常願寺川

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富山県富山市小見にて

常願寺川(じょうがんじがわ)は、富山県中新川郡立山町 および富山市を流れ富山湾に注ぐ一級河川。古くは新川(にいかわ)と呼ばれ、新川郡の名の由来ともなっている。大森川(おおもりがわ)とも呼ばれた。 本項目では上流の真川(まがわ)と湯川(ゆかわ)も合わせて説明する。

富山県の七大河川(黒部川片貝川早月川、常願寺川、神通川庄川小矢部川)の一つ。

地理

富山県富山市南東部の立山連峰北ノ俣岳に源を発する真川と浄土山を源にし立山カルデラを流れる湯川が樺平(かんばだいら)付近で合流して常願寺川と名を変える。その後称名川、和田川、小口川を合わせ流下する。上流域はきわめて急峻な地形で、標高1,000m 以上の高地は流域の約73%に及ぶ。[1]

中新川郡立山町との境界に沿って北西に流れ、富山市高来と富山市水橋辻ケ堂の境界で富山湾に注ぐ。下流域では富山市上滝を扇頂とする常願寺川扇状地を形成し富山平野の一部をなしている。

流域の自治体

  • 富山県
富山市立山町

支流

分流

概要

約3,000mの標高差に対し、川の延長は僅か56kmという、世界でも屈指の急流河川である。明治時代、常願寺川の改修工事のために政府から派遣されたオランダ人の技師のヨハニス・デ・レーケが、「これはではない。である」と言ったと伝えられている。この言葉は、実際には「とても急流だ」というような意味のことを言ったのが誇張されて(または誤訳されて)報告されたものであるが、常願寺川の急流の凄さを表現する言葉としてよく引用されている。内務大臣に提出した県知事の上申書に「川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」とあり、これをデ・レーケの発言とする説もある[2]が、どれも明確ではない。

「常願寺川」の由来は、上流にあるの名前や地名など複数の説が存在するが、人々が氾濫が起きないよう常に願っていた気持ちもこめられているのではないかという考え方もある[3]

歴史

日本屈指の急流であり、降水量の多い地域であることから、流域では昔から水害に悩まされてきた暴れ川である。

常願寺川の治水の歴史は古く、1581年天正9年)、佐々成政富山城下を守るために堤防を構築したのが本格的な治水事業の始まりとされる。この堤防は佐々堤(さっさてい)と呼ばれ現存する。河底に埋めた巨岩を基礎とする三面玉石張りの霞堤で、当時としては画期的な規模と強度であった。[4]また江戸時代富山藩の六代藩主前田利與洪水対策の水防林を植えさせたものが、現在も殿様林として残っている。

かつては河口付近で大きく東へ屈曲し白岩川と合流していた。そこでヨハニス・デ・レーケの指導により、富山湾まで新しい直線的な流路を開削し、常願寺川と白岩川は1892年(明治25年)に分離された。これ以降は河口付近での洪水は激減した。デ・レーケは他にも常願寺川の堤防改修や護岸工事や、用水ごとに設けられていた取水口を統合する「合口」を計画した。当時の常願寺川には23もの取水口があり、取水のための堰が流れを弱め川底に土砂が堆積することが破堤の一因と指摘している。1893年(明治26年) に12の用水を統合した常西合口用水が完成した。

江戸時代の安政期の飛越地震により、上流部の支流である和田川の流域の立山カルデラで、大規模な山体崩壊が発生した。その後の大規模な土石流により下流域は大量の土砂によって埋め尽くされ、川は石の多い地下を流れ、あまり表には見えてこない。しかし集中豪雨ともなれば、様相がうって変わって手の付けられない暴れ川となる。その証拠に川沿いには大小の石が点々と残っている。水田近くに点在する重さ数トンもある巨大な石は大転石と呼ばれ、140年前に起こった安政の土石流によって運ばれたものである。古文書によれば「こんな巨石が川底の石とぶつかり、火花を散らしながら流れてきた」という[5]

この土石流による被害は、当時の富山藩領内の18ヶ村に及び、死者140人、負傷者8,945人、流出家屋1,603戸に及んだ。特に左岸の村々の被害は甚大であり、これらの村は被害の少なかった右岸の土地に移住した。常願寺川の右岸と左岸に同一地名があるのはその名残である。土石流によって流れてきた直径5メートル以上の大転石、被害を伝える地蔵像・水神像や犠牲者の供養塔などその被害を伝える数々の遺物が川沿いに残されている。

安政の地震で流出した約2億立方メートルの土砂によって河床高は、大日橋付近で約8メートル、立山橋付近で20メートルも河床が上昇したと推定されている。その後、常願寺川では明治元年~明治45年の45年間に41回もの洪水・土砂災害が発生し、人家や農作物に多大な被害をもたらしている。[6]

また、水源地から流出した土砂により下流域では河床高が地盤高よりも高い天井川を形成した。1949年昭和24年)から1967年(昭和42年)にかけて、タワーエキスカベータによる大規模な河床掘削を実施した。現在では天井川はほぼ解消されているが一部区間で残っている。[7]

また、立山カルデラは脆い地盤のため、時々小規模の落石が起こる。以来、砂防工事が現在まで続けられている。1906年(明治39年)から県営事業として行われていたが、だけでは十分な工事が行えないため、1926年大正15年)からはの直轄事業として行われている。立山カルデラにたまった土砂は約2億立方メートルで、全て流れ出すと富山平野の全体が平均2mの土砂で覆われると推測されている(白岩砂防堰堤)。

明治時代の廃藩置県の際に、一度は旧越中国の全域が石川県に編入された際に旧越中国の住民から分県運動が起こり、その結果、再び富山県に分離されるに至った背景には、この常願寺川などの災害に対して、旧加賀国能登国と旧越中国との間での意識の隔たりが大きかった事が大きな要因とされる。

1934年 (昭和9年)には立山カルデラを含む上流部は中部山岳国立公園に指定されている。

自然環境

上流域では主にイワナが生息する。下流域ではカジカや鮎、ウグイメダカトミヨなどが生息する。河床内で越冬・産卵するアジメドジョウが大河川では珍しく広範に生息する。[8]

河川施設一覧

常願寺川流域には約950基の砂防設備が設置されている。堆砂量は約2,300万立法メートルで東京ドーム約19個分に相当する。

主な砂防・治水設備

巨大水制群

1950年(昭和25年)〜1955年(昭和30年)にかけて堤防への衝撃を守るため流速の軽減や流向の是正を目的に作られた。L字型のピストル型水制は、ここで発明され、現在では全国の急流河川で利用されている。

ダム(支流を含む)

一次
支川名
(本川)
二次
支川名
三次
支川名
ダム名 堤高
(m)
総貯水
容量
(千m3)
型式 事業者 備考
常願寺川 岩井谷ダム 16.2 重力 北陸電力
常願寺川 牛首谷川 真川ダム 19.1 48 バットレス 北陸電力
常願寺川 和田川 有峰ダム 140.0 222,000 重力 北陸電力
常願寺川 和田川 新中地山ダム 35.0 68 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 祐延ダム 45.5 8,790 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 小口川ダム 72.0 2,718 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 小俣ダム 37.0 761 重力 北陸電力
常願寺川 小口川 マッタテ川 真立ダム 21.8 26 バットレス 北陸電力

主な橋梁

道路橋

鉄道橋

水道橋

  • 常願寺川沿岸用水 左岸連絡水路橋 – 2008年(平成20年)。ダブルデッキ式三連コンクリートアーチ構造。別名「豊水橋」。

脚注

  1. 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.5
  2. 内務省技術顧問 ヨハネス・デ・レーケ(農林水産省)
  3. レファレンス事例詳細 20100021(国立国会図書館)
  4. 水田恒樹「河川の活動と都市の形成が相互に与えた影響に関する史的研究」 2014年、P.24
  5. 1858年4月9日 飛越地震 その1(内閣府 防災情報のページ)
  6. 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.17
  7. 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.5, P.17, P.22, P.28
  8. 常願寺川水系河川整備計画 国土交通省北陸地方整備局 2010年。P.9, P.44
  9. 平成29年11月28日文部科学省告示第178号。白岩堰堤、本宮堰堤、泥谷堰堤の3か所を合わせて、指定名称を「常願寺川砂防施設」に改めた。
  10. 平成29年11月28日文部科学省告示第178号
  11. 11.0 11.1 『「瓶岩橋」不通1年超 大山-立山間 富山市予算不足 見通し立たず 地元住民「生活に支障」』北日本新聞 2016年12月10日27面
  12. 大山歴史民俗研究会『大山の歴史と民俗』第15号 p.130
  13. 大山歴史民俗研究会『大山の歴史と民俗』第15号 p.131
  14. 千垣橋梁 選奨土木遺産 土木学会
  15. 富山土木史拾遺 P.116
  16. 富山土木史拾遺 P.116

関連項目

外部リンク