山中貞則

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山中 貞則(やまなか さだのり、1921年大正10年)7月9日 - 2004年平成16年)2月20日)は、日本の政治家。鹿児島県囎唹郡末吉村大字深川(現曽於市)出身。位階勲等正三位勲一等称号沖縄県名誉県民竹富町名誉町民。

衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(31代)、自由民主党政務調査会長(23代)、通商産業大臣(43代)などを歴任した。

税制のスペシャリストとして長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。ニックネームは「ヤマサダ」、「ヤマテイ」。浜田幸一や一部の官僚達からは「テイソク」と呼ばれた。

略歴

趣味・特技

  • 柔道四段
  • 刀剣鑑賞(財団法人日本美術刀剣保存協会会長)
  • 和歌雅号は隼人) ・・・歌集に『慟哭』、『南回帰線』。鹿児島県の現代歌人の列伝である「現代短歌・かごしま」(春苑堂出版)にも収録されている。また戦地での総攻撃を前に詠んだ「いささかの愛惜を断ち焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し」は、「昭和万葉集」(講談社)に収録された。
  • 読書(1962年8月の衆議院大蔵委員会の席上「私は推理小説の鬼と言われるほど乱読する方であります」と発言し、松本清張の長編『黄色い風土』を一読することを当時の警察庁刑事局長に薦めている)

エピソード

豪快な人柄、特に税制面での政策通ぶり、国士とも評された政治姿勢などから「山中伝説」と呼ばれる数々のエピソードを残した。

  • 県議会議員の選挙では「民族再建」と書かれたを掲げに跨って街宣していた。
  • 国会初登院時の服装は、アロハシャツだった。
  • 一年生議員の頃は名を上げるため積極的に先輩議員を殴り、時には本会議場入口で待伏せしていた。当時の吉田茂首相に会釈したが無視された時に、「こら待て吉田、なんだその態度は!」とあわや乱闘になろうかという騒ぎを起こした。
  • 大蔵政務次官就任後の初登庁時に紋付羽織袴で乗込み、職員たちを驚かせた。
  • 防衛庁長官時代、74式戦車の名前を「山中式戦車」にしてくれと装備局に頼むも却下された。
  • 中曽根派に属し、領袖である中曽根康弘よりも年少、かつ当選回数も少ない後輩であったが、関係は良好とは言えず中曽根のことを死ぬまで「中曽根君」と呼んでいた。晩年には、「中曽根元首相を君付けで呼ぶ唯一の人物」となっていた。中曽根内閣当時、税制改革に関して中曽根をバカ、マヌケ呼ばわりしたこともあった。
  • 佐野眞一のルポルタージュ集 『畸人巡礼怪人礼讃 新忘れられた日本人2』(毎日新聞社、2010年7月)に沖縄と山中の関係を取り上げた文章がある。ニクソンショック直後に沖縄だけ1ドル360円で交換、首里城の復元工事を推進し、選挙区でもない沖縄のために683本の特例法を通した背景には、鹿児島県出身者として薩摩藩琉球支配への贖罪意識があったという。また「米軍が沖縄に上陸していなければ、志布志湾に上陸し、鹿児島がひどい目に遭っていた」と、沖縄戦の犠牲に報いる意味もあった[1]
  • 消費税導入の議論を党税制調査会でする際には冒頭で「今日から消費税の議論をする。全員落選の覚悟で議論しろ」と述べた[2]。1990年の総選挙では、消費税問題の逆風、同じ選挙区の二階堂進が政治力を大きく低下させていたことによる「自民党で落ちるのは二階堂」というムードの影響で、県連が山中より二階堂にてこ入れしたため、最下位当選の有川清次に28票差で落選。しかし、「消費税を通す犠牲になった」ということになり、1993年の国政復帰後の発言力は、むしろ増大した。
  • 1993年の総選挙では党分裂の影響で自民党は振るわなかったが、山中は72歳の高齢ながら返り咲きに成功した。
  • 親台派議員として、日華議員懇談会会長も務めた。1971年には当時の保利茂自民党幹事長が美濃部亮吉東京都知事に託した周恩来宛の書簡に抗議するも日本刀を差し出されて退散した[3]
  • 1979年の税調会長就任以降は、信条として税制に関する限り一切の陳情及び取材を受け付けなかった。そのせいか、山中の影響力が絶大だった時期にも、選挙区の主要産業である葉タバコ焼酎の増税案が通過している。ただし、肉用牛に関する所得税の時限の免税特例措置は1967年に山中の尽力で導入され、山中の税調会長就任後も何度か延長されて事実上の恒久措置となった。
  • 政府税調と方針が対立して「政府税調を軽視しているのではないか」と聞かれた際に、「軽視ではない。無視しておる」と発言した[4][5]
  • 税制調査会では会長退任後も最高顧問として事実上の最高実力者であった。森内閣の頃には、自3党と関係閣僚が合意した経済対策が、税制の部分に山中が同意しないことを理由にストップしたことすらあったという。
  • 2001年小泉純一郎が「聖域なき構造改革」を掲げて総理大臣に就任すると、道路特定財源など税制のあり方も改革の俎上に上がった。小泉は税制について山中の事務所をたびたび訪れ協力を要請、総理も無視できない税制分野における山中の権勢に注目が集まった。山中は報道陣に対し、「税のことは50年しかやっていないのでよくわかりません」と煙に巻いた。
  • もっとも小泉とは個人的に親しい関係でもあった。1970年代前半、衆院大蔵委員会において、宴会などを理由に中座する議員が続出する中、最初から最後まで出席していた議員が山中と新人議員の小泉純一郎の2人であった(小泉は最前列、山中は最後列)。このことから、山中は小泉のことを目にかけことあるごとに指導を行った(当時の自民党新人議員は党や行政のポストを狙って、地味な国会の委員会は軽視しがちであった)。小泉の父である小泉純也は鹿児島県加世田市出身で、それも山中は気に入ったらしい。
  • 大蔵官僚および自民党税調会メンバーとして長年付き合いのあった津島雄二は「ちょっと神格化されすぎている」と評している。
  • 晩年は糖尿病の悪化もあって杖をついて歩いていたが、決して杖をついている姿を撮らせなかった。
  • 自民党総務を晩年に至るまで務め、総務会の重鎮として重きをなした。
  • 例外的に夫婦の別姓を実現させる会最高顧問。2002年に家裁の許可を要件とする例外的夫婦別姓制度を議員立法で試みた。
  • 遺言で「後継は山中家から出してはいかん」と世襲を否定し、身内からの後継出馬を当然視していた自民党鹿児島県連が大騒ぎになった(山中死去に伴う補選では自民党は森山裕を擁立し当選した)。

著書

  • 『顧みて悔いなし─私の履歴書』(日経事業出版、2002年)

脚注

  1. 岩見隆夫「佐藤栄作に学ぶべきだ」『岩見隆夫の近聞遠見』(毎日新聞2010年5月14日付朝刊)
  2. 毎日新聞 2008年6月2日東京朝刊
  3. “日中関係打開めざした「保利書簡」 「いぶし銀の調整役」保利茂(7)”. 日本経済新聞. (2011年10月30日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2401G_V21C11A0000000/ . 2017閲覧. 
  4. 千葉商科大学経済研究所-機関紙
  5. 民主党の税調改革で「法人税減税」「社会保障と税の一体化」は実現するか ダイヤモンド・オンライン 政局LIVEアナリティクス第61回 2010年11月2日

関連項目

外部リンク


公職
先代:
安倍晋太郎
日本の旗 通商産業大臣
第43代:1982年 - 1983年
次代:
宇野宗佑
先代:
増原恵吉
日本の旗 防衛庁長官
第31代:1973年 - 1974年
次代:
宇野宗佑
先代:
床次徳二
日本の旗 総理府総務長官
第20代:1970年 - 1972年
次代:
本名武
先代:
創設
日本の旗 沖縄開発庁長官
初代:1972年
次代:
本名武
先代:
創設
日本の旗 環境庁長官
初代:1971年
次代:
大石武一
議会
先代:
臼井荘一
日本の旗 衆議院大蔵委員長
1963年 - 1964年
次代:
吉田重延
党職
先代:
水田三喜男
自由民主党政務調査会長
第23代:1974年
次代:
松野頼三
先代:
倉成正
加藤六月
自由民主党税制調査会長
第18代:1979年 - 1982年
第21代:1986年 - 1989年
次代:
村山達雄
三塚博
名誉職
先代:
奥野誠亮
最年長衆議院議員
2003年 - 2004年
次代:
中山太郎

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