小山内薫
小山内 薫(おさない かおる、1881年(明治14年)7月26日[1] - 1928年(昭和3年)12月25日[1])は、明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家、演出家、批評家。日本の演劇界の革新にその半生を捧げた。
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来歴
陸軍軍医である父の赴任地、広島(広島県広島市細工町:現在の中区大手町)で、八男として生まれた。5歳のとき父が38歳で早逝したことから東京市麹町区富士見町へ移った。麹町幼稚園[2]、富士見尋常高等小学校[2]、府立一中を経て、旧制一高時代に失恋をきっかけに内村鑑三に入門。内村の主宰する雑誌の編集などを手伝ったが、まもなくキリスト教を離れた。東京帝国大学文科大学文学科に進学。1学年留年しており、英語教師ラフカディオ・ハーンの解任に対する留任運動に加わったためともいわれる[3]。在学中から、亡父のかつての同僚でもある森鴎外の知遇を得て、伊井蓉峰の一座の座付作家となって舞台演出に関わったり、詩や小説の創作を行った。1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学文学科(英文学)卒業[4]。1907年(明治40年)、知人で木場の材木商だった数井政吉から資金援助を受け、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。6号まで刊行し西欧の演劇評論・戯曲を精力的に紹介した。1908年(明治41年)に書いた『内的写実主義の一女優』という文献の中で、初めて「演出」という言葉を使ったといわれる[5]。1909年から読売新聞に連載後、1911年出版された自伝的小説『大川端』では、芸者との恋模様を描いた。
1909年(明治42年)、欧州から帰国した歌舞伎俳優の二代目市川左團次と共に自由劇場を結成。第1回公演にはイプセン作、鴎外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演。当時ヨーロッパの主導的な芸術理論となりつつあったリアリズム演劇の確立を目指し、日本の新劇史上に重要な足跡を刻んだ。20世紀初頭の日本の代表的演劇は歌舞伎で、看板役者中心の演劇であり、客は個々の役者の芸を堪能しに芝居見物に出かけた。このような演劇のあり方に対して、小山内の考えた近代演劇とは、何より戯曲を優先し、それを正しく表現する媒介としての演出、演出に基づいて初めて演技がある、というものだった。
1912-1913年に渡欧し、モスクワ、ベルリン、ロンドンなどを訪れた。各地の劇場に通ったが、特にモスクワではモスクワ芸術座による『どん底』を2回観て、俳優・演出家スタニスラフスキーの自宅に招かれた。 同じく渡欧していた親友・山田耕筰は、小山内との関係から演劇や舞踏への傾斜を深め、帰国後の1916年(大正5年)、小山内と移動劇団「新劇場」を結成した[6][7][8]。石井漠はこれに加わり、創作舞踊詩を始めた[9][10][11]。また、子役時代の水谷八重子を指導した他[12]、藤原義江は松井須磨子の芝居を観たことと、人を介して小山内ら新劇関係者に会ったことで演劇に憧れ、演劇を志したと話している[13]。
1919年(大正8年)、小村欣一、長崎英造、久保田万太郎、久米正雄、吉井勇らと演劇革新を目的とする「国民文芸会」を創立。1920年(大正9年)2月、松竹が映画製作に乗り出し松竹キネマ合名社を設立。3月には、この中に創設されたキネマ俳優学校に招かれ校長に就任。36名の研究生を募集し養成したが、小山内はこれを単なる学校とは考えず、これら生徒と映画を志して小山内のもとにやってきた人々を集めて実習的に映画の製作を始める[14]。同年7月、松竹蒲田撮影所が出来て映画製作が始まると、本社理事兼撮影総監督として村田実、牛原虚彦、島津保次郎、大久保忠素、水谷文二郎らをスタッフに従え、『奉仕の薔薇』や『光に立った女』などを製作して映画界の革新を図った。そのため従来の商業路線の製作陣と対立、同年村田、牛原らスタッフ達や映画学校の卒業生らと松竹キネマ研究所を設立。その第一作として製作した『路上の霊魂』は同時に進行する出来事をクロスカッティングしたり、回想場面を挿入したりする近代映画の技法をふんだんに取り入れた、日本映画初の芸術大作というべきものだった。続いて『山暮れる』と『君よ知らずや』の二本を製作するが、興行不振などを理由に1921年(大正10年)松竹キネマ研究所は解散され、小山内は松竹の取締役兼相談役に転じた。2年後にはそれも辞し、松竹から退く[14]。
映画界に関わった期間は短かったが、伊藤大輔、北村小松、鈴木傳明、澤村春子ら、映画界の人材を育てた功績は大きい[14]。この間、1910-1923年には慶應義塾の英文科講師として教壇にも立った。1921年には赤い鳥社から童話集『石の猿』も出版している。
1923年(大正12年)、中山太陽堂の顧問となり、プラトン社発行の雑誌に関与。この関係で関東大震災後に一時大阪天王寺に居を定める。川口松太郎はこの頃小山内の書生をつとめた。
1924年(大正13年)帰京し、ドイツから帰国した土方与志と共に築地小劇場を創設。築地小劇場は、小山内、土方を中心に和田精、汐見洋、友田恭助、浅利鶴雄の六人の同人によって創設されたもの。和田精は和田誠の父、浅利鶴雄は浅利慶太の父である[15]。築地小劇場は経営的には苦しむが、ゴーリキー、チェーホフらの戯曲を上演、新劇運動の拠点となった。俳優の養成は勿論、照明、音響、衣裳などにも新しい試みを行い、「演出」という言葉を創り、「演出家」という職能を確立させた[16][5]。
1925年(大正14年)8月には開局まもないNHK東京放送局で日本初のラジオ劇『炭鉱の中』を演出。[17]これは、放送局内に人材がいなため、小山内に依頼されたものだが、以来、ラジオドラマは新劇が手掛けることになる。また、ラジオドラマの製作を機に音響効果が飛躍的に進歩を遂げた[18]。1927年(昭和2年)には松竹による国産発声映画の先駆作『黎明』を監督。
同年ソ連の革命10周年記念行事に招かれた際に、無理な日程で体調を崩した。翌1928年(昭和3年)12月25日、円地文子の最初の戯曲「晩春騒夜」上演後の謝恩会が催された日本橋の中華料理店で倒れ、脳梗塞(もしくは動脈瘤による心臓麻痺)のため急死[19]。享年48。戒名は蘭渓院献文慈薫居士[20]。その生涯の活動は日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された。戦後、新劇は運動の域を離れ、文学座、俳優座、民芸などを中心に職業演劇の道を歩んでいる。
家族
父・小山内建(玄洋)は陸軍軍医で、高橋お伝の遺体の解剖や、日本で初めてクロロホルムの麻酔で手術をしたことで知られる。広島鎮台病院(広島陸軍病院)院長を務め、その後広島医学校の教頭も兼任した[21]。母・錞(しゅん)は小栗忠順の分家にあたる旗本・三河小栗氏の出で、藤田嗣治の伯母。
妹の岡田八千代は18歳で作家デビューし、洋画家岡田三郎助と結婚。
長男・小山内徹はミステリ翻訳家。次男・小山内宏は、戦後日本における軍事評論家の先駆者で[22]、三男・小山内喬は歌舞伎役者(市川扇升)[23]。
立松和平は長男・小山内徹の娘婿にあたり、姪は女優の東榮子(宝塚歌劇団6期生の元タカラジェンヌ、宝塚時代の芸名は關守千鳥)。児玉源太郎や芦原義信とも遠戚にあたる。
逸話
- 1910年(明治43年)、谷崎潤一郎らと共に第2次『新思潮』を創刊。実質は谷崎ら青年作家の同人誌で、小山内は名貸しをしただけだった。その創刊号は、小山内自身が寄稿した小説『反古』のため、発売禁止になった。
- 1911年(明治44年)には日本で初めてのカフェー開店にも関わった。この店は洋画家松山省三らが、パリのカフェーのように文化人が集い芸術談義を楽しむサロン的な場所を標榜して開いたものである。小山内が「カフェー・プランタン」と命名し看板も書いた。この店は森鴎外、永井荷風、北原白秋、谷崎潤一郎、岡本綺堂、島村抱月、菊池寛ら多くの文化人が会員や常連客となった。
- 1918年(大正7年)5月、宝塚少女歌劇養成会が初めて東京に進出し帝国劇場で1週間の公演を行った。帝劇に足を運んだ小山内は時事新報紙上で「日本歌劇の曙光」と題して、少女歌劇のことを「こういうものから本当の日本の歌劇が生まれてくるのではないか」と評し、「この一座にはスタアという者がありません」と指摘。宝塚少女歌劇団の演出家だった高木史郎はその著書の中で「宝塚少女歌劇団全体がスターであるという宝塚少女歌劇団の基調を見事に言い当てた」と記している。
著書
戯曲
- 『自由劇場』郁文堂書店 1912
- 『第一の世界』新潮社 1922
- 『息子』東光閣 1924
- 『亭主』春陽堂 1926
- 『森有札』改造社 1926
- 『小山内薫戯曲全集第一巻』春陽堂 1926
- 『小山内薫戯曲全集第二巻』春陽堂 1927
- 『許嫁』清香社 1928
- 『小山内薫戯曲集』(創元文庫)創元社 1953
詩
- 『小野のわかれ』(『七人』臨時増刊)1905
- 『夢見草』本郷書院 1906
- 『小野のわかれ』中庸堂 1907
小説
- 『窓』(小説集)春陽堂 1908
- 『蝶』(小説集)水野書店 1909
- 『笛』(小説集)春陽堂 1910 発禁
- 『霧積』(小説集)春陽堂 1912
- 『大川端』樅山書店 1913、春陽堂 1927、春陽堂日本小説文庫 1933
- 『鷽』(小説集)樅山書店 1913
- 『一里塚』(小説集)植竹書院 1915
- 『盲目』四方堂 1915
- 『手紙風呂』(小説集)通一舎 1915
- 『第二の女』(小説集)通一舎 1916
- 『江島生島』新潮社 1916
- 『伯林夜話』(小説集)春陽堂 1916 発禁
- 『就眠前』平和出版社 1917
- 『黄昏の世界―或若い役者の手記―』正午出版社 1917
- 『英一蝶』(小説集)玄文社 1918
- 『手鏡』春陽堂 1918
- 『石の猿』赤い鳥社 1921、ほるぷ出版 1969
- 『足拍子』プラトン社 1924
- 『三つの願ひ』春陽堂 1925、ほるぷ出版 1974
- 『新選小山内薫集』(小説集)改造社 1927
- 『夢の浮橋』歌舞伎出版部 1929
- 『東京の消印』(『伯林夜話』の改題)創元社 1949
- 『お岩 小山内薫怪談集』 (幽クラシックス) メディアファクトリー 2009
評論・随筆・紀行
- 『演劇新調』博文館 1908
- 『演劇新声』東雲堂 1912
- 『演劇論集』日東堂 1916
- 『世話狂言の研究』天弦堂 1916
- 『北欧旅日記』春陽堂 1917
- 『戯曲作法』春陽堂 1918、創元文庫 1953
- 『旧劇と新劇』玄文社 1919
- 『芝居入門』プラトン社 1924、岩波新書 1939
- 『演劇概論』松陽堂 1925
- 『演劇と文学』集成社 1926
- 『演劇論叢上巻』宝文館 1928
- 『演出者の手記』原始社 1928、洗林堂 1941
- 『舞台芸術』早川書房 1948
翻訳
- 『決闘』(チエエホフ)梁江堂書房 1910
- 『近代劇五曲』大日本図書 1913
- 『星の世界へ』(アンドレエフ)金楼堂 1914
- 『信仰』(ブリユウ)玄文社 1919
- 『続近代劇五曲』 国文堂 1921
- 『忠義』(メエスフィルド)東亜堂 1921
- 『近代劇五曲』(正続二冊) 金星堂 1921
- 『忠義』(メエスフィルド)玄文社 1923
- 『休みの日』(マゾオ)金星堂 1924
- 『夜の宿』(ゴリキイ)金星堂 1925
- 『ピツパが踊る』(ハウプトマン)原始社 1926
- 『隣人の愛』(アンドレエフ)原始社 1926
全集
- 『小山内薫全集』全8巻 春陽堂 1929〜1932、臨川書店 1975
- 『小山内薫演劇論全集』全5巻 未来社 1964〜1968
参考文献
- 『増補版 戦後演劇 — 新劇は乗り越えられたか』 菅孝行 著、社会評論社、2003年
- 『レビューの王様 — 白井鐵造と宝塚』 高木史郎 著、河出書房、1983年7月
- 『私説放送史』 大山勝美 著、講談社、2007年1月
- 『小山内薫 近代演劇を拓く』 小山内富子 著、慶應義塾大学出版会、2005年2月
- 『日本の映画人 日本映画の創造者たち』 佐藤忠男 著、日外アソシエーツ、2007年6月
- 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』 蘆原英了 著、新宿書房、2007年
- 『人物・日本映画史 1』 岸松雄 著、ダヴィッド社、1970年8月
- 『日本映画傳』 城戸四郎 著、文藝春秋新社、1956年9月
- 『日本映画の誕生 講座 日本映画1』 緑川亨 著、岩波書店、1985年10月
- 『小山内薫と二十世紀演劇』 曽田秀彦 著、勉誠出版、1999年12月
関連項目
補注
- ↑ 1.0 1.1 文芸家協会編『文芸年鑑 昭和5年版』新潮社、1930年、pp.13-14
- ↑ 2.0 2.1 『小山内薫 近代演劇を拓く』 小山内富子 著、慶應義塾大学出版会、2005年、53頁
- ↑ ハーンの後任が夏目金之助である。
- ↑ 『官報』第6910号、明治39年7月12日、p.340。『東京帝国大学一覧』大正元年・2年、p.201。
- ↑ 5.0 5.1 舞台監督論
- ↑ 『私の履歴書 第三集』日本経済新聞社、1963年、10-16頁
- ↑ text - 古書日月堂 | text | detail
- ↑ 山田耕筰 - おんがく日めくり | YAMAHA
- ↑ 現代舞踊の歴史 社団法人 現代舞踊協会
- ↑ 初期文化学院における舞踏教育実践について ー山田耕筰による「舞踏詩」の試みー 平沢信康
- ↑ 芸大コレクション展「斎藤佳三の軌跡-大正・昭和の総合芸術の試み-」
- ↑ 『私の履歴書 文化人 12』日本経済新聞社、1984年、22頁
- ↑ 『私の履歴書 文化人 10』日本経済新聞社、1984年、39頁
- ↑ 14.0 14.1 14.2 『日本映画の誕生 講座 日本映画1』 緑川亨著、岩波書店、1985年、39-44、112、118、119、195、196、275-283、339-341頁
- ↑ 『小山内薫 近代演劇を拓く』 小山内富子 著、慶應義塾大学出版会、2005年、193頁。
- ↑ ゆかりのある人物(小山内薫):中央区観光協会
- ↑ 炭坑の中 -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- ↑ 音の仕掛人
- ↑ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)80頁
- ↑ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)78頁
- ↑ 森鴎外の『渋江抽斎』82に「町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭方医小山内玄洋・・・後建と称して・・・中佐相当陸軍一等軍医正」云々の記述がある。父・小山内建の墓は広島市内、比治山の陸軍墓地にある。
- ↑ 『「現代日本」朝日人物事典』 朝日新聞社、1990年、397頁
- ↑ 小山内は歌舞伎でも多くの劇評を書き、二代目市川左團次や初代中村吉右衛門とは親しく交友するなど梨園との関わりも深かった。