宮城まり子
宮城 まり子(みやぎ まりこ、本名:本目 眞理子(ほんめ まりこ)[1]、1927年3月21日 - )は、日本の歌手・女優・映画監督・福祉事業家。東京都名誉都民。
来歴
東京府東京市蒲田区に2人姉弟の姉として生まれ、幼くして母と死別するつらい少女時代を送った。父親の仕事の関係で、小学校3年から大阪で育つ[2]。小学校5年の時、父親が事業で失敗、母親が病死する。そのため小学校卒業と同時に、弟と共に吉本興業に入り、歌謡曲を歌うようになった[3]。戦時中の1944年10月、宮城千鶴子の芸名で15歳で大阪花月劇場(吉本興業直営)にて初舞台を踏む[4]。
その後、自らの一座を率いて九州を巡業し、終戦を迎える。戦後の1948年、父親、弟の八郎と上京、浅草の舞台に立つ。翌年、菊田一夫の推薦で日劇の舞台に主役として迎えられる。1950年2月 テイチクから「なやましブギ」でデビュー、ポリドールを経て、ビクター移籍第二弾『あんたほんとに凄いわね』が初ヒットになった。そして、1953年、レコードで歌った『毒消しゃいらんかね』が流行し一躍歌手としてその名が知れ渡った。1955年には、後のレコード大賞作詞家・宮川哲夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットした。その後も『納豆うりの唄』『てんてん娘』『夕刊小僧』などヒットを連発。弟八郎は宮城秀雄の名前で作曲家として活躍した。
NHK紅白歌合戦にも1954年の第5回から1958年の第9回までと、1960年の第11回から1962年の第13回までの計8回出場している(詳細は下記参照)。1958年、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』で声優を務める。その後、女優業に進出し、1958年、『12月のあいつ』で芸術祭賞、1959年、『まり子自叙伝』でテアトロン賞を受賞。
1968年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立。この頃より、タレント活動は事実上引退状態となる。1973年、吉川英治文化賞受賞。1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。1976年には、『まんが世界昔ばなし』の声優として名古屋章とともに出演。1977年には『ねむの木の詩がきこえる』を製作した。1979年、「ねむの木養護学校」を設立。1975年と1981年に実施された、近畿放送(KBS京都)テレビ番組『宮城まり子のチャリティーテレソン』を通して身体障害者の社会参加を訴えた。これらが評価され、1979年総理大臣表彰された。また、身体障害者に対する手描き友禅、合唱の指導なども行っている。なお、ねむの木学園設立時のエピソードは、1981年12月22日にテレビ朝日「ハウスこども劇場」枠において、『小さなラブレター まり子とねむの木の子供たち』としてアニメ化された。
作家吉行淳之介と交際し、彼の死までよきパートナー関係(都内の互いの自宅で同居)であった。また、信心厚いクリスチャン(プロテスタント)でもある。また、同じく作家室生犀星にも可愛がられていた。犀星の見舞いにクリスタルカップを贈ったが、森茉莉に取られてしまった。(犀星のエッセイより)
2007年3月、日本経済新聞『私の履歴書』に自伝を執筆した。
2011年1月、自宅で転倒し腰椎を骨折して入院。
2011年2月、宮城の口座から現金約3100万円をだまし取ったとして、ねむの木学園元職員と音楽家の朝比奈圭の2人が詐欺罪で逮捕。9月、東京地裁よりそれぞれ懲役2年、懲役4年6月の有罪判決を受けた[5]。同学園や宮城の個人口座からは計約5億円が引き出されているという[6]。2012年2月16日、東京高裁は一審判決を破棄し、朝比奈圭に懲役4年の有罪判決を言い渡した(ねむの木学園元職員は実刑確定)[7]。
2012年11月、銀座ヤマハホールでシャンソンを歌い、歌手活動を30年ぶりに再開する[8]。
代表曲
- ガード下の靴磨き
- 毒消しゃいらんかね
- さいざんす・マンボ (トニー谷とのデュエット)
- ジャワの焼鳥売り
- 東京やんちゃ娘
- 恋は陽気にスイングで
- 手のひらを太陽に(NHK「みんなのうた」)
- ウバ・ウバ・ウキャキャ
- 夢をみたの
- 私を呼ぶのは誰
- めもわーる
- ママ!ひみつだよ
- 天使がとおる
- 屑屋の歌
- まり太郎の歌
テレビ番組
- まんが世界昔ばなし(TBS) - 声優とオープニング・エンディングテーマを担当
- てんてん娘(KRT) - 主演
- まりっぺ先生(日本テレビ) - 主演
- 剣豪 第1話「武蔵に勝った強い奴」(NET)
- 繭子ひとり(NHK、連続テレビ小説) - 大西先生
- 世界わが心の旅(ウィーン)(NHK)
著作
- ともだち ねむの木 そして私
- ねむの木のこどもたち
- としみつ
- ねむの木の詩
監督作
NHK紅白歌合戦出場歴
- 第5回 (1954年12月31日、日比谷公会堂) 『毒消しゃいらんかね』
- 第6回 (1955年12月31日、産経ホール) 『ガード下の靴みがき』
- 第7回 (1956年12月31日、東京宝塚劇場) 『屑屋の歌』
- 第8回 (1957年12月31日、東京宝塚劇場) 『納豆うりの唄』
- 第9回 (1958年12月31日、新宿コマ劇場) 『ジャワの焼鳥売り』
- 第11回 (1960年12月31日、日本劇場(日劇)) 『陽気な水兵さん』
- 第12回 (1961年12月31日、東京宝塚劇場) 『まり太郎の歌』
- 第13回 (1962年12月31日、東京宝塚劇場) 『ドレミの歌』
その他の表彰歴
- 1989年:CD「ねむの木」および劇団「虹」により芸術祭賞
- 1991年:辻村教育賞、エイボン女性大賞受賞
- 1992年:第1回ペスタロッチー教育賞(主催:広島大学大学院教育学研究科)受賞
- 1993年:東京都文化賞受賞
- 1994年:博報堂教育特別賞・文部大臣奨励賞受賞
- 1996年:高木賞(主催:日本肢体不自由児協会)受賞
- 2000年:第5回尾崎行雄咢堂賞、静岡県都市景観賞最優秀受賞
- 2004年:東京都名誉都民称号受領
- 2012年:瑞宝小綬章
関連施設
以下の施設は、いずれも静岡県掛川市にある。
- ねむの木のどかな家
- 森の喫茶店MARIKO
- がらすやさん
- 雑貨屋さん
- 毛糸やさん
- 地域交流インフォメーションセンター
- 吉行淳之介文学館
- ねむの木こども美術館
脚注
- ↑ 特別支援学校ねむの木児童・生徒募集のお知らせねむの木学園公式サイト
- ↑ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、218頁。
- ↑ 「女立志伝 私はこうして世に出た 流行歌手 宮城まり子さん」『読売新聞』1957年7月30日朝刊5頁。
- ↑ 香川登志緒著 『大阪の笑芸人』 晶文社、1977年、252頁。
- ↑ ねむの木学園詐欺:元職員ら2人に実刑-東京地裁判決 毎日新聞 2011年9月15日
- ↑ ねむの木職員、宮城まり子園長の1500万詐取 読売新聞 2011年2月17日
- ↑ “音楽家に懲役4年判決 ねむの木学園被害詐欺控訴審”. 静岡新聞. (2012年2月17日) . 2012閲覧.
- ↑ 宮城まり子さん、30年ぶり歌手復帰 読売新聞 2012年10月23日
- ↑ 第6回の宮城の歌の音声は、2013年発売のCD-BOX『宮城まり子BOX 唄の自叙伝』に収録されている。
- ↑ 『紅白歌合戦アルバム NHK20回放送のあゆみ』(デイリースポーツ社、1970年) ※第8回のページに宮城の歌唱中の写真が掲載されているが、第6回の歌唱中の写真の誤りと思われる。