山本有三
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年(明治20年)7月27日 - 1974年(昭和49年)1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。本名は山本 勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化勲章受章者。
社会劇・歴史劇を次々に発表し、大正末期より小説に転じる。政治家としては戦後に貴族院勅選議員に勅任され貴族院が廃止されるまでこれを務めた後、第1回参議院選挙に全国区から出馬して当選、参議院議員を1期務めた。
来歴
呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち[1]、高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局家業を手伝うことになる。
この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌の結社、竹柏会に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』、『文章世界』に投稿して入選している[2]。その後、1905年に母の説得で再度上京。正則英語学校、東京中学に通い[3]、1908年(明治41年)東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し[4]、東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。
在学中から「新思潮」創刊に参加し、修了後、早稲田大学ドイツ語講師として働きながら[5]、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛や芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。1932年(昭和7年)には新設された明治大学文芸科の科長に就任。しかし、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに軍部の圧迫を受けるようになった。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員に選ばれている。
戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間つとめて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年には文化勲章を受章している。
1974年1月5日に国立熱海病院に入院し、1月17日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。戒名は山本有三大居士[6]。
山本が愛した東京都三鷹市の西洋式の屋敷と庭園は、戦後GHQによって接収されて米軍高級将校宅として使われることになったため、山本は後ろ髪を引かれる想いで転居を余儀なくされた。占領が終わった後も民間の研究所や文庫として使われたため、山本はついにこの屋敷に戻り棲むことを得なかった。この旧邸宅は1996年(平成8年)に改装されて三鷹市山本有三記念館として開館、一般公開されている。またこれとは別に、山本の郷里の栃木県栃木市には山本有三ふるさと記念館がある。
命日の1月11日は、1月11日の数字の並びと有三の「三」の字にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている。
栃木市立栃木中央小学校には、子供たちの大先輩として、各教室に路傍の石の中の言葉、「たった一人しかない自分を――」が飾ってある。
家族
父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをしたのち、呉服屋で修業を積み独立するも失敗し、かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商・三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ[1]。1907年に脳溢血で死去[1]。姉がいたが、夭折したため一人っ子[1]。
1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚[5]。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897-1930)と再婚し、有一(1921-1930)、朋子(1925-2007)、玲子(1927-)、鞠子(1928-2010)の四子をもうける[7][8]。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳のときに結核で母を亡くしたのち、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業、21歳のときに同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した[9]。
『破船』事件
漱石門下の久米正雄と仲が悪く、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと久米も松岡も筆子も考えていた[10]。
著作
- 『生命の冠』戯曲集 新潮社、1920年
- 『欲生』 叢文閣、1920年
- 『坂崎出羽守』戯曲集 新潮社(現代脚本叢書)、1921年
- 『女親』 稲門堂書店(戯曲叢書)、1922年
- 『塵労』 金星堂、1922年
- 『同志の人々』戯曲集 新潮社、1924年、のち岩波文庫
- 『嬰児殺し』戯曲集 改造社、1924年
- 『途上』 新潮社(感想小品叢書)、1926年
- 『熊谷蓮生坊』現代戯曲選集 春陽堂、1926年
- 『生きとし生けるもの』 朝日新聞連載(1926年9月25日〜12月7日、未完)、文藝春秋社、1927年、のち角川文庫・新潮文庫
- 『西郷と大久保』戯曲集 改造社、1927年、のち角川文庫
- 『波』 朝日新聞連載(1923年7月20日〜11月22日)、朝日新聞社、1927年、のち岩波文庫・新潮文庫・講談社文庫
- 『女人哀詞』戯曲集 四六書院、1931年、のち角川文庫
- 『山本有三全集』 改造社(日本文学大全集)、1931年
- 『風』 朝日新聞連載(1930年10月26日〜1931年3月25日)、朝日新聞社、1932年、のち新潮文庫
- 『女の一生』 朝日新聞連載(1932年10月20日〜1933年6月6日、中断)中央公論社、1933年、のち新潮文庫
- 『瘤』短篇集 改造社、1935年、のち岩波新書
- 『心に太陽を持て 胸にひびく話 - 二十篇』 新潮社(日本少國民文庫)、1935年、のち新潮文庫
- 『日本名作選』 新潮社(日本少國民文庫)、1936年、のち新潮文庫
- 『世界名作選』1-2 新潮社(日本少國民文庫)、1936年、のち新潮文庫
- 『真実一路』 主婦之友連載(1935年1月〜11年9月)、新潮社、1936年、のち新潮文庫・角川文庫
- 『戦争と二人の婦人』 岩波書店、1938年
- 『山本有三全集』全10巻 岩波書店、1939–41年
- 『不惜身命』 創元社、1939年、のち角川文庫
- 『米百俵年 隠れたる先覚者小林虎三郎』 新潮社、1943年、のち新潮文庫
- 『路傍の石 』朝日新聞連載(1937年1月1日〜6月18日)、岩波書店、1941年、のち新潮文庫
- 『新編 路傍の石』 主婦之友連載(1928年11月〜1940年7月、未完)、岩波書店、1941年、のち新潮文庫
- 『道しるべ』 実業之日本社、1948年
- 『山本有三文庫』全11巻 新潮社、1948–50年
- 『竹』 細川書店、1948年
- 『無事の人』 新潮社、1949年、のち新潮文庫
- 『山本有三作品集』全5巻 創元社、1953年
- 『山本有三文庫』全7巻 中央公論社(中央公論社作品文庫)、1954-1955年
- 『海彦山彦』 角川文庫、1956年
- 『濁流 雑談=近衛文麿』 毎日新聞社、1974年
- 『山本有三全集』全12巻 新潮社、1976-1977年
- 『兄弟・ふしゃくしんみょう』 旺文社文庫、1979年
翻訳
- 『名誉』 ヘルマン・ズーダーマン原著、赤城正蔵、1914年
- 『死の舞踏』 ストリンドベルク原著、洛陽堂、1916年
- 『シュニッツレル選集』 楠山正雄共訳、新潮社、1922年
- 『情婦殺し』 シユニツツレル原著、新潮社、1926年
文学碑
- 太平山(栃木県栃木市) 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら 人間生まれてきたかいが ないじゃないか」(『路傍の石』より)
- その他にも栃木市内に数多くの文学碑がある。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 社会派の戯曲でスタート 山本有三(1)千葉日報社、2014年02月6日
- ↑ 荒正人『作家と作品 山本有三』日本文学全集 山本有三集、集英社。
- ↑ 卒業生紹介東京高等学校公式サイト
- ↑ 高橋英夫『偉大なる暗闇: 師岩元禎と弟子たち』63ページ
- ↑ 5.0 5.1 小説を新聞に連載 山本有三(2)千葉日報社、2014年02月20日
- ↑ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)347頁
- ↑ 本田関係略家系図本田増次郎Web記念館
- ↑ 妻は優秀な秘書馬込文学マラソン、2015.3.7
- ↑ 本田増次郎美咲町著名人
- ↑ 関口安義『評伝松岡譲』小沢書店、1991年
関連項目
外部リンク