愛新覚羅溥傑

提供: miniwiki
移動先:案内検索
愛新覚羅溥傑
プロフィール
出生: 1907年4月16日
死去: 1994年2月28日
出身地: 清の旗 北京
各種表記
繁体字 愛新覺羅溥傑
簡体字 爱新觉罗溥杰
拼音 Àixīnjuéluó Pŭjié
和名表記: あいしんかくら ふけつ
発音転記: アイシンジュエルオ プージィエ
テンプレートを表示

愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ、アイシンギョロ・プギェ、テンプレート:Lang-mnc 転写:aisin-gioro pu-giye、1907年4月16日 - 1994年2月28日)は、愛新覚羅溥儀実弟。清朝における地位は醇親王継嗣満洲国軍人としての階級陸軍中校(中佐に相当)。中華人民共和国では全国人民代表大会常務委員会委員、全国人民代表大会民族委員会副主任。立命館大学名誉法学博士[1]書家でもあり、流水の如き独特の書体は流麗で人気が高かった。

2013年平成25年)9月、溥傑の次女である福永嫮生から関西学院大学博物館開設準備室に、愛新覚羅溥傑家関係資料(愛新覚羅溥傑・妻の・娘の慧生・嫮生の各氏に関係する貴重な写真原稿書簡書籍や、溥傑並びに浩夫人の実家である嵯峨侯爵家(旧正親町三条家)に関係する資料などが寄贈されている[2]

生涯

生い立ち

醇親王載灃とグワルギャ氏(瓜爾佳氏)・幼蘭の次男として生まれた溥傑は、である第12代清朝皇帝(宣統帝)に仕え信頼を得ていた。また、醇親王家長男の溥儀が皇帝となったため、溥傑が醇親王家の継嗣となった。

その後1911年10月10日辛亥革命が勃発すると、袁世凱清国政府に第2代内閣総理大臣の地位を要求するとともに、醇親王の摂政王退位と溥儀の退位を要求した。その後1912年2月に溥儀は宣統帝から退位することとなった。

日本留学

ファイル:Gobulo Runqi and his wife and Aisin-Gioro Pujie.jpg
妹・韞穎とその夫である郭布羅潤麒婉容皇后の弟:中央)と溥傑(1934年3月)

さらに1924年10月には馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。さらに馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な清算を通達し、紫禁城に軍隊を送り溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた。

この事を受けて溥儀らは北京日本公使館に避難し、その後溥傑も日本政府の庇護を受けた。この後、1929年昭和4年)3月に婉容皇后の実弟の潤麒と共に来日し、日本語等の学習後に、学習院高等科留学する。

入隊

この間の1932年大同元年)3月に、日本軍の支援を受けて満洲国が建国され、兄の溥儀が満洲国執政(のちに満洲国皇帝)となる。1933年(昭和8年)3月、学習院高等科卒業。同年9月、陸軍士官学校本科入学1935年(昭和10年)7月に卒業して見習士官に任官。同年9月に満洲国陸軍に入隊する。

結婚

溥傑は1924年宣統16年=民国13年)に、端康太妃(光緒帝側室)の・唐石霞と結婚したが、価値観の違いからうまくいかず、唐石霞は実家に帰ってしまい、婚姻生活はその後の溥傑の日本留学とともに自然消滅した。

満洲国皇帝に即位した溥儀は、溥傑を日本の皇族と結婚させたいという意向をもっていた。しかし日本の皇室典範及び皇室典範増補は、皇族女子の配偶者を、皇族、王公族、または勅旨により特に認許された華族に限定していたため[3][4]、たとえ満洲国の皇弟といえども外国人男性である溥傑との婚姻は認められなかった。そこで侯爵嵯峨実勝の長女で、昭和天皇の遠縁(父親同士が母系のまたいとこ、八親等)にあたる嵯峨浩との縁談が関東軍の主導でまとめられ、1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満洲国駐日大使館から発表され、同年4月3日に東京の軍人会館(現・九段会館)で結婚式が挙げられた。

当時溥傑は日本の陸軍歩兵学校に在籍していたため、ふたりは千葉市稲毛に新居(愛新覚羅溥傑仮寓)を構えた後[5]、同年9月に溥傑が、10月には浩が満洲国の首都新京へ渡った。

明らかな政略結婚でありまた相手が外国人男性という事もあり嵯峨浩は落ち込んだという。1938年(康徳5年/昭和13年)に長女・慧生1940年(康徳7年/昭和15年)に次女・嫮生の二女に恵まれた。1937年(康徳4年)3月には日本の皇室典範を参考に満洲国の帝位継承法が制定されて「帝子孫皆在ラザルトキハ帝兄弟及其ノ子孫ニ伝フ」という文が盛り込まれており、当時関東軍や満洲国政府は溥儀の実子生誕は半ば諦めて、将来の満洲国皇帝となる溥傑とその男子生誕を大きく期待していたとされる。

満州と日本での生活

1938年(康徳5年)10月、満洲国駐日大使館附武官室勤務を命じられて東京に赴任。翌1939年(康徳6年)11月に奉天歩兵将校軍官学校教官に任官され、1941年(康徳8年)からは新京の満州国軍官学校で教鞭を執る(この時の教え子には後の韓国大統領である朴正煕がいた[6][7])。同年12月に日本がイギリスアメリカなどの連合国と交戦状態に入ったことを受け、満洲国もこれらの国々と戦争状態に入ったものの、満洲国はほとんど戦禍を受けなかったために、満洲国陸軍の将校として前線に出ることはなかった。

1943年(康徳10年)には日本の陸軍大学校に入校したため、溥傑とその一家はしばらくの間、東京に居を移すこととなった。1944年(康徳11年)12月、学習院初等科に在学中の長女の慧生を残して満洲に戻る。これが慧生と永遠の別れになる。

満洲国崩壊

1945年(康徳12年)8月8日、ヤルタ会談でのイギリスやアメリカとの密約により、突如ソビエト連邦政府はモスクワ佐藤尚武駐ソ連日本国特命全権大使に対して日ソ中立条約の破棄を通告し、まもなくソ連軍が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて満洲国に侵攻した。

主力を南方戦線にとられていた関東軍は一方的に敗走し、溥傑やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連の進撃が進むと首都の新京を放棄して、朝鮮に程近い通化省臨江県大栗子に避難していた。しかし、8月15日太平洋戦争大東亜戦争)に日本が敗北したことにより、その2日後の8月17日国務院会議が満洲国の解体を上奏8月18日には大栗子で溥儀が満洲国解体を自ら宣言するとともに皇帝を退位した。

戦犯

溥儀と溥傑は、ソ連軍に捕まることを避けて通化から日本軍機で日本へ逃亡する途中、経由地の奉天の飛行場で赤軍空挺部隊に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され、ソ連極東部のチタハバロフスク強制収容所収監された。

その後、1950年中華人民共和国に送還され、戦犯とされて撫順戦犯管理所ハルビンの戦犯収容所で中国共産党による「再教育」を受けた。1954年、長女・慧生が国務院総理周恩来に「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出し、感動した周により日本にいる妻子との文通を許可される。しかし、1957年(昭和32年)12月、学習院大学に進学していた慧生は、交際していた同級生の大久保武道と伊豆半島天城山ピストル心中した(天城山心中)。

日中友好の架け橋

1960年に模範囚として釈放され、北京に帰る。翌1961年、妻の浩との再会を果たし、文化大革命を乗り越え、全国人民代表大会常務委員会委員を務めるなど、社会への復帰を果たした。また、1972年日中国交正常化の後、7度の訪日[8]で日中友好の架け橋として活躍した。

1987年6月20日に、長年連れ添った妻の浩が北京の病院で死去した。溥傑はその後も日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1989年1月の昭和天皇崩御時には日本大使館に弔問に訪れた。1991年10月28日には立命館大学より名誉法学博士の名誉学位を贈呈されている[1]1992年10月25日には在中国日本大使主催のレセプションで訪中した今上天皇と対面してる。

死去

1993年から療養していたが、1994年2月28日7時55分に北京で死去した。遺骨は溥傑の生前からの希望によって浩・慧生の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市中山神社(浩の曾祖父である中山忠光が祀られている)境内にある摂社愛新覚羅社に、浩・慧生の遺骨とともに納められ、中国側の遺骨は三人共に中国妙峰山上空より散骨された。

人柄

陸士時代は小柄な体つきながら相当な精神力の持ち主であり真面目で、厳しい訓練にも耐え抜いたと言う。それと同時に心優しい性格であった事も知られており、非常な家族想いで、妻や娘はもちろん、兄弟愛も強かった。

軍歴

溥傑は日本に留学した後、日本陸軍でも学び、満洲国の軍人としても活動している。下記はその軍歴である。満洲国での軍歴は(満洲国)で記す。

系図

皇室正親町三条家(嵯峨家)及び清朝帝室(愛新覚羅氏)の系図
実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係
光緒帝咸豊帝の養子、宣統帝同治帝及び光緒帝の養子として帝位継承
第120代
仁孝天皇
 
 
 
 
 
中山忠能
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
荘順皇貴妃
 
第8代皇帝
道光帝
 
孝全成皇后
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第121代
孝明天皇
 
中山慶子
 
中山忠光
 
嵯峨実愛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第122代
明治天皇
 
 
 
仲子(南加)
 
嵯峨公勝
 
側妃 劉佳氏
 
醇親王奕譞
 
正妃 婉貞
 
桂祥
(西太后弟)
 
西太后
 
清第9代皇帝
咸豊帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第123代
大正天皇
 
 
 
 
 
嵯峨実勝
 
正妃 幼蘭
 
醇親王載灃
 
清第11代皇帝
光緒帝
 
 
 
孝定景皇后
 
 
 
清第10代皇帝
同治帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第124代
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
愛新覚羅溥傑
 
溥儀(宣統帝)
康徳帝
 
皇后 婉容
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第125代
今上天皇
 
 
 
 
 
慧生
 
嫮生
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

関連文献

  • 愛新覚羅溥傑 『溥傑自伝―「満州国」皇弟を生きて』 金若静訳、河出書房新社、1995年、ISBN 4-309-22268-4
    • 愛新覚羅溥傑 『溥傑自伝―「満州国」皇弟を生きて』 丸山昇監訳、金若静訳、河出書房新社、2011年、ISBN 978-4-309-22550-0(改訂新版)
  • 愛新覚羅浩 『流轉の王妃 満洲宮廷の悲劇』 文藝春秋新社、1959年 (妻・浩の半生記で、映画『流転の王妃』の原作)
  • 渡辺みどり 『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人』 読売新聞社、1992年、ISBN 4-643-92099-8
    • 渡辺みどり 『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人』 文藝春秋〈文春文庫〉、1996年、4-16-717103-1(1992年刊の増補)
    • 渡辺みどり 『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人』 中央公論新社〈中公文庫〉、2010年、4-16-717103-1(1996年刊の加筆)
  • 舩木繁 『皇弟溥傑の昭和史』 新潮社、1989年、ISBN 4-10-372301-7(溥傑の生誕時から1988年1月時点までを綴った伝記
    • ※著者は溥傑とは陸軍士官学校の同期で、溥傑本人や溥傑夫妻の親族からの聞き取り、諸々の文献を参照して執筆
  • 愛新覚羅溥傑・浩著 『愛新覚羅溥傑・浩書画集』 福永嫮生主編 加藤隆三木協編 中央公論事業出版、2014年、ISBN 978-4-89514-421-6

脚注

  1. 1.0 1.1 データで見る立命館 2-3 名誉博士(2014年5月1日現在)、立命館大学
  2. 博物館開設準備室が愛新覚羅溥傑家関係資料を受贈、KG News(関西学院大学)、2013年9月24日
  3. 皇室典範第39條「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」
  4. 皇室典範増補(大正7年11月28日)「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」
  5. 「千葉市ゆかりの家・いなげ」として現在一般公開されている。
  6. “伪满军校里的“特殊”师生:溥杰与朴正熙”. 360doc个人图书馆. (2012年1月11日). http://www.360doc.com/content/12/0111/14/8290478_178727831.shtml . 2018閲覧. 
  7. “"목표 위해 죽음 불사할만큼 성실"우등 성적으로 4년만에 '황군' 소위” (朝鮮語). オーマイニュース. (2004年8月19日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000204062 . 2018閲覧. 
  8. 1974年1980年1981年1982年1987年1990年1992年の計7回。1993年にも訪日する予定だったが、直前に病に倒れ、翌年死去する。

関連項目

溥傑夫妻を題材とした作品