弘南鉄道黒石線

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停車場・施設・接続路線
STR
五能線
ABZql BHFq eABZq+r
0.0 川部駅 奥羽本線
exSTR
exBHF
2.9 前田屋敷駅
STR+r exSTR
弘南線
eABZg+l exABZgr
KBHFe exSTR
6.2 黒石駅
exKBHFe
6.9 黒石駅(国鉄) -1984

黒石線(くろいしせん)は、かつて弘南鉄道が運営していた鉄道路線青森県南津軽郡田舎館村川部駅から黒石市黒石駅までを結んでいたが、1998年に廃止された。日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線で、同じ青森県内の大畑線とともに純民間資本の民営鉄道に転換された数少ない例であった。

路線データ(廃止時)

  • 区間(営業キロ):川部 - 黒石 (6.2km)[1]
  • 駅数:3(起終点を含む)
  • 複線区間:なし(全線単線[1]
  • 電化方式:全線非電化[1]
  • 閉塞方式:自動閉塞式
  • 交換可能駅:なし(全線1閉塞)

歴史

この路線は軽便鉄道法に基づいて計画されたもので、1912年に黒石軽便線(くろいしけいべんせん)として開業した[1]。1950年(昭和25年)7月に弘南鉄道弘南線が弘南黒石まで延伸されると、旅客は弘南線に流れ、黒石線の乗客は減少していった[1]1968年10月には弘南鉄道から国鉄東北支社に対し経営委託の申し入れを行っている。

1980年に国鉄再建法が成立し、黒石線は1981年(昭和56年)9月18日に第1次特定地方交通線として承認された[2]。これにより「黒石線特定地方交通線対策協議会」が同法第9規定により設けられ、代替輸送に関する協議が重ねられた[3]。その中で地元自治体が弘南鉄道に黒石線の存続を要請しており、数次にわたる協議の結果、1984年4月5日の第6次会議で転換に最終合意した[2][3]

国鉄と弘南で別れていた黒石駅は、経費削減のため国鉄黒石駅の直前から弘南黒石駅に渡り線を新設して弘南黒石駅に統合された[2]。国鉄時代には弘前からの直通列車や五能線への乗り入れ列車もあったが、転換以降は国鉄線からの直通運転が廃止された。財政措置として期限付きで各種交付金・補助金が支給されたが運賃は値上げとなり、コスト低減策として単線自動信号化・自動券売機設置などの合理化を進め、収支増加策として列車本数の増加や特定の時間帯が割引運賃となる「特割ショッピング回数券」を発売したり、黒石駅舎を新築し生協スーパーマーケット店舗を併設して集客を図った[2]営業係数は国鉄時代の706(1983年度)・560(1984年度10月末まで)から、121(1984年度11月以降)・110(1985年度)・120(1986年度)・120(1987年度)と改善された[2]。1992年の「第三次黒石市総合開発計画 基本計画」で黒石市は目標として「黒石線の輸送力増強」を掲げていた[4]

しかし、利用者の減少から、1992年10月に弘南鉄道・黒石市田舎館村青森県の担当者レベルで 「黒石線活性化推進協議会」 を設置した[3]。1993年は弘南鉄道に対する補助最終年度であったが、累積欠損金は同年までにおいて黒石線は同社全体の65%を占める欠損額を発生させており、黒石線の不振が経営の悪化・悪影響の要因として懸念された[3]。活性化協議会は検討を重ねた結果「黒石線活性化協議会報告書」を作成し、「黒石線再生のための恒久的・効果的対策を見いだし得ない」「自治体の支援なしには存続できない」との結論を出した[3]。 活性化協議会は黒石線の今後の方針について、 弘南鉄道トップに最終的な結論を委ねることに決めて解散した[3]

1995年10月、 弘南鉄道は青森県・黒石市長・ 田舎館村長に対して黒石線廃止の意向を申し入れた[3]。その後、 関係者への説明や協議を経て、 1997年12月に黒石線廃止後のバス代替運行計画を受け入れた黒石市長・田舎館村長が黒石線の廃止を最終的に承認した[3]

1998年4月1日、黒石線は廃止された[1]。これは転換特定地方交通線の廃止第1号であった。

なお、『JTB時刻表』『JR時刻表』では通常、旧国鉄・JR路線は第三セクターおよび他社に転換された路線でも、JR線に準ずる扱いを受けている。しかし、黒石線は転換線で唯一、他に路線を持っている私鉄への転換だったため、黒石線の時刻表は巻末の私鉄・バス路線のページに移されていた(下北交通大畑線は、大畑線が下北交通唯一の鉄道線だったためこの扱いは受けていなかった)。ただし、弘南鉄道の他線と違い、全列車を掲載することで利用者への配慮はしていた。

年表

  • 1912年(大正元年)8月15日 川部 - 黒石間 (4.1M=6.6km) が黒石軽便線として開業、黒石駅を新設[5]
  • 1922年(大正11年)9月2日 黒石線と改称
  • 1935年(昭和10年)4月15日 ガソリンカー運転開始[6]。前田屋敷駅を新設
  • 1973年(昭和48年)3月 蒸気機関車の運転を廃止[7]
  • 1981年(昭和56年)9月18日 第1次特定地方交通線として廃止承認
  • 1984年(昭和59年)
    • 2月1日 全線の貨物営業を廃止
    • 11月1日 全線を弘南鉄道黒石線に転換[1]、黒石駅を駅廃止し弘南黒石駅に統合[1]、川部駅を弘南川部駅に改称、弘南川部 - 弘南黒石間 (6.2km) となる
  • 1986年(昭和61年)4月1日 弘南川部駅を川部駅に、弘南黒石駅を黒石駅に改称
  • 1988年(昭和63年)8月1日 ワンマン運転開始
  • 1998年(平成10年)4月1日 全線 (6.2km) 廃止[1]弘南バスに転換[1]

運行形態

最短30分 - 最長2時間程度の間隔で運行されていた。当初は朝の4往復のみ2両で運行されていたが、乗客減のため廃止直前は全て単行で運行されていた。また、転換当初は車掌乗務であったが、後に全列車ワンマン運転となった。

車両

転換当初は国鉄から譲り受けた気動車キハ22形3両を使用していたが、老朽化のため1995年7月[8]小坂製錬小坂線で使用されていた気動車キハ2100形2両を譲り受けて、キハ22形は予備車1両を残して廃車にした。

廃線後、キハ22形1両、キハ2100形2両が田舎館村で保存されていたが、2013年11月17日にこの気動車3両が同月18日以降解体されることになったと報道された[9]。22日解体実施。

利用状況

輸送実績

黒石線の転換後の輸送実績を下表に記す。転換後輸送量は減少し、転換時の約半分になった時点で廃止されている。 表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

収入実績

黒石線の転換後の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は一時増加したがその後減少し、廃止を迎えた。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

駅一覧

  • 線路(全線単線) … ◇:列車交換可、|:列車交換不可
  • 全駅青森県内に所在
駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 線路 所在地
川部駅 - 0.0 東日本旅客鉄道奥羽本線五能線 南津軽郡田舎館村
前田屋敷駅 2.9 2.9  
黒石駅 3.3 6.2 弘南鉄道:弘南線 黒石市

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「mutsu1」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 宇野耕治・谷本谷一・仲上健一・中村徹・米田和史 (1989年11月). “特定地方交通線における経営形態の転換と現状-第三セクター鉄道会社を中心に- (PDF)” (日本語). 産業研究所所報 第12号. 大阪産業大学 / J-GLOBAL(科学技術総合リンクセンター). pp. 202-207. . 2014閲覧.
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 田中重好 (2001年). “地域総合交通計画策定の社会的条件の探求 (下)-青森県津軽地方を事例として- (PDF)” (日本語). 弘前大学 / CiNii(NII学術情報ナビゲータ・サイニィ). pp. 169-170. . 2014閲覧.
  4. 田中重好 (2001年). “地域総合交通計画策定の社会的条件の探求 (上)-青森県津軽地方を事例として- (PDF)” (日本語). 弘前大学 / CiNii(NII学術情報ナビゲータ・サイニィ). pp. 101-102. . 2014閲覧.
  5. 1912年8月15日付東京朝日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  6. 『鉄道省年報. 昭和10年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
  8. 出典:1995年7月24日東奥日報夕刊1面記事
  9. 旧黒石線の3車両解体へ/田舎館 - 東奥日報、2013年11月17日。

外部リンク