崎津集落

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﨑津集落(さきつしゅうらく)は熊本県天草市河浦町﨑津一帯の総称で、羊角湾に面した潜伏キリシタンの里として知られ、文化財保護法に基づき「天草市﨑津・今富の文化的景観」の名称で重要文化的景観として選定されている。2016年世界遺産登録審査予定であった長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産であったが推薦は一時取り下げられ、改めて2018年の審査対象となり、6月30日長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として世界遺産登録が決定した[1][2]

歴史

天草下島南部は室町時代より豪族の天草氏が領有し、1566年永禄9年)に天草久種南蛮貿易目的でルイス・デ・アルメイダ布教を許し、自身も洗礼を受けジョアンを名乗った。1569年(永禄12年)には教会堂も建てられた。﨑津は一般的ルートではないが遣唐使船が寄港するなど古くからの良港で、ルイス・フロイスの『日本史』には「Saxinoccu(サキノツ)」の記述があり、西洋にも知られていた。その後、キリシタン大名小西行長が天草を含む肥後南部を支配することになり、豊臣秀吉バテレン追放令後も宣教師を庇護した。

江戸時代になり1613年慶長17年)の禁教令によりキリシタンは潜伏化し、1621年元和7年)にはコンフラリアportuguês版[注 1]が組織された。1629年寛永6年)には アントニオ・ジャノネ神父が﨑津で潜伏布教を行ったが、1637年(寛永14年)の島原・天草の乱によって天草は荒廃。だが、﨑津を含む下天草の人々は参戦しなかったことで、処罰されずに済んだ(﨑津は外界と隔絶していたため乱を知らなかった)。乱後に天草は天領となり、代官鈴木重成が定浦制度を設け、次代の重辰1659年万治2年)に定浦を17ヶ所に増やした際に﨑津も指定されたことで漁業キビナゴ漁)が盛んになるきっかけとなった[注 2][注 3]。定浦制度とは御用(幕府公用)船と荷子(水夫)を調達させる代わりに漁業権を与え、運上の安定を図るもの。

しかし、全国的に宗門改寺請制度が始まり、1717年享保2年)には鎖国による南蛮船の来航と密航抜け荷を監視する長崎奉行管轄の遠見番所が置かれ地役人が常駐したこともあり(湾口のに置かれ今でも「番所の鼻」と呼ばれている)[注 4]、キリシタンは表向き仏教徒を装うようになった。現在では国道389号(﨑津バイパス)が集落を通過するが、かつては海路しか交通手段がなかったこともあり、隠れ住むのに適した地の利であった。﨑津でも長崎各地の潜伏キリシタン同様オラショを唱えるなどしたが、特徴的なのはロザリオやメダイとともにアワビタイラギなどの貝殻を聖具としたことにある[注 5]1651年慶安4年)に建立された﨑津諏訪神社へ詣でる際には、「あんめんりうす(アーメン デウス)」と唱えていた。また、﨑津の潜伏キリシタンは踏み絵を拒絶せず、嫌疑を払拭した。実際には足の裏に紙を貼り直接聖像に触れないよう配慮したり、踏んだ足を洗いその水を飲むことで罪の許しを乞うゆるしの秘跡にしたという伝承もある。

1805年文化2年)、﨑津・今富・大江高浜の四郷10669人中5205人の潜伏キリシタンが摘発される「天草崩れ」が発生。しかし全員を処罰すると天領経営が成り立たなくなることから穏便に済ませたい江戸幕府の意向と、高浜の庄屋で高浜焼を興し『天草島鏡』を記した上田宜珍(源太夫・源作)の「心得違いをしていたが改心した」との取り成しで放免されたため多くは信仰を捨てなかった。これは前述の偽装棄教が功を奏したといえる。なお、天草崩れの取り調べの際、「悲しみ節(イエス・キリストが40日間荒野で断食したことに因む四旬節のこと)の時は多くが食を断つ」と証言しており、教会暦教義の習慣が継承されていたことが窺える。

1873年明治6年)に禁教令が解かれると、カトリックへの復帰が始まる。﨑津では1876年(明治9年)に多くが改宗し、1878年(明治11年)に熊本県知事富岡敬明宗門人別改帳の転宗願いを届け出たが、1872年(明治5年)に戸籍法が制定され壬申戸籍が作られ宗旨の項目がなくなったことから受理されなかった。1880年(明治13年)に﨑津諏訪神社の隣に小さな小屋のような教会が建てられ、次いで1885年(明治18年)により大きな教会へ建て替えられた。明治中期には﨑津600戸のうち550戸がクリスチャンであったとされる。

明治後半から天草炭田の操業に伴い人や物資の往来が増え[注 6]、﨑津は長崎航路が就航したことから船宿料亭映画館などができ、下天草随一の賑わいを見せた。さらに昭和40年代には漁法の近代化や漁船の大型化により、漁業(ちりめんじゃこ漁)の最盛期を迎えた。

1896年(明治26年)に﨑津村と今富村が合併して富津村となり、1954年(昭和29年)に富津村は町田村・新合村との合併で旧河浦町となった。2006年平成18年)に現行の天草市となり、現在約350世帯が暮らしている。

世界遺産への歩み

2007年(平成19年)、長崎県が世界遺産登録推進会議と世界遺産学術会議を発足させ、翌年には近隣県の関連資産の検討を始めたことをうけ、天草市が教育委員会文化課内に登録推進室を設置(この時点では集落ではなく﨑津教会が対象)[3]

2009年(平成21年)、重要文化的景観に申請した「﨑津の文化的景観」と「大江の文化的景観」を長崎の二会議が﨑津教会とは別の資産候補として扱うことを検討[3][注 7]

2011年(平成23年)、﨑津地区が重要文化的景観に選定。

2013年(平成24年)、長崎県が正式な構成資産12ヶ所を確定したが、﨑津教会は文化財未指定で2004年(平成16年)に修復が行われ文化資材真正性English版の欠如や信徒の同意が得られていないこともあり、候補には含まれなかった[3]

2014年(平成26年)、文化庁文化審議会により「天草の﨑津集落」として構成資産に追加決定。7月10日、長崎の教会群とキリスト教関連遺産が2016年の登録審査の正式候補となる。11月6日、バチカン市国ユネスコ代表部大使フランチェスコ・フォロfrançais版氏が﨑津を訪問して、﨑津教会のみならず﨑津諏訪神社にも参拝し、世界遺産登録を応援することを約束。

2015年(平成27年)1月22日、推薦書を世界遺産センターへ提出。9月28日、ユネスコの委託を受けた国際記念物遺跡会議(ICOMOS)調査員(フィリピン人建築家ルネ・ルイス・S・マタ氏)による﨑津の現地調査実施。11月に現地調査の結果を精査するICOMOS内部の報告会に同席した文化庁職員が、「教会群の価値は潜在的に認めるが、禁教期の集落(補:﨑津と平戸島春日集落)のように世界的にも稀有な長期の潜伏信仰という事象を反映していない」との指摘をうける[4][注 8]

2016年(平成28年)2月9日、同年1月15日付で通知された「推薦内容を禁教期重視に見直すべき」とのICOMOSから中間報告をうけ、﨑津集落を含み推薦を取り下げることが閣議了解。教会建築を主としてきた長崎県の構成資産は﨑津集落を手本に集落景観へと置き換え、法的保護根拠も重要文化的景観を主体とすることにした。7月25日、再推薦することが決定。

2017年(平成29年)2月1日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と名称を改め、﨑津集落を含み再推薦が行われた。9月6日、ユネスコの委託を受けたオーストラリア・イコモスEnglish版の調査員リチャード・マッケイ氏による﨑津の現地調査実施。

2018年5月4日、ICOMOSによる登録勧告が出される。同年6月30日、登録が決定[1][2]

地誌

﨑津集落は﨑津港の西岸、金比羅山を中心とする岬の東裾野にあり、国道389号から分岐し岬の海岸沿いを走る旧国道(サンセットライン)の700m程の区間に密集する集落。道路を挟み山側は山裾を開削して建てられた家屋が一軒毎に連なり、反対側は最長でも50mほど(最短10m弱)でに出てしまう。家屋の大半は10坪前後しかない。

集落の景観を特徴づけるのは、狭い土地で暮らす知恵から生み出された海に突き出た平均幅5m四方の「カケ」(「掛け」が語源)というテラス状の木組足場と、密集した家屋の間をすり抜ける幅1m弱の「トウヤ(トーヤ)」(元来は「背戸屋」)という細い小路である。カケは船の係留や漁具の手入れ・干物干しなどに使われる。トウヤを抜けると海やカケに出る。現在、カケは19基、トウヤは約40本(戦後下水道整備などに伴い私道として延長されたものがあり、数には諸説ある)[注 9]。どちらも現役で使われており、活きた民俗文化財であり稼働遺産である[注 10]

江戸時代中期まで﨑津の海岸線は現在よりも10mほど内陸側にあり、埋立により陸地を広げたことが発掘調査で確認され、その際の地割り(区画)が1823年文政6年)に描かれた『天草嶋﨑津港近郷海濵要図』(九州大学記録資料館蔵)に記されており、護岸の石積みも含め現代までほぼそのまま保たれていることが窺える。

﨑津では現在でも正月以外にも注連縄を掛けている家があり、これは潜伏キリシタンがキリシタンでないことを表した偽装で禁教時代の名残である。

﨑津教会と﨑津諏訪神社を結ぶ道(カミの道)は、教会の聖体行列と神社の御神幸祭の空間(文化的空間)として共有されるなど、シンクレティズムインカルチュレーションアカルチュレーションの場として注目される。

文化的景観保護の取り組みとして、2010年(平成22年)に天草市文化財保護審議会に文化的景観整備管理委員会が設立され、市の都市計画課や県の土木部・農林水産部のみならず、国土交通省九州地方整備局水産庁など国の機関地方公共団体の文化部署が招集し、積極的に地域住民の意見も聞き、日常生活での利便性を損なわない「﨑津・今富の文化的景観」保全のための最善の策を検討。活動成果として国土交通省の社会資本整備総合交付金(旧街なみ環境整備事業)や経済産業省のコト消費空間づくり分担金の交付が受けられ、世界遺産登録へ向けた環境整備に充てることで地域の負担軽減につながった。これは全国の重要文化的景観選定地自治体が参考にしている。

世界遺産に求められる法的保護根拠など完全性(インテグリティ)は文化財保護法の重要文化的景観以外に、景観法屋外広告物法自然公園法による雲仙天草国立公園の一部として、さらに漁港漁場整備法の適用で港湾部の現状変更が制限され、急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律により集落後背山斜面の樹木伐採が禁じられることで景観の保護につなげる珍しい応用も試みられ、都市計画法第一種低層住居専用地域も視野に入れている。

熊本地震 (2016年)をうけ、町並景観を守るための耐震工事の検討と、鎌倉の世界遺産登録事前調査でイコモスから津波対策への甘さの指摘があり天草でも江戸時代の島原大変肥後迷惑のように津波が襲った歴史もあるので、地域での防災への自発的取り組みが始まった。

﨑津教会(天主堂)

1927年(昭和2年)に赴任してきたフランス人司祭のハルブ[注 11]神父(1864~1943)の希望で、かつて踏み絵が行われた庄屋宅(吉田家)跡に鉄川与助によって1934年(昭和9年)に現在の﨑津教会が建立された。ゴシック様式の三廊式平屋で、リブ・ヴォールト天井構造に切妻屋根瓦葺き。正面の尖塔拝廊と手前二間は鉄筋コンクリート製だが、予算の都合で祭壇を含めた奥三間は木造建築になっている。コンクリート部分の外壁は大正末期~昭和初期に流行したざらつき感のあるドイツ壁(モルタル掃き付け仕上げ)風に仕立てている。室内の壁は漆喰塗りで白く明るく、教会としては珍しい敷き(原則として内部の撮影は禁止)。

2004年から翌年にかけて老朽化に伴う改修工事が行われ、木造部分は化粧合板となっている。

教会自体は文化財指定をうけていないため、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産としては教会単独ではなく、﨑津集落内の景観の一部として扱われている(重要文化的景観でも構成要素に含まれていない[注 12])。

献堂式の際の信者は536人、現在は約400人ほどのクリスチャンがいる。

テンプレート:鉄川与助

今富集落

今富は﨑津の背後に連なる山間部の集落で、熊本県道35号牛深天草線が開通するまでは﨑津経由でなければどこにも行けない陸の孤島であったため、﨑津との密接な関係が構築された。住所は天草市河浦町今富(地図)。約170世帯が暮らしている。今富川とその源流である大川内川・西川内川を境界に大川内・西川内・志茂(新田)の三地区から形成されている。2012年(平成24年)、﨑津に対し今富が重要文化的景観に追加選定された。

漁労の﨑津に対し、今富は農業が主体であるが、江戸時代初期までは﨑津の入り江(河内浦)が干潟として現在よりかなり内部まで入り込んでおり、今富にも船着き場があった。江戸中期より明治にかけて干拓が行われ農地を確保した。現在、田畑となっている志茂地区は干拓によって作られた。それ以前は山の斜面を切り拓いた段々畑と林業が細々と営まれていた。

昭和40年代より果樹栽培が導入され、昭和60年代に最盛期を迎えたが、その後は衰退し現在では果樹畑の大半は放棄されている。

明治以降、小規模ながら今富炭鉱が開発されたが、1965年(昭和40年)に閉山した。

今富の農業を支えた肥料は﨑津から持ち込まれた魚粕干鰯・貝殻で、﨑津の海辺に見られる「カケ」は今富で取れた棕櫚であるなど、両集落間は「メゴイナエ」という物々交換で生活経済が成り立ち、相互扶助の関係にあることから(文化循環)、重要文化的景観としては一体感をもって形成しているとしているが、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産ではない。

今富川にはクレソンが自生しているが、これはかつて宣教師が薬味薬草として持ち込んだものが野生化したものとされ、地元では「パーテラゼリ()」と呼ばれている。パーテラはポルトガル語で神父を意味する「パードレ(padre)」に由来する[注 13]

1804年(文化元年)、今富でキリシタンであることを示す物品が押収され、翌年の天草崩れの引き金となった[注 14]。ただ今富の庄屋は、事態の収束に尽力した上田宜珍の弟・友三郎であり、こちらも大事には至らなかった。

今富の潜伏キリシタンは隠れ蓑とした仏教・神道に加え、修験道にも感化し、土着の民俗的要素が強まった。他の地域の潜伏キリシタンは聖母マリアの姿を観音像に見立てたが(マリア観音)、大川内川上流の大山大神宮には天照大神の石像としてマリアを擬態化させたものがある。また、山中の岩場を聖域として参拝していた[注 15]

禁教が解けた後、1881年(明治14年)には今富教会堂が建立されたが、カトリックに復帰した﨑津とは対照的に隠れキリシタンの習俗を堅持した。天草に赴任したフェリエ神父の1884年(明治17年)の手記には、「今富村(大河内・西ノ河内・片白・仏の平・大山の迫)全体で274戸、内キリシタン241戸、仏教徒33戸」とあるが、キリシタンとしたものの多くが必ずしもカトリックに帰依していたわけではない。また、「水方」という世襲の神父代役が2人いたことを記している。しかし、水方の死もあって儀式が継承されなくなり、仏教・神道の中にキリスト教的要素を含む形で日常所作に残るのみとなった。現在今富には教会堂はない。

﨑津が登場する作品

小説

  • 『天草回廊記 隠れキリシタン』示車右甫 海鳥社 2012 … 天草崩れを描く。小説の体裁をとっているが、文中に上田宜珍の日記など当時の古文書から詳しい日時・人名・証言を引用しており資料性が高い。世代を経て隠れキリシタンも取り調べる側も同時期に処罰の対象だった隠れ念仏隠し念仏)のような異端の派生仏教程度にしか捉えていなかった節が窺える
  • 藍より青く山田太一 中央公論社読売新聞社 1972 … 天草が舞台で主人公が家出をして﨑津の旅館に身を寄せる。1972年から翌年までNHK連続テレビ小説で映像化され、﨑津のシーンは実際に現地で撮影された

ノンフィクション

脚注

指定脚注なきは以下が出典

注釈

  1. 本来は「兄弟愛」(友愛)を意味し、広義では信者の互助組織。日本では「信心会」「慈悲の組」「拝み講」などと訳され、集落単位の下部組織はコンパンヤportuguês版(小組)という。フラタニティとソロリティも参照
  2. 江戸時代中期には天草を代表する七浦の一つにまで発展した
  3. 﨑津同様に隠れキリシタンが多かった五島列島のキビナゴ漁法は﨑津から伝えられたとされる
  4. 朝鮮琉球漂流船の保護も役目で、水夫の亡骸は﨑津集落対岸の向江地区にある程合墓地(唐人墓)に葬った
  5. 貝を神聖視したのは十二使徒聖ヤコブホタテ貝伝説に由来するとの説もある
  6. 江戸時代後期には天草陶石の積み出し港としての役割もあった
  7. 「大江の文化的景観」は重要文化的景観未選定のため、後に候補から除外された
  8. 審査経過の不透明さから2016年より諮問機関の内部審議に当該推薦国の関係者が臨席できるようになった
  9. 向かい合わせ(背中合わせではない)の住民同士が互いに庭先の敷地を提供して作られたトウヤは「トウトウヤ(等々家)」と呼ぶ
  10. 同じ天草の牛深にもカケに類似した「ナダナ」があったが現在は残されていない
  11. 綴りはHalboutで、フランス語ではhを発音しないためアルブがより近い発音になる
  12. キリシタン文化を象徴するが、江戸時代から続く漁村の景観にあって昭和の建築物は「偶然景観の中にある存在」という解釈
  13. 明治以降の宣教師がフランス人であったことから、フランス語での神父「パートレ(prêtre)」が語源で、禁教時代からの呼び名ではない
  14. この他、屠殺仏壇に供えた後に食すという事件があったとも伝わる。これは仏教における肉食という食のタブーを犯すことでキリシタンであることを表明したものである
  15. 岩陰遺跡から発展した自然崇拝と、イエスが「岩の上に私の教会を建てる」(マタイによる福音書16:18)と言った故事が習合したものとの説がある

関連項目

外部リンク

座標: 東経130度1分32.61秒北緯32.3124333度 東経130.025725度32.3124333; 130.025725 (﨑津教会)