徳川昭武
徳川昭武 | |
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時代 | 江戸時代末期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永6年9月24日(1853年10月26日) |
死没 | 明治43年(1910年)7月3日 |
藩 | 常陸国水戸藩主→同知事 |
氏族 | 水戸徳川家→清水徳川家→水戸徳川家 |
徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。
第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。
Contents
生涯
嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生する。幼名は余八麿。生後半年から水戸にて養育されるが、幕末の動乱のため、文久3年(1863年)には再度江戸入りする。同年、京都で病に伏した兄・松平昭訓の看護の名目により上洛する。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在する(これにより滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される)。滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。
使節団を率いてヨーロッパへ
従五位下侍従兼民部大輔に叙任。第14代将軍・徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改める。慶応2年(1867年)、清水徳川家を相続する。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられる。
慶応3年1月(1867年2月)に使節団を率いて約50日をかけて渡仏した。使節団の中には会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪する。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。以後はパリにて留学生活を送る。
慶応4年(1868年)1月に兄である将軍・慶喜が大政奉還を行ったことを知り、使節団の立場は微妙なものとなる。3月、鳥羽・伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され、随行していた栗本安芸守らは帰国し、昭武をはじめとする7名は残留した。程なく新政府から帰国要請が届くが、4月の段階では慶喜からこのまま滞在し勉学するように手紙が送られている。
5月15日(7月4日)新政府よりの帰国命令書が届き、ついに帰国することとなった。滞在最後の思い出とするためか10日間、ノルマンディーのカーンやシェルブールを回り、ロワール川河口のナントまで旅す。パリに帰ると、長兄で水戸藩主・慶篤が死去したとの手紙が届いており、政情安定のために次期藩主に指名されることとなった。
9月4日(10月18日)にマルセイユを出航、11月3日(12月6日)に神奈川に帰着した。この間、水戸藩では藩士の分裂を抑えきれず、弘道館戦争が勃発している。
藩主から戸山学校教官に
ヨーロッパから帰国した翌年の1869年に水戸徳川家を相続し、藩主に就任、明治2年(1869年)、版籍奉還により水戸藩知事となる(民部大輔を辞官)。北海道の土地割渡しを出願し、明治2年(1869年)8月17日に北海道天塩国のうち苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と北見国のうち利尻郡の計5郡の支配を命じられた。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により藩知事を免ぜられ、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に暮らす。
明治7年(1875年)、陸軍少尉に任官する。初期の陸軍戸山学校にて、教官として生徒隊に軍事教養を教授している。明治8年(1875年)、中院通富の娘・栄姫(瑛子)と結婚。
フランス留学(明治)
明治9年(1876年)にフィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米する。その後、兄弟の土屋挙直・松平喜徳とともにフランスに向かい、再び留学する。なお、前の留学から8年の間に、フランスは第二帝政から第三共和政へ移行している。明治13年(1881年)に留学先のエコール・モンジュを退学。同じくフランスに留学中の甥・徳川篤敬(長兄・慶篤の長男)と欧州旅行(ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・ベルギー)の後、ロンドンへ半年滞在し、翌年6月帰国した。
隠居、松戸・戸定邸へ
明治16年(1883年)1月に長女・昭子が生まれるが、翌月産後の肥立ちが悪く妻・瑛子が死去する。5月に隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲った。翌年には戸定邸(千葉県松戸市)に移った。明治25年(1892年)、次男・武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設している。
明治31年(1898年)、篤敬が44歳で死去したため、11歳で水戸徳川家当主となった圀順の後見となる。
明治43年(1910年)7月3日、小梅邸にて死去した。享年58。
備考
- 徳川斉昭の息子のうち、写真が現存するのは慶喜、昭武、慶徳、池田茂政のみである。
- パリ万国博覧会では欧州各国首脳と交流を深めたが、これが近代日本と列強各国との交流の始まりと認められる。幕府によって作成が計画された勲章が「葵勲章」である。
- 自転車や狩猟、写真などの多彩な趣味を有した。隠居後は静岡の慶喜との往来も盛んで、一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた。写真撮影には熱心で、現在もなお多くの写真が残されている。
- 会津藩主松平容保は自身の養子に当初、昭武を望んでいた。昭武が清水家を継いだため、代わって昭武のすぐ下の弟の喜徳を養子とした(後に養子縁組が解消され、喜徳はその後に水戸家連枝の守山松平家を継ぐ)。
略年表
- 嘉永6年(1853年) - 誕生。
- 文久3年(1863年) - 上京して佐幕活動に従事。従五位下侍従・民部大輔に任官。
- 元治元年(1864年) - 天狗党討伐に出陣。
- 慶応2年(1866年) - 昭武と改名。清水徳川家を相続。従四位下左近衛権少将。パリ万国博覧会に参加。これ以後、欧州各国を歴訪するなどフランスにて留学。
- 明治2年(1869年) - フランスより帰国、水戸藩主に就任(水戸徳川家を相続)。版籍奉還により水戸藩知事。
- 明治3年(1870年) - 永世禄(3500石)。北海道開拓を巡見。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県。東京に移住。
- 明治7年(1874年) - 陸軍少尉任官。
- 明治8年(1875年) - 陸軍戸山学校教官(生徒隊付)。
- 明治9年(1876年) - アメリカ万国博覧会御用掛としてアメリカへ派遣。陸軍少尉免官。フランスにて留学。
- 明治14年(1881年) - 帰国。従三位、麝香間祗候。
- 明治15年(1882年) - 大能牧場[注釈 1]を復興。小梅邸行幸。
- 明治16年(1883年) - 家督を甥・篤敬に譲り隠居。
- 明治17年(1884年) - 戸定邸に居住。
- 明治25年(1892年) - 嗣子武定、子爵授爵(松戸徳川家の創設)。
- 明治30年(1897年) - 従二位に叙位。
- 明治31年(1898年) - 水戸徳川家を後見。
- 明治35年(1902年) - 正二位に叙位。
- 明治36年(1903年) - 勲二等瑞宝章を授けられる。
- 明治43年(1910年) - 死去。従一位、勲一等瑞宝章を受ける。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。
栄典
家系
明治16年(1883年)2月の夫人瑛子の死後に後妻を迎える話もあったが、隠居の身分となったこともあり、正式な妻は迎えなかった。同年10月に妾として入籍した斉藤八重は、実際には後妻の位置にあり、昭武と同居して戸定邸に暮らした。
登場作品
脚注
注釈
- ↑ 大能牧場(おおのぼくじょう)は、水戸藩が直接経営した馬の牧場。江戸時代の水戸藩が軍用と農耕に用いた馬を多く産出した。2代藩主徳川光圀が1678年(延宝6年)、下総と相馬から馬を導入して現高萩市大能に開設した。また1833年(天保4年)、徳川斉昭が開設した桜野牧場(「新牧」)は現水戸市丹下原にあった。1788年(天明8年)に廃止、松岡領主中山家が管理して春と秋の年2回馬市が開かれ、天保の改革の一環として徳川斉昭の代に再興された。馬に加えて牛の放牧も行うものの経営に行き詰まり、1869年(明治2年)に再び廃止された。昭武は隣接する常陸太田市(旧里美村)の天竜院地区にも牧場を開設した[1]。
- ↑ 放送途中に「三代目 中村橋之助」を襲名。従って総集編放送当時の表記も「中村橋之助」となる。
出典
参考文献
- 須美裕 『徳川昭武 万博殿様一代記』 中央公論社 (中公新書)、1984年。
- 宮永孝 『プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節』 山川出版社、2000年。
- 『徳川昭武幕末滞欧日記』 松戸市教育委員会、宮地正人 (監修)、山川出版社、1999年。
- (1984) in 常陸太田市郷土資料館: 里美村史. 常陸太田市教育委員会. 大能牧場の歴史と役割
- (2009) 徳川一族 将軍家・御三家・御三卿 実紀, 月刊歴史読本. 株式会社KADOKAWA中経出版.
外部リンク
- 松戸市戸定歴史館:松戸徳川家の敷地を歴史公園として整備した「戸定が丘歴史公園」内にあり、当時のまま保存されている。
- “展覧会「徳川御三卿」”. 江戸東京博物館. . 2015閲覧. 2010年10月05日(火)から11月14日(日)まで開催された展覧会の解説。田安、一橋、清水の御三卿が果たした役割と各家に残る名品の紹介。
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