撫順市
中華人民共和国 遼寧省 撫順市 | |
---|---|
略称:撫 | |
別称:煤都 | |
旧称:撫西[1] | |
遼寧省中の撫順市の位置 | |
中心座標 東経123度54分0秒北緯41.86667度 東経123.9度 | |
簡体字 | 抚顺 |
繁体字 | 撫順 |
拼音 | Fǔshùn |
カタカナ転写 | フーシュン |
国家 | 中華人民共和国 |
省 | 遼寧 |
行政級別 | 地級市 |
政府所在地 | 順城区 |
市委書記 | 高宏彬 |
市長 | 葛海鷹 |
面積 | |
総面積 | 11,272 km² |
市区 | 1416 km² |
人口 | |
総人口(2015) | 207 万人 |
経済 | |
電話番号 | 24 |
郵便番号 | 113008 |
ナンバープレート | 遼D |
行政区画代碼 | 210400 |
市樹 | 杏樹 |
市花 | 玫瑰 |
公式ウェブサイト: http://www.fushun.com.cn/ |
撫順市(ぶじゅん-し、満州語:ᠸᡠᠰᡞまたはᡶᡠᡧᡠᠨ 転写:fusi/fušun[2])は、中華人民共和国遼寧省に位置する地級市。
Contents
地理
撫順市は遼寧省北部に位置し、瀋陽市からの距離は約45kmと、省都の衛星都市として機能している。かつての炭鉱都市で、市内には渓谷のように巨大な露天掘り炭鉱跡が現在も残されている。
渾河に沿って伸びる市街地は南北と東を山に囲まれた平野にあり、市域の西側に偏っている。市域の東側は吉林省からつながる山地となっており森林が多い。大陸性気候であり年平均気温は6.6度。
人口の4分の3を漢民族が占め、他に満族を中心に朝鮮族、回族などの少数民族が居住する。
歴史
ここはかつて女真族が多く住む地であり、高爾山には中国の歴代王朝が城を築いてきた。1384年、高爾山の南麓、渾河の北に撫順城が明によって建てられた。1616年、ヘトゥアラ(現在の撫順市新賓満族自治県)を本拠とするヌルハチは後金の建国を宣言。1619年、後金の征伐に派遣された明の大軍に対し、後金の軍は撫順近郊のサルフで対峙し、数で勝る明軍を破った(サルフの戦い)。ヌルハチは1622年に都を遼陽に遷し、ヘトゥアラは1636年に興京と改名された。
巨大炭鉱開発
撫順炭鉱は、七百年ほど前に、高麗人によって採掘された。当時は陶器製造の燃料として使われていたものと伝えられる。その後、清朝は「風水に害あり」との理由から採掘禁止としていたが、1901年、清国政府の許可の下、清国民族資本により採掘が開始された。その後ロシア資本が進出、東清鉄道の南満州支線(ハルビン-大連間)が建設された後に奉天(瀋陽)-撫順の支線も敷設され、撫順炭田には東清鉄道の「鉄道付属地」(中国の行政権・司法権などが及ばない治外法権地域)が設置された。
日露戦争後の1905年には鉄道及びその付属地は日本の手に渡り、1907年には南満洲鉄道(満鉄)の管理下に移った。炭鉱周辺は広大な鉄道付属地(満鉄附属地)となり、駅と炭鉱の周囲に新市街が建設され、満鉄による行政が行われた。露天掘りによる大規模な石炭採掘が行われるなど満鉄を支える重要な財源となり、撫順の付属地の人口は10万を超え満鉄附属地の中でも最大であった。また撫順の石炭と鞍山の鉄鉱石を組み合わせて、鞍山製鉄所(後の昭和製鋼所)が稼動した。
日本との関係
抗日ゲリラによる満鉄施設襲撃が激化していたが、満洲国承認日の1932年9月15日、抗日ゲリラ多数による撫順炭鉱襲撃事件により炭鉱側職員の惨殺と施設の焼き討ちにより操業が停止する事態になった。これに対し、翌9月16日、炭鉱近くの平頂山という集落で日本軍守備隊による中国人住民虐殺事件が起きた(平頂山事件)。
1945年8月のソ連対日参戦で満州国は崩壊し、同年10月には中国共産党中央東北局が撫順市政府を設立する。撫順の監獄には関東軍捕虜や満洲国官僚、また満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀と皇弟の溥傑など1000人以上が集められ撫順戦犯管理所となった。入所者は、共産主義の思想学習と戦争犯罪行為の「自白」などのプログラムを受けた (田辺敏雄著『検証旧日本軍の「悪行」歪められた歴史像を見直す』など、これらを洗脳とする主張もある) 。 1956年その多くが不起訴処分となり日本へ帰国し、残る有罪判決を受けた者も順次釈放され帰国した。帰国者たちは中国帰還者連絡会を結成している。2008年には、撫順戦犯管理所についてNHKがドキュメンタリー「NHKスペシャル “認罪”~中国撫順戦犯管理所の6年」を放送した。
中華人民共和国時代
中華人民共和国の建国後、撫順は遼東省や遼西省などから独立した中央直轄市となったが、1954年8月に遼寧省に統合された。石炭の露天掘りは続けられ、その露天坑の深さは200mを超えた。1962年、中国人民解放軍の模範兵士とされる雷鋒が撫順の輸送部隊に配属されていた頃、倒れたトラックを立て直す作業を指揮していた時に、支える棒が頭を直撃して殉職した。死後、彼は毛沢東により模範的な人物と称賛され、中国全土で『雷鋒に学べ』という大規模なプロパガンダが繰り広げられた。今日でも彼は英雄とされ、故郷の湖南省同様、撫順にも記念館や記念碑が建っている。
撫順の産業を支えてきた露天掘り炭鉱はほぼ掘りつくされている。石炭業の衰退に伴い産業転換を迫られ、現在の主産業は石油化学工業などとなっている。
行政区画
4市轄区・1県・2自治県を管轄している。
撫順市の地図 |
---|
電話区域番号は2011年に、瀋陽市・鉄嶺市とともに024-になった。
年表
撫順市
- 1949年10月1日 - 中華人民共和国撫順市が発足。望花区・新安区・南花園区を設置。(3区)
- 1951年 - 市内行政区域の再編により、望花区・新安区・南花園区・中心区・新撫区を設置。(5区)
- 1952年9月12日 - 遼東省撫順県の一部が分立し、一区から六区までの区が発足。(11区)
- 1953年6月12日 (9区)
- 1953年6月15日 (9区)
- 1954年6月19日 - 遼寧省に編入され、遼寧省撫順市となる。
遼寧省撫順市
- 1956年5月23日 (9区)
- 1956年7月3日 (5区)
- 1957年12月3日 (7区)
- 1958年8月14日 - 五龍区が撫南区に編入。(6区)
- 1958年12月20日 (5区2県)
- 1959年5月25日 (4区2県)
- 露天区の一部が分立し、郊区が発足。
- 章党区が露天区・郊区に分割編入。
- 河北区が新撫区に編入。
- 1961年7月9日 - 郊区が県制施行し、撫順県となる。(3区3県)
- 1964年2月12日 - 新賓県・清原県が瀋陽専区に編入。(3区1県)
- 1968年12月26日 - 瀋陽専区新賓県・清原県を編入。(3区3県)
- 1978年12月16日 - 撫順県・望花区・露天区のそれぞれ一部が合併し、郊区が発足。(4区3県)
- 1985年1月17日 - 新賓県が自治県に移行し、新賓満族自治県となる。(4区2県1自治県)
- 1988年3月16日 - 郊区が順城区に改称。(4区2県1自治県)
- 1989年6月29日 - 清原県が自治県に移行し、清原満族自治県となる。(4区1県2自治県)
- 1999年6月16日 (4区1県2自治県)
- 露天区・新賓満族自治県の各一部が撫順県に編入。
- 露天区の残部・順城区の一部が合併し、東洲区が発足。
- 順城区の一部が新撫区・望花区・撫順県に分割編入。
- 新撫区の一部が順城区に編入。
- 撫順県の一部が望花区・新賓満族自治県に分割編入。
- 清原満族自治県の一部が新賓満族自治県に編入。
- 2004年9月11日 - 撫順県の一部が東洲区に編入。(4区1県2自治県)
名所
- 清の永陵
- 薩爾滸(サルフ)風景区
- 元帥陵 1928年に爆殺された張作霖のために1929年から作られた墓地。サルフ山山系の森林にあり、大伙房ダムの湖岸にある。
- 撫順戦犯管理所 日本人捕虜や愛新覚羅溥儀らの資料が展示されている。
- 平頂山事件跡地 事件の記念碑や、遺骨の埋められた地中をそのまま展示している「平頂山殉難同胞遺骨館」などがある。
- 高爾山風景区 市街に隣接した小高い丘。古来より城が築かれてきた。
- 月牙島生態公園
- 撫順市雷鋒記念館
スポーツ
- 中国サッカー・スーパーリーグのプロチーム「遼寧足球倶楽部」の本拠地。遼寧足球倶楽部のホームスタジアムは、雷鋒スタジアム。
出身者
死没者
姉妹都市
国内
国外
関連項目
- ヘトゥアラ(後金の最初の首都)
- 李香蘭
- 撫順の奇蹟を受け継ぐ会
脚注
- ↑ 来源:遼寧省档案館 (2012年11月26日). “清代撫順為什麼又叫撫西?” (簡体中文). 東北新聞網>遼寧頻道>遼寧档案. . 2012年11月26日閲覧.
- ↑ 『満洲実録・巻一』