山田隆夫

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山田 隆夫(やまだ たかお、本名、山田 隆夫(異体字標記)1956年8月23日 - )は、東京都江東区出身の日本タレント歌手作詞家作曲家落語家プロボクサー(四回戦)で、元アイドル血液型A型5代目鈴々舎馬風門下で高座名は鈴々舎鈴丸れいれいしゃ すずまる東京都江東区深川出身。

2014年4月から芸名の表記を『笑点』出演時を除き「山田たかお」に改めている。

来歴・人物

生い立ち

幼少期、実家が詐欺に遭い全財産を失う。それにより両親がいつも暗い顔をしていたので、山田は落語で両親を心から笑わせたいと思うようになり、これが落語に興味を持つきっかけになった[1]。10歳の時、フジテレビの『ちびっこのどじまん』でデビュー。その後複数の番組に出演し、1970年からは日本テレビの『笑点』の「ちびっ子大喜利」コーナーにレギュラー出演した[1]

ずうとるび

「ちびっ子大喜利」コーナーの座布団10枚獲得記念賞品がレコードデビューということで、1973年ずうとるびのメンバーとして歌手デビューし活躍する。[1]ずうとるび在籍時代には歌手として第26回NHK紅白歌合戦に出場。その後日本大学豊山高等学校を卒業する。

ずうとるび脱退

1977年、結婚を機にずうとるびを卒業する[1]。建前上は結婚のため卒業となっているが、実際はこの頃ずうとるびの音楽的方向性の考え方の相違から、当時は他のメンバーと険悪な状態になっており、山田自身の意思による脱退だった。

山田はモンキーズのようなポップ色の強いバンドを目指していたが、他のメンバーはバンド名の由来ともなったビートルズのようなロックバンドを目指していたことから口論や喧嘩も絶えなかったとを、後に日本テレビ系番組『壮絶バトル!花の芸能界』にて明かしている。山田がモンキーズを目指していたことは、ずうとるびのシングル「恋の夜行列車」からも読み取れる。この曲は山田自身の作詞・作曲であるが、これはモンキーズのデビュー曲である「恋の終列車(Last Train To Clarksville)」からヒントを得たものである。 ずうとるび脱退以降は俳優に主軸を置いた活動となるが、脱退とともにずうとるびとして出演していた番組を軒並み降板する事になった。その為仕事の数が急激に減り、当時既に所有していたマンションが主な収入源となっていた時期を経験する事となる。この時期の出演番組のひとつにNHKの子供向け番組『おかあさんといっしょ』があり、毎週土曜日に放送されていたコーナー『どんどんどん』のお兄さんを1980年度の1年間勤めた。

『笑点』の「座布団運び」として

1984年10月7日からそれまでの松崎真に代わり、『笑点』大喜利での6代目座布団運び役に就任した。これまで座布団運びを務めてきた人は体格の良い者ばかりであったが「重い座布団をちっちゃいのが運んだらおもしろいんじゃないか」という5代目三遊亭圓楽と番組プロデューサーのアイデアで、岐路に立っていた山田に白羽の矢が立った[2]。山田の色紋付は当初赤紫だったが、1年後若干オレンジ気味の朱色(番組ではと呼ばれる事が多い)に変わる。定紋は『剣かたばみ』。地方収録のときは、「山田流座布団運び家元とその一座でございます」という芝居がかった挨拶をするのが恒例となっている。

年齢的にはベテランながらいつまでも下働き的な役目をしていることから、回答者からしばし「今週限りで番組卒業」「あんな仕事は誰でも出来る」「山田の挨拶はつまらん」などと馬鹿にされることが多く、これに反発して回答者を蹴り飛ばすなど荒っぽいやり方で座布団を没収する。これは5代目三遊亭圓楽の目立たなくなりがちな座布団運びを番組に絡ませるための提案が元で始まった。山田罵倒ネタは林家こん平林家たい平師弟と6代目三遊亭円楽(楽太郎)、桂歌丸が使用することが多い。また正月特番などの特別大喜利でゲスト出演者が座布団運びをする際は、ゲスト(或いは大喜利メンバー)から「後継者を狙っている」とイジられることもある。座布団の回収について5代目圓楽からは判断を一任されていたが、歌丸が司会になってからは没収した枚数+1枚をあげるよう指示されることが多い。なお芸歴上は歌丸、林家木久扇、6代目円楽以外のメンバーは後輩にあたるが、メンバーからは未だに「山田君」と呼ばれている[3]

江戸川区在住時代は5代目圓楽から「江戸川のスター」と紹介されることが多かったが、東京都の区画整備により高圧鉄塔が立つために立退き、横浜市に引っ越した。新居落成時には、番組でメンバーのお宅訪問が行われた。山田本人はこの邸宅を「座布団御殿」と呼んでいる。

なお、笑点には座布団係に徹するために本名で出演しているが、鈴々舎馬風に入門し、落語家として「鈴々舎鈴丸」という名を持っている。入門のきっかけは笑点の座布団運びになった事で、落語での世界のしきたり・作法や立ち振る舞いなどを勉強する意味で、落語家修行を始めたものである[2]。番組内では時折「大喜利メンバー入り」の意思を宣言しており、稀に大喜利で回答することもあるため弟子入りしたとも考えられている。

これまで『笑点』では司会者が代わると座布団運びも交代するのが慣例であったが、山田は5代目圓楽に続き、桂歌丸、春風亭昇太の元でも座布団運びを続けている。1998年7月には自身が務めていた「大喜利」の座布団運びを若手[4]に任せることとなり一ヶ月間休んだが、視聴者から苦情や抗議が殺到したため5代目円楽も「山田君がいないとダメだ」とすぐに座布団運びに戻した[5]

俳優活動

俳優として多数のテレビドラマや映画に出演している。1987年にアメリカ映画『太陽の帝国』(スティーヴン・スピルバーグ監督)に出演し、話題となった。このことは後に『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で取り上げられた。また、これに伴い山田は役作りのために坊主頭になっており、その時期警察署の一日署長を務めたことがあり、そのときの写真が笑点40周年記念本に収録されている。

この演技が認められ、『ミスター・ベースボール』に通訳の役で出演が決定し、山田自身も出演を公表していたが実現しなかった。また、この経歴から大喜利の10枚獲得賞品における「世界の大スター」として登場したこともある(1999年9月5日放送分より)。

出演

主なドラマ出演

映画

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バラエティ

その他

その他

  • 部員として林家こん平が監督するらくご卓球クラブに所属。
  • 結婚歴は2回。元妻・吉川桂子との間に娘2人、現在の妻との間に息子1人、娘1人がいる。そのため子沢山を笑点内で頻繁にネタにされており、山田自らも「子作り名人」ということを売りにしていた。元妻・吉川との結婚式は、当時東京12チャンネルでMCを務めていた『対決!スーパーカークイズ』内で行われた。元妻と現在の妻は漢字は違うものの、同じ「けいこ」という名である。『笑点』公式サイト上の用語集によると、元妻が「桂子」、現妻が「恵子」と標記されている。息子の太一はマネージャー見習いとして父の仕事について回っている(『誰だって波瀾爆笑』2012年1月8日放送分)。
  • ずうとるび卒業後プロボクサーのライセンス(プロボクシングC級ライセンス)を取得した。
  • 『ズバリ言うわよ』に出演した際、細木数子の本を愛読し、そのおかげで妻の病気が治ったことが明らかになっている。しかし細木からは「笑点で、そろそろ座布団運びから解答者にならないとだめだ」と言われている。
  • 認知症を患う母親をアパートに住まわせていたが、諸般の事情から母親の看護は姉に全て任せたため、母親が亡くなるまで山田自身は一度として見舞いに訪れなかったという。「笑点」の大喜利でたい平を突き飛ばして自らの小指の靱帯を切った際、嫌な予感がしたと思ったら、そのとき母親が危篤状態で、そのまま息を引き取ったと笑点オフィシャル本の中で語っており、「身体を休めなさい」という母親からのメッセージが、小指の靱帯を切ったという形で現れたのではないかと本人は語っている。
  • 土地に関して、超能力的な先見の明があるとされており、様々なエピソードがある。
    • ずうとるび時代から、土地を買って不動産経営を始め、マンション経営で成功している。知る人ぞ知る事柄だったが、『ズバリ言うわよ!』出演時に改めて公表した。
    • はねるのトびら』のコーナー内にて、マンションを2棟持ってる事を公表している。いずれも買った土地の近くに鉄道が通ったり、商業施設が出来るなどして、一等地となり、新築のビルを建設し、賃貸マンションを経営し始めた。この、賃貸マンションで月数百万円の収入を得ている。その新築パーティーに笑点メンバーを招待したが、その中で6代目円楽(当時楽太郎)だけは誘わなかったとのこと。
    • 上述の通り元々、東京都に住んでおり、区画整備により立退いて横浜市に引っ越しているが、その過程について2006年9月17日放送の「笑点」の大喜利でたい平に、最初に買った土地が東京都の区画整備で10倍の値段で売れる→次に買った土地が高圧鉄塔で立退き料で何十億を貰う→4階建てのエレベーター付の家を建てる(上述の「座布団御殿」)→今の土地にもうすぐ地下鉄の駅が出来る[6]、と土地でかなりの金額を得ていると言われたが、大喜利での答えであり、真偽の程は不明。
    • 2018年7月28日放送の『嵐にしやがれ』出演時の林家木久扇によると、過去に2度地下鉄駅の建設による立ち退き料大金を手にしているといい、本人も「小さいですが大家です」と語っていた。
  • 以前立川志の輔と共にペヤングソースやきそばのCMに出演した際、まるか食品からカップ焼きそばを段ボールで1年分送られたらしく、そのカップ焼きそばのファンでもある六代目三遊亭円楽から分けてくれとせがまれた事があったと言う。
  • 「笑点」大喜利コーナーで運んでいる座布団は1枚3kg以上あり、ぎっくり腰を何度もやっている。そのため、日頃からジムで筋トレをしているという[7]

ディスコグラフィ

著書

  • ボクに運が巡ってくる55の理由 座布団運び山田くんの法則(廣済堂出版) 2012年(平成24年)5月25日発刊(企画・構成:今村良樹)

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』90ページ
  2. 2.0 2.1 ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』91ページ
  3. ただし、6代目司会の春風亭昇太は3問目に「山田君、皆さんに例のものを配ってください」と声を掛けるとき以外は原則として「山田さん」と呼んでいる。
    また山田自身も「山田さん」と呼ばれても気づかなかったことを咎められた際に「いや、山田君って呼んでくれないと‥」と返すなど、敢えて呼ばせていることを窺わせている。
  4. この若手の中には、現司会者の春風亭昇太や大喜利レギュラーとなる林家たい平も含まれていた。
  5. ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』92ページ
  6. 実際に、2008年3月30日横浜市営地下鉄グリーンラインが開業した。
  7. 2014年5月16日付日本経済新聞 文化面「座布団と積み重ねた幸せ」

関連項目

外部リンク

先代:
松崎真
1971年7月〜1984年9月
笑点」座布団運び
6代目
1984年10月〜 
次代:
-

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