官務

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官務(かんむ)とは、太政官弁官局中の最上首。通常は五位の位階に叙せられた左大史大夫史[1])がこれにあたる。

概要

本来、弁官局の大史の官位相当正六位上であったが、平安時代中期より左大史の中で五位(大夫)に叙せられる者が現れ、右大史以下を率いて太政官及び宮中の庶務を取り扱った[2]

平安時代中期に算道小槻氏小槻奉親(在任:長徳元年(995年)-寛弘8年(1011年)が同氏最初の大夫史になり、15年の長きにわたってその職にあった。当時の公家の慣例通り、奉親も在任中に発生した官文書(政務に関する公文書)を自らの下で整理・保管していたが、それらは宣旨の発給をはじめ弁官局ひいては太政官の運営に欠かせない内容を多数含んでいた。また、小槻氏が元々算道の家として、諸国からの租税計算(「諸国調賦算勘」[3])を扱っていたことから朝廷財政や地方政治に関する業務にも通じていた。そこに目をつけた藤原頼通治安年間に父・道長の反対を押し切って奉親の子・右大史貞行を大夫史に抜擢して太政官と弁官局における文書保管と先例勘申を扱わせ[4][5]永承元年(1046年)に大夫史となった貞行の子孝信以降は大夫史の職を世襲するようになった[6]。このため、孝信の子孫である小槻氏の氏長者を特に官務長者・史長者と呼称し、鎌倉時代以後官務の呼び名が用いられるようになった。官務は太政官における公文書と太政官厨家の管理、宣旨の発給実務、先例の調査・勘申を担当した。小槻氏の館に収められた公文書の入った文庫は特に官文庫と呼ばれ、本来の保管場所である官文殿が衰微廃絶するともっぱら官文庫で保管されるようになった。鎌倉時代より小槻氏壬生官務家大宮官務家に分裂するが、戦国時代大寧寺の変で大宮家の小槻伊治が殺されて大宮官務家が断絶すると、壬生官務家が代々担当するようになった。

辞令文書

左大史の辞令(口宣案)の例  「長興宿禰記」
上卿 中御門中納言
文明十八年七月十二日 宣旨
從五位上小槻時元
宜任左大史
藏人頭左中辨藤原元長奉
(訓読文)上卿 中御門中納言(中御門宣胤 45歳 従二位権中納言) 文明18年(1486年)7月12日 宣旨  従五位上小槻時元(大宮時元 18歳) 宜しく左大史に任ずべし、蔵人頭左中辨藤原元長(甘露寺元長 31歳 正四位上)奉(うけたまは)る

脚注

  1. 史大夫という呼称もあるが、これについて史大夫は大夫史の別称とする橋本義彦の見方と、同じ五位の史でも官文殿の管理責任者を務める者を大夫史、それ以外の者は史大夫と呼ばれ、小槻氏が文書管理を専任するようになると同氏のみが大夫史を名乗れるようになったとする曽我良成の見方がある。
  2. 六位が官位相当であった史は、毎年の除目において年労が多い者1名が巡爵の一種である「史巡」によって五位の受領に任ぜられるのが慣例とされていたが、寛平年間の壬生望材以降(二中歴)、五位の左大史が任ぜられるようになった。
  3. 職原鈔
  4. 当時、道長が信頼する家司丹波奉親が大夫史を務めており、左大史2名の先例も存在していたとはいえ貞行の昇進は丹波奉親の立場を揺るがすものであった。
  5. 後二条師通記寛治6年2月18日条
  6. 特に12世紀に入ると、小槻氏の氏長者による左大史世襲は、除目大間書に「父譲」として明記される形で公認されることになる(『中右記康和5年2月30日条)。

参考文献

  • 橋本義彦「官務」(『平安時代史事典』(角川書店1994年) ISBN 978-4-040-31700-7)
  • 曽我良成「官務家成立の歴史的背景」(初出:『史学雑誌』第92篇第3号(史学会1983年3月)/所収:曽我『王朝国家政務の研究』(吉川弘文館2012年) ISBN 978-4-642-02497-6) )