにしています。これは英語の「CHINA」と同じく、秦の始皇帝の「秦」が語源で、新井白石が、イタリアの宣教師シドッティが語った内容に基づいて、古い漢訳仏典から「支那」の文字を探し出したものです。同様に、19世紀までは「中国人」もいなかったので、原則として「漢人」と表記しています。 — 『文藝春秋SPECIAL 2016年夏号、p60-p61
生物・植物学の分野でも、戦前に命名されたシナイタチアナグマ、シナレンギョウなどシナを用いた和名は用いられており、学名についても同様である。ただし、チュウゴクモクズガニのようにかつては「シナモクズガニ」と呼ばれるのが主流であったものが、「チュウゴク」が主流となる例もある[48]。
このように、学術界における「支那(シナ)」の使用は、
等に起因するものであり、使用者側の政治的立場との関連性は見られない[49]。
言論での使用
一方で、中国を指して「支那」もしくは「シナ」という単語を、敢えて用いる論者も存在している。渡部昇一などの右派言論人を始め、酒井信彦も「シナ蔑称説は、意図的に作り上げられた神話・妄説に過ぎ」ず、むしろ「中国あるいは中華と言う表現こそ、シナ人の他民族に対する侵略行為を正当化する用語である」と主張している[50]。
日本で中華人民共和国を「シナ」と表現する政治家として、石原慎太郎がいる。石原は、1999年(平成11年)3月10日の東京都知事選出馬表明の記者会見で「シナは、清が滅んで中国大陸が混乱した時、孫文がつくった言葉だ。孫文は台湾でも大陸でも国父として尊敬されている。なぜ日本人が使うと差別になるのか、さっぱりわからない」と、その理由を語っている[51][52]。
小林よしのりは、自身の著書で「シナ」を使っているが著書内で「『シナ』は差別語ではない『秦』を語源とする。『チャイナ』と同じ中国を歴史的に見る名称である」や「ここで統一された『シナ』には満州も、チベットも、ウイグルも、内モンゴルも、台湾も、含まれていない」(著書からの引用)としている。この為、中国に存在した王朝を「シナ王朝」と表現したりしている[53]。また、小林と有本香の共著『はじめての支那論-中華思想の正体と日本の覚悟』(幻冬舎)の本の帯には、「ウザい隣国・中国は『支那』と呼ぶべし。」などと書かれている[54]。
言論界においても、主に右派で使われることが多く、例えば2008年のチベット騒乱を受けて発刊された西村幸祐編の『チベット大虐殺の真実—FREE TIBET!チベットを救え!』(オークラ出版)がある。この書籍では中国共産党政権によるチベット弾圧に批判的な論者による批判が掲載されているが、多くの論者[55]が「シナ」を用いている。
また、北朝鮮に対する日本政府対応を批判する建国義勇軍が、新聞社や親中派の野中広務に弾丸と一緒に送りつけた犯行声明文では「支那、朝鮮の国益を守り、善良なる日本国民の嫌悪感、怒りを高めた」などと書いていた[56]。そのため、これらの「シナ」を使う一部の論者は、中国共産党政権批判とセットとなっていることから、「中国」の呼称を用いたくないから使う傾向があるともいえる。
インターネット上では、中国に反感を持つ層が「シナ」を使う例が多い。フリーライターで「プロ2ちゃんねらー」を自称する中宮崇が、ヤフーチャットで他人を蔑むために使う常套句のひとつに「支那土人」があるが、中宮は「支那土人政府は、日本のインターネットにも大量の支那土人工作員を派遣して、プロパガンダ活動を行なっている」などと主張しており[57]、前述の石原慎太郎が駄目であるとする「支那」を用いている。一方で田中克彦は、保守主義者の使う国家としての中国を国名を使わず「シナ」というのは、誤用であると指摘している[45]。
中国における反応
日本外務省における「支那共和国」表記の採用直後に、中華民国外交部が馬廷亮駐日代理公使に訂正を求めるよう訓令を出したことからもあるように[25]、日本側が国名呼称として「支那」を採用したことは反感の元となった。宜昌郵便局が日本からの郵便物の帯紙にある「支那」の文字を抹消し、抗議文を書いた事例や、日本に来た中国人留学生の手記をまとめた『東遊揮汗録』で批判された事例がある[16]。一方で義和団の乱の前後に新聞記者として来日していたこともある狄葆賢は「支那という名称は恥じるに足らず、中華民国などの国号を用いるよりは広義ですぐれている」と主張していた。それによると仏典で支那の意は思慮深いというものであり、交易国家としての賛美の意であったというものであったという。
国権回復運動期の楊煕績中華民国文書局長は「支那という呼称は中華民国を清国以下であると形容したもの」「我が国が公文書に倭奴国(中国で用いられる日本人の蔑称)と書いたら日本側は受け取りはしないだろう」と、「無礼な字句」であると非難している[58]。胡漢民立法院長もまた、中国はすでに「支那」ではないと非難を行った[27]。同時期の新聞においても日本側の対応を批判する記事が掲載されている[27]。
また戦後においても支那を使用する石原慎太郎に対して、朱建栄は「日本が中国を侵略した時に差別の言葉として使ったのは間違いない。外交上の配慮が少しでもあれば、当の中国が嫌がっている言葉で呼ぶことは考えられない」と批判した[59]。
加藤徹は「中国人が『支那』という日本語に違和感を感ずるのは、同じ漢字文化圏の国だからである。互いの自称を漢字で書けば、そのまま意味が通じるのに、日本人はわざわざ『支那共和国』という国名を作った。中国人はそこに、悪意と屈辱を感じたのだ。国どうしでも個人どうしでも、対等の関係なら、相手の自称を認めるのがマナーであろう」と指摘している[60]。評論家の八幡和郎は、著書の中で「支那といっても抗議される由縁はないはずだが、あえて相手の嫌がる呼称を使うこともない。それが大人の対応だ」と述べている[61]。
中国メディアの「今日頭条」は南北朝時代から日本人にとって数百年間「中国」という言葉は日本の本州西部に位置する山陰地方・山陽地方有する中国地方だったと指摘し、1912年に登場した中華民国、現在で「中国」と聞いて大陸にある地域や国家、中華人民共和国を想起するようになったのは戦後からだと指摘している[62]。
また英語の「チャイナ」など、多くの言語では「シナ」と同じ語源を持つ呼称が用いられていることを理由に、あえて「支那(シナ)」を使う人もいる。小谷野敦も自身の著書で、インドシナ(印度・支那)を含む東南アジアで中国に対してシナ系の呼称を用いることを挙げ、王朝時代を含む中国の歴史・文化に対して「シナ」と呼んでいる[63]。
文化的な使用
中国からの輸入品の中にも「支那」を記した物がある。かつては支那刀や支那綿、支那大根など多くの呼称に用いられたが、現在でも通用する呼称は支那竹(メンマ)や支那そば(ラーメン)など極めて限られており、その使用も減少しつつある。なおラーメンは、拉麺をベースに日本で発展した料理である(⇒日本におけるラーメンの歴史参照)。
堀田貢得の『実例・差別表現 あらゆる情報発信者のためのケーススタディ』によれば、出版界では「支那」は戦中に多くの日本人が侮辱の感情を込めて使ったため、現在は使わないと主張されている。よって「支那服」は「中国服」、「支那そば」は「中華そば」「ラーメン」、「支那料理」は「中華料理」「中国料理」、「支那事変」「日支事変」「日華事変」は「日中戦争」と表記するとされている。また「東シナ海」「南シナ海」については「東中国海」「南中国海」との表記が一般的になるのを待って採用すると主張されている[64]。
脚注
- ↑ Bob Tadashi Wakabayashi, "The Nanking Atrocity, 1937-38: Complicating the Picture" (2007), Berghahn Books, p395-398
- ↑ http://www.sino-platonic.org/complete/spp229_shina_china.pdf
- ↑ 中華民国は社会主義化していたモンゴルの独立を認めていなかった。
- ↑ 下中 1938、485頁
- ↑ 5.0 5.1 于紅 2002, pp. 104.
- ↑ 東京帝国大学では、東洋史専攻をさらに支那・塞外・西域・朝鮮に細分化していた。
- ↑ 『世界大百科事典』12(シ-シヤ)、平凡社、2007-09、改訂新版。ISBN 978-4-582-03400-4。『性霊集』原文は「摩竭鷲峰釈迦居、支那台岳曼殊廬」(摩竭の鷲峰は釈迦の居、支那の台岳は曼殊の廬)である。現代語訳は「マガダ国の霊鷲山は釈迦の家であり、支那の五台山は文殊菩薩の家」である。
- ↑ 万里集九の「山谷先生を祭る文」に「支那扶桑、其の域異なると雖も、祭らざるべからざるは、宋興って以来一人のみ」とある。『五山禅僧詩文集』13。『五山文学用語辞典』13ページ、市木武雄編、続群書類従完成会、2002年。
- ↑ 『明治の日本が作り出した新しい言語』小関武史(一橋法学2004-11 一橋大学機関リポジトリ)[1]PDF.P.6-7
- ↑ 富永仲基『出定後語』「三蔵阿毘曇修多羅伽陀第五」には「支那の教学、必ずこれを操縵に託す」とあり、同書「言有三物第十一」には「真丹・震旦・支那・指難また同じ、琳師云わく、東方は震に属すと、また字に因って解を生ず、笑うべし」とある。早稲田大学蔵、高橋昌長写本、http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01577/bunko01_01577_p0017.jpg、http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01577/bunko01_01577_p0031.jpg。
- ↑ 「随自顕宗・随他扶宗について : 大玄『浄土頌義探玄鈔』を中心に」東海林良昌著、佛教大学総合研究所紀要16, pp.281-294, 2009-03-25、http://ci.nii.ac.jp/naid/110007974193
- ↑ 覚深『摩多羅私考』には「天竺・支那・扶桑の神なりや」「支那の神にあらず」という語が見える。
- ↑ 長久保赤水「唐土歴代州郡沿革図」の安政2年佐藤元萇跋文に「世の論者ややもすれば輙ち曰く、支那と我と相い唇歯となすと、これ必ずしも然らず……六大洲の浩々たる、満清を継いで王たる者また何の姓なるを知らず」と言う。
- ↑ 『増訂華英通語』の福澤諭吉の凡例に「学者自非諳支那音」云々とある。現代語訳は、「学ぶ者、支那の音を諳ずるに非ざるよりは」である。 子卿 『増訂華英通語』 福澤諭吉訳、快堂蔵板、1860年。
- ↑ 間宮林蔵述村上貞助編『東韃紀行』国立公文書館デシタルアーカイブ 東韃地方紀行 中巻(文化八年(1811年)筆原本画像)の最終頁に「中国」の呼称が複数登場し、「日本と中国」ともある。日本と中国が対置する概念として記載されている。なお、同書に掲載されている清朝役人の名刺は「大清国」である。
- ↑ 16.0 16.1 于紅 2002, pp. 84.
- ↑ 孫文が宮崎滔天『三十三年之夢』に寄せた序文
- ↑ “「支那暗殺團」笑看飯統” (中国語). 自由時報 (Liberty Times). (2011年5月2日) . 2012閲覧.
- ↑ 清帝国 p164,増井経夫,1974年
- ↑ 外務省「日中歴史共同研究」[2]PDF-P.213
- ↑ 「中華民国ナル名称ハ現共和国ノ国号ニ付承認後ニ於ケル公式ノ文書即チ条約国書等彼我往復ノ文書中特ニ国名全部ヲ記スル場合ハ斯ク認ムルヲ要スレトモ帝国部内ニ於テハ中華民国ト称スルノ要ナカルヘク」と稟申し、中国では歴朝の国号により呼称を変えるが欧米は関係なくChina等の地理的名詞を使用していること、日本で一般言語として支那と称していることを挙げ、欧米にならって支那という地理的名詞を使って正式な公文書を記録すべきであり「今後国号ノ更改如何セス我ニ於テハ「支那」ト称スルニ敢テ差支ナカルヘクト存候」と上申した。「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題」于紅(お茶の水史学2002.11)[3][4]PDF-P.5
- ↑ 于紅 2002, pp. 81-82.
- ↑ 于紅 2002, pp. 79.
- ↑ 1913年6月閣議、7月11日「公文上支那国名決定ニ関スル件」『日本外交文書』大正2年
- ↑ 25.0 25.1 25.2 于紅 2002, pp. 83.
- ↑ 于紅 2002, pp. 86.
- ↑ 27.0 27.1 27.2 于紅 2002, pp. 87.
- ↑ 国立国会図書館議会官庁資料室 1930年(昭和5年)10月31日閣議決定「支那国号ノ呼称ニ関スル件」
- ↑ 外務省「第二次外相時代-幣原外交終焉の時」
- ↑ 于紅 2002, pp. 85.
- ↑ 于紅 2002, pp. 98-99.
- ↑ 国立国会図書館議会官庁資料室 1937年(昭和12年)9月2日閣議決定「事変呼称ニ関スル件」
- ↑ “居留民団長らと朗らかな交歓 法人の活躍振りを聴く上海 本社日支国際電話の第一声”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年2月16日). . 2011閲覧.
- ↑ ここでは「暴戻:残酷で徳義にもとる」「暴・膺懲:乱暴(な者)を懲らしめる」の意味であり、支那(支)そのものは固有名詞にすぎない。
- ↑ 有本香「他国は「China」と呼ぶも日本だけ「中国」と呼ばせられる」、『SAPIO』2012年4月25日号、NEWSポストセブン、2011年4月20日、. 2013閲覧.
- ↑ 36.0 36.1 朝日新聞1952年12月30日朝刊
- ↑ 「中国」は現代中国語の発音記号でzhōngguó、国際音声記号では[t͡sʊŋ˥ kuo˧˥]と表記され、かな文字化すると"チュンクォ"になる
- ↑ 朝日新聞1947年11月9日朝刊
- ↑ 朝日新聞1952年12月17日朝刊
- ↑ 加藤徹 『貝と羊の中国人』 新潮社〈新潮新書〉、2006-06。ISBN 4-10-610169-6。
- ↑ 戦後のかなり経過した書籍であっても、広島県町村会編「広島町村会50年史」(1971年発刊)のように、「日支事変」といった表現がある事例もある。
- ↑ 1952年に蒋介石政権との間で締結された「日本国と中華民国との間の平和条約」は日華平和条約と呼ばれる。
- ↑ たとえば1964年2月18日に参議院外務委員会において中国問題を扱った当時の大平正芳外務大臣の答弁は、全て「中共」である。
- ↑ 中見立夫 「モンゴルとチベット」『内陸アジア』 朝日新聞社〈地域からの世界史 第6巻〉、1992-07。ISBN 4-02-258501-3。
- ↑ 45.0 45.1 朝日新聞2003年6月3日朝刊
- ↑ 46.0 46.1 木村光彦 『日本帝国と東アジア』 統計研究会『学際』第1号、2016。p49、p50
- ↑ 岡田英弘・宮脇淳子「もう騙されない これが中国史の正体だ」『文藝春秋SPECIAL 2016年夏号』文藝春秋、2016/07/01
- ↑ チュウゴクモクズガニ - コトバンク
- ↑ 東洋史学における例、言語学における事例を参照。
- ↑ 酒井信彦 (2004年2月24日). “中国・中華は侵略用語である ― シナ侵略主義の論理構造 ―”. 財団法人・日本学協会『日本』 平成16年(2004)2月号. 日本ナショナリズム研究所. . 2010閲覧.
- ↑ 朝日新聞1999年3月13日夕刊「窓」
- ↑ 中国新聞1999年3月11日朝刊『石原氏、中国を「シナ」と表現』
- ↑ 小林よしのり 『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』 pp.277・278
- ↑ 日本文化チャンネル桜公式サイト・出版メディア紹介
- ↑ 編集者の西村幸祐のほか主に右派論客とされる、畠奈津子、中宮崇などの寄稿が「シナ」を使っている。ただし批判的な論者でも青木直人などは「中国」としている。
- ↑ 朝日新聞2003年9月13日朝刊
- ↑ 昨日の日記 支那土人、同胞殺して金メダル 中宮崇の世相日記「些事争論」2008年8月23日
- ↑ 于紅 2002, pp. 86-87.
- ↑ 中国新聞1999年3月11日朝刊『石原氏、中国を「シナ」と表現』
- ↑ 加藤徹 『貝と羊の中国人』 新潮社〈新潮新書〉、2006-06。ISBN 4-10-610169-6。
- ↑ 八幡和郎 『全世界200国おもしろ辛口通信簿 歴史・国民性・文化の真実』 講談社〈講談社+α文庫〉、2008-08。ISBN 978-4-06-281220-7。
- ↑ “日本における「中国」、山陽・山陰地方の意味から現在の意味に変化した理由”. レコードチャイナ. . 2018/06/25閲覧.
- ↑ 小谷野敦 『天皇制批判の常識』 洋泉社〈新書y 231〉、2010-02。ISBN 978-4-86248-517-5。
- ↑ ジャーナリスト堀田貢得によれば、「語源に差別の要素はないが、日本と中国との戦争中に多くの日本人が侮辱の感情を込めて用いたので、不適切な表現ではないとの反論はしがたく、公的場所での使用はほとんどない」とされる。堀田貢得 『実例・差別表現 あらゆる情報発信者のためのケーススタディ』 ソフトバンククリエイティブ、2008年、改訂版、pp.214-220。ISBN 978-4-7973-4661-9。
参考文献
- 『東洋歴史大辞典』第4巻 シナーシンセ、下中彌三郎編、平凡社、1938年。
- 『東洋歴史大辞典』中巻 しな〜とん、下中彌三郎編、臨川書店、1986-10。ISBN 4-653-01469-8。 - 平凡社(1937年 - 1939年刊)の縮刷複製。
- 于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題 : 「支那共和国」から「中華民国」へ(研究)」 (pdf) 、『お茶の水史学』第46巻、お茶の水女子大学、2002年、 79-108頁、 NAID 110005944261、. 2015閲覧.
関連項目
外部リンク
- 周程 『“支那”与“sina”―亦谈新浪网域名的是与非』(中国語)(『支那とsina―新浪のドメイン名の是非を論じる』)
- 日本共産党 「シナ」という言葉が差別的とは?
- 鈴木秀明編集「日中勘違い:「支那」という言葉について考える (1)(2)(3)(4)」 サーチナ 2009年3月19日〜4月9日。
- 外務省外交史料Q&A 「戦前に、中国の呼称を「支那」から「中華民国」に変更した経緯を示す記録はありますか。」