平田東助
平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。
山形県米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。息子の平田栄二は日本画家で、栄二の次男・正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。二男の平田昇は海軍中将となった。
生涯
勉学の日々
嘉永2年(1849年)、米沢藩の藩医・伊東昇廸(伊東家は代々医を業とし、昇廸の父の名を伊東祐徳といった。)の子として生まれるが、兄の祐順が家を継いだため、安政3年(1856年)に同藩の医師・平田亮伯の養子となり、藩校・興譲館(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)で学び、さらに江戸へ上って古賀謹堂の門で学んだ。
戊辰戦争においては、米沢藩は政府軍に敵対した奥羽越列藩同盟の中心として戦うが敗北。その後、藩命によって東京へ上り、明治2年(1869年)5月に慶應義塾(現在の慶応義塾大学)に入り、吉田賢輔に英学を学び、のち大学南校(現在の東京大学)に入学した。明治4年(1871年)には旧藩校・興譲館に「洋学舎」を設置するために尽力し、慶應義塾出身の村道之助・宮内赫助・滝川喜六ら3名を招いた。
明治4年(1871年)、岩倉使節団に随行し、訪欧する。当初はロシアに留学する予定であったが、ベルリンで青木周蔵・品川弥二郎らの知遇を得て説得され、統一したばかりのドイツでの留学に切り替えた。ベルリン大学で政治学、ハイデルベルク大学で国際法、ライプツィヒ大学で商法を習得する。このうちハイデルベルク大学では日本人として初の、博士号(ドクトル・フィロソフィ)を得た。
法務官僚として
明治9年(1876年)1月に帰朝。内務省御用掛となり、のち大蔵省に転ずる。長州藩出身の品川・青木の仲介により、木戸孝允・山縣有朋・伊藤博文ら長州閥の知遇を得て、かつて政府に敵対した米沢出身でありながら長州系の官僚として信頼されていくことになる。
ドイツ法学の専門家として大蔵省翻訳課長、少書記官、法制局専務などを歴任。明治15年(1882年)には、憲法調査のため、伊藤の憲法調査団に随伴。病で帰国した後は、内閣制度導入に関わる法制度整備に貢献した。
山縣閥に連なる
明治23年(1890年)の帝国議会発足時には、同年9月29日貴族院議員に勅撰され[1]、枢密院書記官長を兼ねる。平田は貴族院内で勅撰議員を中心とする会派・茶話会の結成に務め、山縣直系の貴族院官僚派の牙城を築いた。明治32年(1898年)第2次山縣内閣では法制局長官。産業組合法はじめ数々の法案に携わる。この内閣では星亨率いる憲政党との妥協によって、議会運営の円滑化を図り、地租増徴案を成立させたが、その後一転して文官任用令を改正し、政党勢力の猟官を阻害した。改正には法制局長官の平田が積極的に関わっていたため、憲政党から非難されることになる。明治33年(1900年)12月28日、錦鶏間祗候に任じられた[2]。
第1次桂内閣では桂太郎の要請に応じて農商務大臣に就任。1901年には、後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地における50名以下の選出議員からなる商業会議所の設立を推進した[3]。この商業会議所制度は、後継の商工会議所法により廃止される1927年まで続いた。
さらに第2次桂内閣では内務大臣となる。明治41年(1908年)には日露戦争後の自由主義・社会主義思想の勃興や弛緩した世情を危ぶみ、思想統制政策として戊申詔書の公布を仰ぎ、また地方政策では、地方改良運動を推進した。陸軍および内務系官僚に広範な「山縣閥」を築いた山縣側近の中で、陸軍の側近が桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅らとすれば、平田は清浦奎吾・田健治郎・大浦兼武らと並ぶ官僚系の山縣側近として人脈を形成した。
明治43年(1910年)大逆事件が発生した際は、内相として犯人検挙を指揮。翌年幸徳秋水らの処刑後、事件発生の責任を負って桂首相らとともに待罪書(辞表)を提出するが、明治天皇の慰留を受けて、職に留まった。同年、子爵となり華族に列する。
元老に次ぐ存在
大正元年(1912年)12月には、第2次西園寺内閣の総辞職を受け、元老会議で後継首相に推されるが、辞退。以後は閣僚などの表舞台には立たず、貴族院および宮中における山縣閥重鎮として、元老に次ぐ影響力を保ち続ける。
立憲政友会を与党とした第1次山本内閣がシーメンス事件のスキャンダルに見舞われた際には、茶話会は清浦奎吾率いる会派・研究会とともに、海軍予算7,000万円減を成立させ、3,000万円減の衆議院と対立。両院協議会でも決着せず、予算不成立となり、山本内閣を総辞職に追い込んだ。ただし直後に、清浦が組閣の大命を受けた際に、海軍側は海軍大臣を出さなかったため流産させられる形で報復された(鰻香内閣)。更に研究会側がこの流産を平田の清浦への嫉妬と茶話会の策動のためではないかと疑って両会派の不和の原因となったが、平田にとっては全く身に覚えのないことであった。
寺内内閣においても内相就任を要請されるが、固辞。同内閣下では臨時外交調査会委員、臨時教育会議総裁となる。大正11年(1922年)には内大臣に就任するとともに伯爵に陞爵する。その後、清浦内閣の成立に力を尽くした。大正14年(1925年)3月、病気により辞任。同年4月に逗子の別荘で死去した。享年77。
生前の大正10年(1921年)、九段坂牛ヶ淵に建てられた平田東助像は、彫刻家・新海竹太郎が制作し、甥(兄・祐順の子)で建築家の伊東忠太が台座を設計したものである。昭和館建設のため、東京町田市相原町の中央協同組合学園内に移設された。
栄典
- 位階
- 1879年(明治12年)12月18日 - 正七位[4]
- 1880年(明治13年)5月25日 - 従六位[4]
- 1882年(明治15年)5月1日 - 正六位[4]
- 1884年(明治17年)10月20日 - 従五位[4]
- 1890年(明治23年)7月11日 - 従四位[4]
- 1896年(明治29年)8月10日 - 正四位[4][5]
- 1900年(明治33年)11月10日 - 従三位[6][7]
- 1909年(明治42年)6月11日 - 正三位[8]
- 1925年(大正14年)4月14日 - 正二位[9]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)3月11日 - 勲五等双光旭日章[4]
- 1887年(明治20年)5月27日 - 勲四等旭日小綬章[10]
- 1890年(明治23年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[11]
- 1894年(明治27年)3月9日 - 大婚二十五年祝典之章[4]
- 1898年(明治31年)6月28日 - 勲二等瑞宝章[4]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 旭日重光章・金杯一組[12][6]
- 1902年(明治35年)2月27日 - 男爵[6][13]
- 1903年(明治36年)12月14日 - 勲一等瑞宝章[14]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章[15]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 子爵[16]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[17]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[18]
- 1919年(大正8年)5月24日 - 旭日桐花大綬章[19]
- 1922年(大正11年)9月25日 - 伯爵[20]
神社合祀令
神社合祀令は、明治39年(1906年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された。この訓令は一つの町村に一社を標準とするものであったが、地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。この訓令の目的が、祭神や由来の分らない淫祀や財政的な基盤のない小社を駆除し、由緒のある神社を保護することであった為である。だが、平田は第2次桂内閣の内務大臣としてこの訓令を強固に推し進めることを厳命し、さらに保護すべき神社についての判断を府県知事にゆだねた。そのため特に合祀政策の甚だしかった三重県では県下全神社の9割が廃止されるという事態になった。
こうした合祀政策には南方熊楠、柳田國男等の智識人が異を唱えることとなり、明治43年(1910年)を境に急激な合祀は終熄したものの、地方の文化や習俗、祭礼に甚大なる影響を与えた。
脚注
- ↑ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ↑ 『官報』第5250号、明治34年1月4日。
- ↑ 『商業会議所法』(明治34年3月25日法律第31号)、官報。国立国会図書館
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 『平田東助』 アジア歴史資料センター Ref.A06051167900
- ↑ 『官報』第3936号「叙任及辞令」1896年08月11日。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 『従三位勲二等男爵平田東助以下十七名勲位進級初叙及勲章加授ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A10112563000
- ↑ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
- ↑ 『官報』第7788号「叙任及辞令」1909年6月12日。
- ↑ 『官報』第3791号「叙任及辞令」1925年4月15日。
- ↑ 『官報』第1172号「叙任及辞令」1887年5月28日。
- ↑ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
- ↑ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
- ↑ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ↑ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
- ↑ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ↑ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ↑ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ↑ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧
- ↑ 『官報』第3047号「授爵・叙任及辞令」1922年9月26日。
参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「平田東助」(執筆:鳥海靖)
- 『日本史大事典 5』(平凡社、1992年、ISBN 4582131050)「平田東助」(執筆:由井正臣)
- 『南方熊楠コレクション5 森の思想』(河出書房新社、1992年、ISBN 9784309472102)
関連項目
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代: 神鞭知常 |
法制局長官 第8代:1898年11月8日 - 1900年10月24日 |
次代: 奥田義人 |
先代: 林有造 |
農商務大臣 第18代:1901年6月2日 - 1903年7月17日 |
次代: 清浦奎吾 |
先代: 原敬 |
内務大臣 第26代:1908年7月14日 - 1911年8月30日 |
次代: 原敬 |
先代: 松方正義 |
内大臣 第7代:1922年9月18日 - 1925年3月30日 |
次代: 浜尾新 |
日本の爵位 | ||
先代: 陞爵 |
伯爵 平田(東助)家初代 1922年 - 1925年 |
次代: 平田栄二 |
先代: 陞爵 |
子爵 平田(東助)家初代 1911年 - 1922年 |
次代: 陞爵 |
先代: 叙爵 |
男爵 平田(東助)家初代 1902年 - 1911年 |
次代: 陞爵 |