当子内親王

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当子内親王(とうし(まさこ) ないしんのう、長保3年(1001年) - 治安2年9月12日1022年10月10日)は、第67代三条天皇の第1皇女。母は藤原済時の娘、皇后娍子伊勢斎宮。同母兄弟に敦明親王性信入道親王など。

寛弘8年(1011年)三条天皇の即位により、内親王宣下を受ける。長和元年(1012年)12月4日、13歳で斎宮に卜定され、翌長和2年(1013年)8月21日に初斎院宮内省)、同年9月27日に野宮に入る。長和3年(1014年)9月20日、14歳で伊勢下向。長和5年(1016年)1月29日、三条天皇の譲位により17歳で退下し、9月3日に帰京。寛仁元年(1017年出家。治安2年(1022年薨去。享年23。

当時、三条天皇は、執権者である藤原道長との関係の悪化に加え、眼病を患い、皇位の危機にあった。当子内親王は、父帝を思い、「内親王を斎姫に立てるとは志が深いことです。近年は、内親王が斎宮にならない例が多いばかりです(斎宮には天皇の娘である内親王が選定されることが多い)。皇位は18年続くでしょう」という託宣を報告させた[1]。また、伊勢に下向してからも、「伊勢神宮に怪異が無いので、治世は長く続くでありましょう」と伝えている[2]。当子内親王が斎宮として群行(「別れの御櫛」)に臨んだ際、天皇も斎宮も互いに振り返ってはならない決まりであったのを、三条天皇は別れがたさに思わず振り返ってしまったという[3]。それほど鍾愛の皇女であったが、伊勢から帰京した長和5年(1016年)、当子内親王に藤原道雅密通しているという噂が立った。これに激怒した三条天皇は皇后や親王らのとりなしも聞きいれずに道雅を勅勘、二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母・娍子のもとに引き取られて道雅との仲を裂かれてしまう。世間では「伊勢神宮の斎宮であればともかく、この内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情する声もあったが、内親王は悲しみのうちに自ら落飾[4]、その6年後に短い生涯を閉じた。なお、道雅が内親王と引き裂かれた後に贈った別れの歌、「今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな」(『後拾遺集』)は後に『百人一首』に採られている。

参考文献

脚注

  1. 小右記』長和3年(1014年)6月27日条による。
  2. 『小右記』長和4年(1015年)閏6月10日条による。
  3. 大鏡』 第一巻 六十七代 三条院 二十九段
  4. 『小右記』寛仁元年(1017年)11月30日条によると、病を原因とした出家とする。

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