宮崎美子

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宮崎 美子(みやざき よしこ、1958年12月11日[1][2] - )は、日本女優タレントである。熊本県出身[1][2]ホリプロ所属[1]1991年宮﨑 淑子(みやざき よしこ、「﨑」の字は山偏に竒)と改名するが、2000年に本名の宮崎美子に戻す。

略歴

幼少期

生まれてから幼稚園までは熊本市に住んでいたが、父親の転勤で大阪府豊中市大阪市へ。豊中市立南桜塚小学校に進み大分市に住む。大分市では大分市立春日町小学校を卒業、小学校在学当時からミュージカルやアナウンスなどに興味を持つ。小学生の頃から知識が豊富で、担任の教師が知らない特殊な漢字を知っていたりするなど博学であった。

大分大学教育学部附属中学校(現:大分大学教育福祉科学部附属中学校)から、1974年4月、大分県立大分上野丘高等学校に500点満点中499点というトップの成績で進学する[3]。尤も同校は公式に点数の公表はしていなかった。2年生に進級する際、熊本市健軍に戻り熊本県立熊本高等学校編入学。将来ジャーナリストを志すようになるが、1970年代の当時は社会派女性ジャーナリストとして活躍できる分野が極めて少なく、女性でも十分活躍できる法曹公務員の進路も考えていた。

その後、熊本大学法文学部法学科(現:法学部法学科)に入学する[3]。大学でのゼミは「現代の政治」(岡本宏教授)を専攻した。

カメラのCMで有名に

大学入学後、当時熊本にあった百貨店岩田屋伊勢丹(現:県民百貨店)のポスターモデルとして、ビキニ姿を披露している。さらに同大学写真部の友人が彼女をモデルにしたブロマイドを作り、それがキャンパスの至る所で目に付き、大学では有名人であった。

熊本大学3年生の1979年10月、偶然朝日新聞で見つけた「篠山紀信が撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」の表紙モデルに応募[1]。多くの応募者がスタジオで撮った写真を添えて応募していたが、当時交際していた医学部の学生が撮った、化粧けのない素っ気無いスナップ写真を添えて応募。逆にその素朴さが審査員の目に留まり、応募者約1000人のうちの50名の写真選考を通過し、面接後に最終合格者の10名に選ばれる。12月に東京で撮影。普通、素人モデルは撮影に数時間かかるが、宮崎はほんの十数分で終わった。1980年1月、「週刊朝日」1980年1月25日号の表紙を飾ることになる[1]。撮影後には篠山からグラビアモデルの誘いがあったが、家族に水着姿を見られるのが嫌でその時は断った。2月に直接、篠山紀信からミノルタ(現:コニカミノルタ)のCMへの出演依頼がある。ちょうど春休みで時間があり、撮影地のサイパンに旅行気分で行けるという理由でその依頼を受けた。

同年、ミノルタ一眼レフカメラ「X-7」のテレビCMに出演し[1]、木陰でTシャツとGパンをはにかみながら脱いでビキニ姿になるという内容で、大反響となる[4]

宮崎の出現は、それまでのグラビアモデルはスリムでなければならないという概念を崩すものであり、後に小学館の雑誌「GORO」で、篠山が撮影するグラビアに登場する。ワンピース水着で乳首の隆起も露わなまま、仰向けに横たわるカットがあった。

#ミノルタCM関連も参照。

CMモデルから女優へ

このCMで各マスコミ媒体に登場する機会が増え、雑誌やテレビにも出演。当時、現役大学生の硬いイメージと宮崎の柔らかいイメージのギャップが、必ずといっていいほど記事に取り上げられ、その後1980年代以降の「才色兼備の女子大生タレント」というジャンルを定着させた。

もともとジャーナリストを志望していたが、1980年4月、地元熊本放送の番組レポーターになる。

5月にはTBSから熊本放送の制作部長を通じて『ポーラテレビ小説』の主演女優の依頼があるが、断り続けていた。6月になると、番組担当のTBSのプロデューサーとディレクターが熊本の実家まで何度も来て、出演説得を続けた。その結果、後に、ポーラテレビ小説『元気です!』(1980年10月 - 1981年3月)で主演を務め、女優デビューを果たす[1][5]。ただ、東京の大学生のように、撮影の合間に頻繁に通学できる環境ではなく、ドラマ出演と熊本での大学生活を両立させるのは困難であった。その結果、必須科目等の単位不足で、翌春に控えた大学卒業が不可能となることにも繋がった。

『元気です!』のクランクアップ後はすぐに『2年B組仙八先生』(1981年4月 - 1982年3月、本来9月までの半年放送予定であったが、途中で1年に放送期間を変更)の出演も果たした[1]。それらの撮影中も週に1時限のゼミに出席するため、毎週 東京-熊本間を飛行機で往復し、入学から5年かけて1982年3月に大学を卒業した。その後、女優としての才能が開花し、順調にテレビ、映画、舞台とその活躍の幅を広げていった。

私生活では1989年に結婚したが、1年4ヶ月で離婚。相手は『2年B組仙八先生』のアシスタントディレクターを務めていたイースト(当時)の上川伸廣。結婚に至るまで数年にわたり、同棲に近い生活を送っていたと言われる。上川は現在もテレビ業界で活躍しており、宮崎と仕事で顔を合わせることも少なくない。

クイズ番組での活躍

大学2年生の時に、クイズ番組「アップダウンクイズ」に出場した事がある。この時は3問正解であった。[6]

『クイズダービー』では1981年10月より、女優の長山藍子の後を受け継いで6代目の2枠レギュラー解答者として、約2年間出演した。レギュラーなりたての頃は全問不正解の回もあったが、[7]正解率は3割9分7厘(平均3勝5敗ペース)の成績で、また連勝記録でも歴代4位となる10連勝を達成している。なお、宮崎の頃から2枠レギュラーは若手女性タレント枠となるが、若手女性タレントの中では一番良い正答率だった。レギュラー出演降板後も、1986年3月には竹下景子の産休代役として、4枠の席に座ったこともあるが、その時も4勝4敗&5勝3敗の合計9勝7敗、正解率.563の成績を残した。[8]

Qさま!!』で日本漢字能力検定1級に合格した。準1級に合格した数ヵ月後に1級に挑戦し、事前のテストで満点だったが、合格点の160点に9点及ばず、151点で不合格となった。その後、再挑戦して175点で1級合格した[9][10]

人物

バイクブームだった1980年代半ばに、普通自動二輪免許(当時は中型限定免許)を取得している。ヤマハのスクーターサリアンのCMに出演していた縁からか、一時期ヤマハSRX250Fを所有していたという。

故郷のサッカークラブ・ロアッソ熊本の社長である岡英生とは熊本高校時代の同級生という縁もあり、ロアッソ熊本の試合が行なわれる際は、マネージャーを帯同させずに1人で応援に行ったりしている。また、ロアッソ熊本の情報誌「K'move」にも応援コメントを寄せている。

また、熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られており、2003年度のリーグ優勝達成時にはテレビ番組の企画で自らの公約である「六甲おろしをBGMにチアガールをする」ことに挑戦したという。本来は「チアガールになって甲子園で応援する」約束だったが、スケジュールの都合で甲子園での応援が出来なかった。選手としては江本孟紀の熱烈なファンだったという。

爆笑レッドカーペット』がきっかけでもう中学生のファンになる。ただし、ファンというより「テレビに出ている息子を心配しながら応援するお母さんという感じ」である。

2010年7月20日放送の「芸能人こだわり王講座 イケタク」で、水晶等の鉱物系の石をコレクションしている事が紹介された。

相撲観戦も趣味としており、若い頃に印象に残った力士としては高見山を挙げている。2017年7月場所中に大相撲中継のゲストとして参加した際には、1972年7月場所で幕内最高優勝を果たした高見山の映像を見ながら「こんな楽しいお相撲さんは初めて。いま見ても楽しい」と振り返っている。中継席で一緒にいた芝田山(元横綱・大乃国)に関しても、1983年3月場所に寄り倒しで敗れた1番のエピソードを「あまりの大きさで、仕切っていて股の間から土俵下の審判の顔が見えたのには驚いた」とコメントしている[11]

ミノルタCM関連

CMの宮崎バージョンがあまりにもインパクトがあったため、別の2人の女性モデルが同じ動作をして収録済みであった第2弾・3弾のCMバージョンはお蔵入りとなってしまい、彼女らは日の目を見ることはできなかった。一人は宮崎より年長のプロのモデル、もう一人は一般の高校生だったという。

宮崎が出演したCMには他に「ゆかた編」「水撒き編」「ハンモック編」もあった。1981年も宮崎がCMキャラのまま、ミノルタX-7の新CMが制作されている。同年夏期に放送された「ビキニ姿でフリスビーに興じる」バージョン(スローモーションで豊かな胸と腹が豪快に上下動)は、「Gパン脱ぎ」を超えるセクシー映像として隠れたファンも多い。CMソングもRCサクセションの「こんなんなっちゃった」や、CINEMA(松尾清憲が在籍)の「君のプリズナー」に変更となっている。

この時期は他のカメラ会社も、ミノルタX-7と同様のシンプルで低価格な自動露出一眼レフを続々と発売していた。1979年にはオリンパスOM10という機種を発売。同機種のCMモデルは、アイドル歌手から女優に転じたばかりの大場久美子で、水着ポスターなどはそれなりに話題だったのだが、翌年の宮崎の登場により、すっかり影が薄くなってしまった。

1982年からは宮崎に代わり、斉藤慶子がミノルタの顔になっている(ただしX-7のCMには出ていない)。当時の斉藤も、宮崎と同じ熊本大学の学生だった(宮崎の3年下)。ただし、宮崎は半年留年で熊本大学を卒業しているが、斉藤はタレント活動を優先し大学を中退している。宮崎いわく「斉藤さんが入学してきたときは可愛いと大騒ぎだった」という事だったが、宮崎の入学時も「アグネス・ラムみたいな新入生がいる」と大騒ぎだった。『クイズダービー』の宮崎の後任のレギュラーや、宮崎司会の『気分はパラダイス』の後任アシスタントがいずれも斉藤と、この2人にはその後も因縁がある。

このTシャツとGパンを脱いでビキニ姿になる動作は、落語家の金原亭世之介(当時:金原亭駒平)の舞台芸や、志村けんの『8時だョ!全員集合』中のコントでお腹の贅肉をつかみ「ミヤザキヨシコォー」と叫ぶ芸でも評判になる。1980年11月に放送された『クイズダービー』(TBS、第250回)では、そのミノルタCMの問題が出題され、正解発表時には金原亭世之介が登場、その宮崎の舞台芸を披露している。

また、CMのパロディを演じていた志村けんは、実は宮崎の大ファンだった。1980年のTBS秋の特番で、志村は宮崎と初めて顔を合わせる。加藤茶ら他のドリフメンバーに「好きなんだろ!」と茶化されながら宮崎の隣に押し出された志村は、テレビカメラの前でありながら、強烈に照れて真っ赤になり口もきけないという素人同然の状態になってしまい、照れ隠しに宮崎の尻を触って逃げている。後に志村は学研の雑誌「BOMB!」の宮崎特集の号で宮崎と対談し、「ドリフのほかのメンバーは、あのCMのよさが理解できないんだよね」などと語っている。志村とは2009年10月から『となりのマエストロ』で共演している。同番組内では夫婦という設定である。

The・かぼちゃワイン』の作者三浦みつるは、たまたま見ていた宮崎の着替えCMにインスピレーションを喚起され、同作の連載に取り掛かったと言う経緯がある。同作品のヒロインである愛称「L(エル)」こと朝丘夏美のモデルが宮崎美子である。

さらにCMに使われていた曲も評判になり、このCMコピーを担当した糸井重里が、30秒だけであったCMソングに歌詞を付け足し「いまのキミはピカピカに光って」(作曲:鈴木慶一、唄:斉藤哲夫)としてレコードも急遽発売されるに至るなど、社会現象化した。

CM放送から22年を経た2002年3月20日にポニーキャニオンから発売されたコンピレーション・アルバム『一世風靡〜スター登場編』『一世風靡〜一曲入魂編』のCDジャケットに、宮崎が出演したミノルタX-7のCMのワンシーンが使用された[12]

出演

映画

テレビドラマ

舞台

その他のテレビ番組

※2008年3月27日の第1回、2011年10月13日の第12回、2011年12月21日の第13回、2012年7月24日の第16回、2012年9月20日の第17回優勝者
決勝に進出すると優勝間違いなしで100%優勝する。通算5回優勝していて2度の2連覇も達成している。

テレビアニメ

劇場アニメ

吹き替え

ラジオ

ディスコグラフィー

1981年秋に「NO RETURN」(作曲は八神純子)でレコードデビューしているが、その少し前、同年春~夏に放送されたポーラ化粧品のテレビCMで、宮崎の映像と共にBGMに宮崎の歌が使用されている。

1987年にシングルレコードで発売された「だからDESIRE」は、当時はまだマイナーだったラップ調の曲(カップリングは「タカラ本みりん」のCMソング)で、これをもって「日本初の女性ラッパー」とする声もある。

※特に記述の無いものはビクター音楽産業より発売。

シングル

アルバム

  • Mellow(1981年12月21日)
  • 私の気分はサングリア(1982年9月21日)
    • 収録曲「ハート哀しく」「今夜はふたり」の作詞、「マリコ」の作詞・作曲も手がけている。
    • 2008年3月、ブリッジ[2]からリマスタリングでのCD発売。
  • 美子(1983年5月21日)
    • 2008年6月、ブリッジ[3]からリマスタリングでのCD発売。

ベストアルバム

  • 黒髪メイド・イン・LOVE(1983年3月21日)

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 宮崎美子 プロフィール”. ホリプロオフィシャルサイト. . 2014-5-9閲覧.
  2. 2.0 2.1 宮崎美子 〜タレント名鑑〜”. スポーツニッポン新聞社. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
  3. 3.0 3.1 『現代の眼』1980年、第21巻、第9~12号、154ページ
  4. 小倉雄一 (2006年4月7日). “【レポート】コニカミノルタのカメラ事業終了 - コニカとミノルタの資産と、その継承は”. マイナビニュース. . 2014-5-9閲覧.
  5. 宮崎美子|オリコン芸能事典”. オリコンスタイル. . 2014-5-9閲覧.
  6. RUQSのクイズ全書(センチュリープレス) 第2部「完全無欠のデータ編」
  7. https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170603-00000015-nkgendai-ent
  8. TVじゃ見れないクイズダービー(河出映像センター 1988年)p.80
  9. 宮崎美子のスッと漢字が書ける本(ワニブックス) 第1章「漢字ワンダーランドへようこそ」
  10. 女優・宮崎美子に学ぶ漢検受検の秘訣”. TOKYO FM (2016年11月1日). . 2017閲覧.
  11. 『大相撲中継』2017年8月12日号 p19
  12. 宮崎美子、むちむちボディーが再び、ZAKZAK、2002年3月19日。
  13. 笑福亭鶴瓶、『金メダル男』出演 内村光良監督の手腕に「憧れた」”. ORICON STYLE (2015年11月27日). . 2015閲覧.
  14. “佐藤仁美12年ぶり主演映画 屈指のスタッフ集結”. 日刊スポーツ. (2016年4月28日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1638791.html . 2016閲覧. 
  15. “日本の家族を描いた佐藤仁美主演作「惑う」韓国の映画祭へ出品 手嶌葵の主題歌流れる予告編も完成”. 映画.com. (2016年7月20日). http://eiga.com/news/20160720/5/ . 2016閲覧. 
  16. “細田守「未来のミライ」に上白石萌歌、黒木華、星野源、麻生久美子らが出演”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2018年4月11日). http://natalie.mu/eiga/news/277494 . 2018閲覧. 

外部リンク


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