安部公房
安部 公房 (あべ こうぼう、1924年 (大正13年) 3月7日 - 1993年 (平成5年) 1月22日) は、日本の小説家、劇作家、演出家。本名は安部公房 (あべ きみふさ)[1]。
概要
東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』、『燃えつきた地図』、『箱男』、『密会』など、戯曲に『友達』、『榎本武揚』、『棒になった男』、『幽霊はここにいる』などがある。演劇集団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補[2]と目された。
生涯
生後まもなく満洲へ
北海道開拓民の両親[3]をもつ安部浅吉と井村よりみの二男二女の長男として、1924年 (大正13年) 3月7日、東京府北豊島郡滝野川町 (現・東京都北区西ヶ原) に生まれる。 本籍地は北海道上川郡東鷹栖町 (現・旭川市)。1923年 (大正12年)、満洲医科大学 (現・中国医科大学) の医師であった浅吉は勤務先の奉天市から一時出向していた東京でよりみと結婚。翌年、よりみは公房を妊娠中に唯一の小説『スフィンクスは笑う』 (異端社)[4]を上梓するが、以後は一切の筆を折った。
1925年 (大正14年)、生後8ヵ月の安部公房は家族と共に満洲に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごした。小学校での実験的な英才教育、「五族協和」の理念は、後に安部の作品や思想へ大きな影響を及ぼした。1937年 (昭和12年) 4月、旧制奉天第二中学校に入学。奉天の実家にあった新潮社の世界文学全集や第一書房の近代劇全集などを読み、とくにエドガー・アラン・ポーの作品に感銘を受ける。1940年 (昭和15年)、中学校を4年で飛び級して卒業。日本に帰国し旧制成城高等学校 (現・成城大学) 理科乙類に入学。ドイツ語教師・阿部六郎 (阿部次郎の実弟) からの影響で戯曲や実存主義文学を耽読する。在学中、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された[5]。
同年冬に、軍事教練の影響で風邪をこじらせ肺浸潤を発症。一時休学し、奉天の実家に帰り療養。恢復を待って1942年 (昭和17年) 4月に復学。同年12月9日、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』[6]を書き、翌年2月に発行された高校の校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部の活字化された最初の作品となった。
1943年 (昭和18年) 3月、戦時下のため繰上げ卒業。この頃、安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く[7]。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰るが、友人が代返をして取り繕ってくれていた。1945年 (昭和20年)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、出頭前に8月15日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。
1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった[8]。
帰国・作家デビュー
1947年 (昭和22年) 3月、女子美術専門学校 (現・女子美術大学) の学生で日本画を専攻していた山田真知子 (後年、安部真知名義で安部の著書の装幀や芝居の舞台美術を手掛ける) と結婚し、それまで真知子が住んでいたアパートで同居生活を始める。同年、安部は満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版する。ライナー・マリア・リルケやマルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた[9][10]。
1948年 (昭和23年)、東大医学部を卒業。ただし、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり[11]、医師国家試験は受験しなかった[12]。
同年、安部は「粘土塀」と題した処女長篇を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込んだ。この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った[13]。埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果、「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の「個性」に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌への作品発表となる。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝、岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月、「粘土塀」は『終りし道の標べに』と改題され、真善美社から単行本で上梓された。
1949年 (昭和24年) 4月、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説、『デンドロカカリヤ』を発表する[14]。
1950年代・芥川賞受賞
1950年 (昭和25年)、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によると、この時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。 同年夏ごろ、日本共産党に入党[15]。1951年 (昭和26年)、「近代文学」2月号に安部の短篇「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が掲載される。これは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に触発された作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が見られる超現実主義的な内容である。
「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成と瀧井孝作の強い推挙が決め手となり、同じく候補に挙げられていた石川利光の『春の草』とともに受賞を果たす。川端は『壁』のような作品の出現に今日の必然性を感じ、新味があり好奇心をそそったとしている[16]。同年5月28日、この短篇は「S・カルマ氏の犯罪」と改題され、短篇「バベルの塔の狸」と、4つのパートからなる中篇「赤い繭」を加え、石川淳の序文、勅使河原宏による装幀、桂川寛の挿絵を得て、安部の最初の短篇集『壁』が刊行された。
同年、友人である赤塚徹の伝手で画家の黒崎義介が茗荷谷に所有していた敷地内の納屋を借り、真知や友人たちの手を借りて改装し転居する。11月、短篇小説『闖入者』を発表。 1952年 (昭和27年) 5月、江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移る。6月、短篇小説『水中都市』を発表。
劇作への傾倒
1953年 (昭和28年) 3月、短篇小説『R62号の発明』を発表。7月、初の戯曲作品『少女と魚』[17]を発表。以後盛んに劇作をおこない、推敲を重ねて改作し様々な媒体で発表するようになる。1954年 (昭和29年) 2月、長篇小説『飢餓同盟』発表。 同年、長女誕生。真知の発案で宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」から採った「ねり」と命名する[18]。12月、小説『奴隷狩』[19]を翌年3月にかけて発表するが中絶。 1955年 (昭和30年) 3月、戯曲『制服』[20]を発表。6月、前年に未完のまま中絶していた小説を戯曲『どれい狩り』[21]として発表、劇団俳優座によって上演される。7月、小説『闖入者』を沼田幸二との共同脚本によるラジオドラマとして放送。同月、短篇小説『棒』を発表。8月、戯曲『快速船』[22]を発表。
1956年 (昭和31年) 4月、中野区野方の借家に転居。同月17日、新日本文学会と国民文化会議の代表としてチェコ作家大会参加のためプラハを訪問、スロヴァキア各国を周り6月24日に帰国する。11月から12月にかけてラジオドラマ『耳』および『口』[23]が放送される。 1957年 (昭和32年) 2月、前年に訪問した東欧の印象をまとめたエッセイ集『東欧を行く ハンガリア問題の背景』を刊行。4月、長篇小説『けものたちは故郷をめざす』を発表。5月、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」[24]を結成する。6月、短篇小説『夢の兵士』発表。同月、子供向けのラジオドラマ『キッチュ・クッチュ・ケッチュ』[25]を田中明夫ほかの出演で放送。7月、『夢の兵士』をラジオドラマ化した『兵士脱走』放送。11月、短篇小説『鉛の卵』発表。同月、小説『棒』を戯曲化したラジオドラマ『棒になった男』[26]放送。12月、1954年から1957年にかけて書かれたエッセイをまとめた単行本『猛獣の心に計算器の手を』刊行。
1958年 (昭和33年) 1月より『群像』にエッセイ『裁かれる記録 映画芸術論』[27]を1年間連載。6月、戯曲『幽霊はここにいる』を劇団俳優座により上演。7月、長篇小説『第四間氷期』を発表。10月、短篇小説『使者』を発表。 1959年 (昭和34年) 3月、前年発表の『使者』が『人間そっくり』として戯曲化される。4月、勅使河原宏から譲り受けた調布市若葉町仙川の敷地に真知の設計になる新居を建て、家族とともに転居する。5月11日よりNHKラジオ第1放送にて子供向けのラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』[28]を熊倉一雄ほかの出演により放送。8月23日よりミュージカル『可愛い女』[29]を千田是也の演出、黛敏郎の音楽、ペギー葉山ほかの出演で上演。10月、ラジオドラマ『兵士脱走』を和田勉の演出によりテレビドラマ化した『日本の日蝕』[30]をNHKにて放送。
1960年代・世界の前衛へ
1960年 (昭和35年) 3月、前年放送のドラマ『日本の日蝕』を再び戯曲化し、舞台劇『巨人伝説』[31]として劇団俳優座により上演。6月、長篇小説『石の眼』を発表。9月、短篇小説『チチンデラ・ヤパナ』を発表。同月より子供向けのラジオドラマ『お化けが街にやって来た』[32]を益田喜頓ほかの出演により1年間放送。10月、ルポルタージュの手法を採り入れたテレビドラマ『煉獄』放送。同年のクリスマスに子供向けのミュージカル・コメディ『お化けの島』[33]を南美江ほかの出演にて上演。 1961年 (昭和36年)、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。 4月、短篇小説『無関係な死』を発表。7月から9月にかけて福岡県の三菱鯰田鉱業所にて『煉獄』の脚本を改作した映画『おとし穴』(勅使河原宏監督作品)のロケ撮影が行なわれ、安部もエキストラ出演する。
砂の女
1962年 (昭和37年)、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表。以後は創作活動の比重を書き下ろし長篇に移し、都市に住む人々の孤独と他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる作品を発表し、国際的な評価を得るようになる。1964年 (昭和39年) 発表の『他人の顔』では事故で顔を失った男が引き起こす騒動を、1967年 (昭和42年) の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公とし、両者が入れ替わる顛末を描いた。
1970年代・安部公房スタジオ
1970年 (昭和45年)、大阪万国博覧会に自動車館のシンクタンクとして参加する。1971年 (昭和46年) 3月より新潮社の雑誌『波』に「周辺飛行」と題するエッセイの連載を開始する。1972年 (昭和47年)、段ボール箱を被ったまま生活する男を描いた小説『箱男』を発表。1973年 (昭和48年)、自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の12名であった。以後安部公房スタジオは堤清二の後援のもとで渋谷西武劇場を本拠地として活動する。
1975年 (昭和50年) 5月14日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士称号を授与される[34]。また、この年の6月に連載が完結した「周辺飛行」を再編集した単行本『笑う月』を11月に刊行。
1977年 (昭和52年)、病院を舞台とし、奇妙な病気にかかった患者とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた『密会』を発表。同年、アメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に推挙される。また、写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンが渋谷区宇田川町にあった安部公房スタジオの稽古場を訪れ、安部のポートレイト[35]を撮影する。1979年 (昭和54年) 5月、安部公房スタジオを率いて渡米。セントルイス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、デンバーで行なった『仔象は死んだ』の公演はその斬新な演劇手法が反響を呼んだ。
1980年代・箱根での日々
1980年以降は、文壇との付き合いをほとんど断ち、真知とも疎遠となり、箱根の芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として独居するようになる。同年1月より『芸術新潮』に自ら撮った写真を用いた『フォト&エッセイ - 都市を盗る』[36]を翌年12月にかけて連載する。 1982年 (昭和57年)、自身の体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止する。1984年 (昭和59年) 11月、シェルター構想などをモチーフとしてワープロで執筆した初めての小説『方舟さくら丸』を発表。1985年 (昭和60年) 1月、NHK「訪問インタビュー」にテレビ出演する。番組では箱根での仕事ぶりが紹介され、以後も1987年まで同局の番組に数回出演した。1986年 (昭和61年) 9月、1980年代に書いたエッセイやインタビューをもとにした単行本『死に急ぐ鯨たち』を刊行。以後はいくつかのエッセイや寄稿を残して80年代を締めくくる。
1990年代・最晩年
1991年 (平成3年)、奇病にかかった患者を主人公とした小説『カンガルー・ノート』を発表。結果としてこれが安部公房が擱筆した最後の小説となった。この頃、安部はクレオールに強い関心を寄せ、それをテーマとした長篇『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、同年12月1日に行なわれた談話ではそれに続く新しい構想として「アメリカ論」を挙げ、「チョムスキー風に言えば、学習無用の普遍文化。コカ・コーラやジーンズなどに代表される、反伝統の生命力と魅力をもう一度見直してみたい。」[37]と語っている。
1992年 (平成4年) 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし、東海大学病院に入院。1993年 (平成5年) 1月16日には経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院。1月22日には解熱し一時的に恢復したものの、就寝中の同日午前7時1分に急性心不全のため、同病院で死去、68歳であった。1992年12月に執筆していた小説『さまざまな父』[38]が未完のまま絶筆[39]となった。なお、入院時に愛人宅より搬出されたためスキャンダルとなったが、最期は家族に看取られた。
死後
1月23日、自宅にて通夜。24日に告別式が営まれる。安部が使用していたワープロのフロッピーディスクから執筆途中の『飛ぶ男』 162枚、『もぐら日記』 240枚などが発見された。真知は安部の死後癌を患い、同年9月22日に急性心筋梗塞で死去[40][41]。長女の真能ねりは、1997年 (平成9年) から2009年 (平成21年) にかけて刊行された全集の編集にも尽力した。2011年 (平成23年) 3月には、安部ねり名義で『安部公房伝』(新潮社)を上梓する。
2012年 (平成24年)、母方の実家に養子に入っていた実弟の井村春光宅(北海道札幌市)から、安部が1946年の引揚時に船内で執筆したと見られる未発表短編『天使』が発見され、同年11月発行の『新潮』12月号に掲載された[42][43]。
2013年、女優の山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。山口によれば、安部は1987年に前立腺癌を患い、闘病していたが、本人の強い希望で隠されていたとされる[44][45][46]。
人物
交友
- いわゆる文壇とは距離を置いており[47]、交友関係も極端に狭かったため、その晩年には若年層などの間で死亡説[48]が囁かれるなど、半ば伝説化した存在となっていた。これには安部の特異な性格も影響していたようである。そんな中、石川淳とはデビュー後まもなく師事した事情もあり、事実上の弟子であったが、ともに孤立した存在であり、安部も「石川さんは例外」と述べていた。なお、安部は石川の没後、1988年 1月22日 に営まれた告別式に参列し、弔辞を読んでいる[49]。
- 安部の初期作品はSFに属するものが多く、時期的にも日本における同ジャンルの草創期と軌を一にしている。そのため、日本SF作家クラブには入会しなかったものの、1970年 (昭和45年) に日本で開かれた国際SFシンポジウムで中心的役割を果たすなど、この分野の関係者とは親交が深かったが、そのなかの1人である星新一とは酒場での同席を避けるなど互いに意識しあっていたという[50]。
- 大江健三郎とは、相互に自宅を訪問しあうほどの仲で、同時に谷崎賞を受賞したが、1968年 (昭和43年) 頃に大学紛争を巡り意見が対立するなどしたため、関係が疎遠となった。大江は、「それから、本気で仲直りすることがあった、とは思いません。」と言っている[51]。ただ、辻井喬の計らいで1989年から読売文学賞の選考委員で一緒になったり、1984年1月1日付けの福島民報[52]、1990年の朝日新聞で対談している[53]。
- ドナルド・キーンとは大江健三郎を介して知り合い、生涯にわたる親交を結んだ。キーンにとっても安部は三島由紀夫とともに重要な友人であり、三島の死後は唯一無二の存在となった。なお、キーンは安部の戯曲『棒になった男』 (1975年)、『友達』 (1986年) などの英訳紹介を行っている。
- 堤清二とは、1970年頃より当時新潮社の編集者(出版部長などを歴任)であった新田敞を通じ親交を深めた。安部の戯曲の上演の多くを西武劇場で手掛けるなど、パトロンとしても重要な存在であった。堤は辻井喬として安部と対立しそうになると、堤に転身することで対立を避けたと回想している。
- 武満徹は安部が原作・シナリオを担当した映画すべての音楽を担当し、近しい関係であった。なお、いずれの仕事も評価は極めて高い。
- 谷川俊太郎に対しては辛らつな態度を取っていたが、最晩年に評価を改めたエピソードが武満徹の著書で触れられている。
- 司馬遼太郎とは晩年に親密な関係を築き、司馬は安部が選考委員をつとめる文学賞を数多く受賞している。特に司馬の著作である『南蛮のみちI』 (日本文学大賞 学芸部門受賞) で採り上げられた、国を持たないバスク地方に魅力を感じていたという。
日本文学
堤清二によれば、安部は日本人作家については、大江健三郎や安岡章太郎などをのぞいてほとんど認めようとしなかったという[54]。たとえば、自身と同時期にノーベル賞候補と噂された井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」などとこきおろしていた。その一方で、1980年代にはいくつかの文学賞の選考委員を務め、以下の作品などを推挙している[55]。
- 吉村昭 『破獄』 (読売文学賞、1984年)
- 角田忠信 『脳の発見』 (日本文学大賞、1986年)
- 澁澤龍彦 『高丘親王航海記』 (読売文学賞、1987年)
- 陳舜臣 『茶事遍路』 (読売文学賞、1988年)
- 角田房子 『閔妃暗殺』 (新潮学芸賞、1988年)
- 色川武大 『狂人日記』 (読売文学賞、1989年)
- 鶴見良行 『ナマコの眼』 (新潮学芸賞、1990年)
外国文学
- 外国文学が安部公房に及ぼした影響について、埴谷雄高は『壁』の解説文のなかで「安部公房はハイデッガーから出発した。(中略) その後の彼はリルケを経て、サルトルとカフカとシュペルヴィエルの影響を強く受けたが、それは普通いわれる文学的な影響とはやや異なっている。空間の造形的表現が、彼の小説の方法論となった。」[56]と書いている。
- フランツ・カフカについて、安部は1956年 (昭和31年) と1964年 (昭和39年) の二度にわたる東欧旅行の途次に、彼の生まれた街プラハを訪れている。安部は初回訪問時にはまだ公認の作家ではなかったカフカが、再訪時には再評価が進み生家跡も発見されたことを知り、プラハにおけるカフカの位置についてのエッセイを書いた[57]。また、1980年 (昭和55年) には中野孝次との対談で「カフカは世界そのものの存在を提出しえた、途方もない作家だったと思う」[58]と述べている。
- エリアス・カネッティが1981年にノーベル文学賞を受賞した際に関心を持ち、高く評価した[59] 。同じ頃に親友であるドナルド・キーンの薦めでコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスを読み[60]、その作品に衝撃を受ける。以後、安部は自著やテレビなどで盛んにカネッティやガルシア=マルケスを紹介し、彼らの作品を一般読者にも広めた。
- 上記のほか、晩年まで箱根の仕事場に置かれていた愛読書[61]には、イーヴリン・ウォーの『ガイアナとブラジルの92日間』、コンラート・ローレンツの『鏡の背面』、アラン・ロブ=グリエの『幻想都市のトポロジー』、クリフォード・アーヴィングの『贋作』などがある。
趣味
- アウトドア・スポーツを好み、しばしば家族を伴いドライブやモーターボートなどを楽しんだ。特にカーマニアとして知られ、ルノー・コンテッサ・セダン、ルノー・コンテッサ・クーペ、ランチア・スポルト・ザガート、BMW 2000、三菱 ジープ、チェロキー・ジープなどを乗り継ぎ、車やカメラなどの趣味が一致していた安岡章太郎とは富士や鈴鹿などのサーキットに観戦に出かけている[62]。箱根に仕事場を移したのちの1986年 (昭和61年) には、ジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」を考案している[63]。
- カメラマニアとしても有名であり、木村伊兵衛写真賞の選考委員を第7回 (1981年度) から第9回 (1983年度) まで務めるなど、カメラの腕前も趣味の領域を超えるものだった。コンタックスなどを愛用し、インテリジェンスに富む作品を残したが、その一部は『箱男』 (1972年)、『都市への回路』 (1980年)、『死に急ぐ鯨たち』 (1986年) などの著書[64]にも使用された。1980年代以降は箱根の仕事場に暗室不要型の簡易現像器具を置き、自らプリントした写真を壁に貼って構想を練った[65]。
- 日本人で最も早い時期からワープロで小説を執筆した作家の一人である (1984年から使用[66])。NECのワープロ開発に参画し、ワープロ『文豪』は文字通り文豪が関わった機種だった。安部が使用していたワープロはNECの『NWP-10N』とその後継シリーズ『文豪』である[67]。また、ワープロ用フロッピーディスクからの遺作発見という、昭和の”文豪”としては特異な顛末も話題となった。なお、そのデータを解析した結果、安部の執筆手法や手順の一端が明らかになっている。
- 音楽ではピンク・フロイドのファンであり、日本における最初期のシンセサイザーのユーザーでもあった (当時、日本でシンセサイザーを所有していたのは安部のほか冨田勲とNHK電子音楽スタジオを数えるのみで、安部は職業と関わりなく使用していた)。1985年 (昭和60年) にNHKが箱根の仕事場を訪れて収録した「訪問インタビュー」では、安部が自身の演劇作品のためにみずから作成した効果音等を公開している。また、堤清二は1999年に行なわれたインタビューで、安部が武満徹に所有機で作成した自身の演劇作品「仔象は死んだ」の劇中音楽を聴かせたところ、武満の顔が真っ青になったと話していたと回想している[70]。一方、クラシック音楽では青年期にはブルーノ・ワルターが指揮したマーラーの交響曲第9番やゲルハルト・ヒュッシュが歌ったシューベルト歌曲集『冬の旅』などを、後年にはバルトークの作品やバロック音楽などを好み、晩年にはウォルター・カーロスが演奏したバッハを愛聴していたが[71]、オペラは嫌いだった[72]。
- 映画作品のビデオテープも箱根の仕事場に残されている。その中で『地獄に堕ちた勇者ども』、『天国の門』、『ソフィーの選択』、『ショート・サーキット』などの作品は愛好した書籍や音楽ソフトなどと共に並べられていた。[61]
- 美術ではジョージ・シーガルを評価しており、いくつか著書の表紙に使用している[73]。また自身でも彫刻をよくし[74]、『方舟さくら丸』のカット用にゴム印を自作したほか、1980年代以降には箱根の仕事場でトイレット・ペーパーの芯や空き瓶、マンゴーの種などを用いてオブジェを作った[75]。
評価
- 受けた賞は数多く、主なものだけでも、戦後文学賞 (1950年)、芥川龍之介賞 (1951年)、岸田演劇賞 (1958年)、読売文学賞 (1963年・1975年)、谷崎潤一郎賞 (1967年)、フランス最優秀外国文学賞 (1968年)、芸術選奨 (1972年) などがある。
- いち早く安部を高く評価していた埴谷雄高は、1951年 (昭和26年) の芥川賞受賞作『壁』の書評において、安部が自分の後継者であるばかりか、自分を超えたと述べている。
- 単に幻想文学にとどまらず、スリップストリームやメタフィクションといったポストモダン文学に顕著な技法を実践し、推し進めた前衛文学者として、世界的に評価が高い。『砂の女』は、世界30数か国語に翻訳され、『燃えつきた地図』はニューヨーク・タイムズの外国文学ベスト5に選ばれている。
- 安部の作品は特に共産主義圏の東欧において高く評価され、西欧を中心に評価を得ていた三島由紀夫と対極的とみなされた。その三島もまた安部を評価し、1967年の谷崎潤一郎賞の選考において安部の戯曲作品『友達』を熱心に推挙し、長篇小説を主な授賞対象としていた同賞では異例といえる戯曲の受賞を実現させている。
- 1975年 (昭和50年) 5月13日、安部はアメリカ・コロンビア大学名誉人文科学博士称号の授与式において、プレゼンターから「あなたは人間性という普遍的なものをお持ちだ」[77]という賛辞を贈られた。
- 1979年 (昭和54年) 5月に行なわれた安部公房スタジオのアメリカ公演『仔象は死んだ』は好評をもって迎え入れられた。安部によると、ラ・ママ実験劇場での公演では加速度的に観客が増え、楽日には通路から階段、ミキサー室まで観客であふれたという[78]。ニューヨーク・タイムズのメル・ガソーは当公演の劇評でポーランドの劇作家、タデウス・カンターを引き合いに出し、「(カンターと)安部公房は独創的で、変容自在のヴィジョンと、作家自身の感性の延長のように動く一団の俳優を持っているという点で共通している」とし、「行動芸術家としての安部公房は演劇における偉大なパフォーマーであり、デザイナーである」[79]と締めくくっている。
- 村上春樹は、1996年に行なったディスカッションで、「安部公房は奇妙な話を書きますが、変かというととくに変ではないですね。その奇妙さは良くも悪くも一貫した奇妙さであって、「変」ではない」と述べている。[80]
- ガルシア=マルケスは1990年代末に行なった大江健三郎との対話のなかで、「自分たち外国の作家は日本の作家というと安部公房を知っていた。安部公房の作品を知っていた。そして他の作家については知らなかった。自分にとっては安部公房は重要な作家だった」[81]と語っている。
- 大江健三郎は、安部公房をカフカやフォークナーと並ぶ世界最大の作家と位置づけている。1999年に行なわれたインタビューで「僕の感じだと、日本的な作家ということで、たとえば谷崎、川端、三島が知られていたとしてもですね、ほんとうに現代作家として外国の知識人に読まれた作家は安部さんが最初だった。そしていちばん強い印象を与えたのが安部さんだったと思うんですね。(中略) ほんとうにたとえばガルシア=マルケスやル・クレジオが自分の好きな作家として持ち出す人として安部さんがあったと思うんです」[82]と語っている。また、1994年に自身がノーベル文学賞を受賞したおりには、大岡昇平、井伏鱒二の名前と共に安部の名前をあげ、もっと長生きしていれば、自分ではなくて彼らがノーベル文学賞を受賞したであろうという事を述べている。[83]
- ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーのノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長は、2012年3月21日、読売新聞の取材に応えて、「(安部公房は)急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」と語っている[2]。
受賞歴
- 1950年 (昭和25年) - 「赤い繭」で戦後文学賞を受賞
- 1951年 (昭和26年) - 「壁 - S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞
- 1957年 (昭和32年) - 「棒になった男」 (文化放送) で芸術祭奨励賞を受賞
- 1958年 (昭和33年) - 戯曲「幽霊はここにいる」で岸田演劇賞受賞
- 1959年 (昭和34年) - 「日本の日蝕」 (NHK大阪) で芸術祭奨励賞を受賞
- 1960年 (昭和35年) - 「煉獄」で芸術祭奨励賞を受賞
- 1961年 (昭和36年) - 映画「おとし穴」でシナリオ作家協会賞受賞
- 1962年 (昭和37年) - 「吼えろ!」 (朝日放送) で芸術祭賞、「音の物体詩 チャンピオン」 (RKB毎日放送) で民放祭賞を受賞
- 1963年 (昭和38年) - 「砂の女」で、読売文学賞、「虫は死ね」 (北海道放送) で芸術祭奨励賞を受賞
- 1964年 (昭和39年) - 映画「砂の女」でカンヌ映画祭審査員特別賞他、「目撃者」 (RKB毎日放送 近鉄金曜劇場) で芸術祭奨励賞を受賞
- 1967年 (昭和42年) - 戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞を受賞
- 1968年 (昭和43年) - 「砂の女」でフランス最優秀外国文学賞を受賞
- 1972年 (昭和47年) - 戯曲「未必の故意」で芸術選奨文部大臣賞を受賞
- 1975年 (昭和50年) - 戯曲「緑色のストッキング」で読売文学賞を受賞
- 1975年 (昭和50年) - 5月13日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士の称号を受ける
- 1977年 (昭和52年) - アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に推される
- 1986年 (昭和61年) - 簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」により「第10回国際発明家エキスポ86」で銅賞を受賞
- 1992年 (平成4年) - アメリカ芸術科学アカデミーから正式に名誉会員として迎え入れられる
作品一覧
小説
- 終りし道の標べに (真善美社、1948年 / 講談社文芸文庫、1995年)
- 壁 (月曜書房、1951年 / のち角川文庫、新潮文庫)
- 闖入者 (未來社、1952年)
- 飢えた皮膚 (ユリイカ、1952年)
- 飢餓同盟 (大日本雄弁会講談社、1954年 / のち新潮文庫)
- R62号の発明 (山内書店、1956年 / のち「R62号の発明・鉛の卵」新潮文庫)
- けものたちは故郷をめざす (大日本雄弁会講談社、1957年 / のち新潮文庫)
- 第四間氷期 (講談社、1959年 / のち新潮文庫)
- 石の眼 (新潮社、1960年 / のち文庫)
- 砂の女 (新潮社、1962年 / のち文庫)
- 他人の顔 (講談社、1964年 / のち新潮文庫)
- 水中都市 (新潮社、1964年 / のち「水中都市・デンドロカカリヤ」新潮文庫)
- 無関係な死 (新潮社、1964年 / のち「無関係な死・時の崖」新潮文庫)
- 榎本武揚 (中央公論社、1965年 / のち文庫)
- 終りし道の標べに (改稿版) (冬樹社、1965年 / 新潮文庫、1978年)
- 燃えつきた地図 (新潮社、1967年 / のち文庫)
- 人間そっくり (早川書房、1967年 / のちハヤカワ文庫、新潮文庫)
- 夢の逃亡 (徳間書店、1968年 / のち新潮文庫)
- 箱男 (新潮社、1973年 / のち文庫)
- 洪水 (プレス・ビブリオマーヌ、1973年)
- 事業 (プレス・ビブリオマーヌ、1974年)
- 密会 (新潮社、1977年 / のち文庫)
- 方舟さくら丸 (新潮社、1984年 / のち文庫)
- カーブの向う・ユープケッチャ (新潮文庫、1988年)
- カンガルー・ノート (新潮社、1991年 / のち文庫)
- 飛ぶ男 (新潮社、1994年)
- 単行本版は夫人の真知による加筆が後に判明し、未文庫化。「全集」には、加筆前の複数の異稿版「スプーン曲げの少年」「スプーンを曲げる少年」「飛ぶ男」を収録)
- 題未定 安部公房初期短編集(新潮社、2013年)。〈霊媒の話より〉ほか全11篇
戯曲
- どれい狩り・快速船・制服 安部公房創作劇集 (青木書店、1955年)
- 幽霊はここにいる (新潮社、1959年 / のち「幽霊はここにいる・どれい狩り」新潮文庫)
- 友達・榎本武揚 (河出書房、1967年 / のち「友達・棒になった男」新潮文庫)
- 棒になった男 (新潮社、1969年)
- 安部公房戯曲全集 (新潮社、1970年)
- 現代文学の実験室1 安部公房集 (1970年6月、大光社)
- 未必の故意 (新潮社、1971年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)
- 愛の眼鏡は色ガラス (新潮社、1973年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)
- 緑色のストッキング (新潮社、1974年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)
- ウエー 新どれい狩り (新潮社、1975年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)
評論・随筆
- 東欧を行く ハンガリア問題の背景 (大日本雄弁会講談社、1957年)
- 猛獣の心に計算器の手を (平凡社、1957年)
- 裁かれる記録 映画芸術論 (講談社ミリオン・ブックス、1958年)
- 砂漠の思想 (講談社、1965年 / 講談社文芸文庫、1994年)
- 内なる辺境 (新潮社、1971年 / のち中公文庫)
- 反劇的人間 (中公新書、1973年 / 中公文庫、1979年) - ドナルド・キーンとの対談
- 手について (プレス・ビブリオマーヌ、1973年)
- 発想の周辺 (新潮社 1974年) - 対談集
- 笑う月 (新潮社、1975年 / のち文庫) - 創作ノート
- 安部公房の劇場 七年の歩み (安部公房スタジオ編、1979年)
- 都市への回路 (中央公論社、1980年)
- 死に急ぐ鯨たち (新潮社、1986年 / 新潮文庫、1991年)
詩集
- 無名詩集 (自費出版)
作品集
- 新潮日本文学46 安部公房集 (全1巻、新潮社、1970年 / 新装版 1981年) - 9篇収録[84]
- 安部公房全作品 (全15巻、新潮社、1972年-1973年)
- 安部公房全集 (全30巻、新潮社、1997年-2000年、2009年[85])
映画
ラジオドラマ
- ひげの生えたパイプ
- お化けが街にやって来た
- 耳(文化放送、1956年11月)
- 棒になった男 (文化放送、1957年11月29日)
- 吼えろ! (朝日放送、1962年11月、脚本)
- 審判 (文化放送、1963年11月)
テレビドラマ
- 魔法のチョーク (NHK、1958年、脚本)
- 円盤来たる (NHK、1959年2月、脚本)
- 人間そっくり (KRテレビ、1959年7月、脚本)
- 日本の日蝕 (NHK、1959年10月、脚本)
- 詩人の生涯 (朝日放送、1959年11月、脚本)
- 煉獄 (九州朝日放送、1960年10月、脚本)
- お化けの島 (NHK、1960年、脚本)
- 人命救助法 -おぼれる者は- (NHK、1961年7月、脚本)
- お気に召すまま (NETテレビ、1962年、企画・構成・監修・演出) - オムニバスシリーズ(全20回)
- モンスター (NHK、1962年、脚本)
- 闖入者 (1963年、脚本)
- 羊腸人類 (NET、1962年11月)
- 購入者 (NHK教育テレビ、1963年、脚本)
- 虫は死ね (「東芝日曜劇場」、北海道放送、1963年、脚本)
- こんばんは21世紀 (東京12チャンネル、1964年、構成) - 東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局記念番組
- 目撃者 (「近鉄金曜劇場」、RKB毎日放送、1964年、脚本)
映像化作品
- 『砂の女』は、1964年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹、出演:岡田英次、岸田今日子。
- 『他人の顔』は、1966年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹、出演:仲代達矢、京マチ子。
- 『燃えつきた地図』は、1968年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹。出演:勝新太郎、市原悦子。
- 『友達』は、1988年に映画化された[86]。監督・脚本:シェル・オーケ・アンデション、撮影:ペーテル・モクロシンスキー。出演:デニス・クリストファー、レナ・オリン。
- 以下は映像化企画はあったが未制作となった作品。
- 『けものたちは故郷をめざす』(脚色:恩地日出夫。恩地氏のシナリオは、『映画評論』1965年8月号掲載。)
- 『第四間氷期』(脚色:安部公房、監督:堀川弘通。安部が1965年9月7日に脱稿した本作品のシナリオは東宝映画が映画化を企画。シナリオは、『映画芸術』1966年4月号掲載。)
脚注
- ↑ 戸籍にルビは存在しないため、後年は筆名をほとんど本名のように扱っていたようである。『群像』2009年9月号の加藤弘一によれば、本人のパスポートには〈KOBO〉と表記してあったという。
- ↑ 2.0 2.1 安部公房は受賞寸前だった…ノーベル委員長語る 読売新聞 2012年3月23日閲覧。
- ↑ 安部浅吉の両親は香川県出身、井村よりみの両親は徳島県出身であった。
- ↑ 2012年に講談社文芸文庫から復刻
- ↑ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.14
- ↑ 『安部公房全集 <001>』p.11-16
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.45
- ↑ 満洲を舞台にした唯一の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れたものであり、のちに安部はエッセイ「一寸先は闇」に私小説を書かない理由を記している。(初出:『新潮日本文学46 安部公房集』月報 (新潮社、1970年) / 再録:『安部公房全作品 15』(同、1973年)、『安部公房全集 <023>』p.24-26 )
- ↑ http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/cat283/ 紀伊国屋 書評空間 Booklog "阿部公彦"2011年4月18日のブログ
- ↑ なお、この詩集には真知子に捧げた「リンゴの実」という作品も収載されていた(安部ねり『安部公房伝』p.81)
- ↑ 全集後半に何度か本人の弁がある
- ↑ 後輩である養老孟司が本人から直接聞いた話によると、長谷川敏雄による卒業口答試問では人間の妊娠月数を2年と答えたと伝えられている(養老孟司『小説を読みながら考えた』p.54-55)が、大江健三郎によると、本人は象の妊娠期間19ヵ月を答えられなくて落ちたと言っていたという(初出:大江健三郎「顔に表れる歴史・伝統・文化」 朝日新聞 2008年5月20日付朝刊 / 再録:大江健三郎『定義集』p.113)
- ↑ 初出:「錨なき方舟の時代」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.169
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.93
- ↑ 関根弘によれば、安部が入党した明確な日にちは不明としながらも、コミンフォルム批判に端を発した党派分裂を契機として所感派に入党したのではないかと推測している。谷真介『安部公房レトリック事典』p.371-372
- ↑ 川端康成「『壁』を推す」 (第25回昭和26年度上半期 芥川賞選評)(文藝春秋 1951年10月号)
- ↑ 初出:「群像」1953年7月号(大日本雄弁会講談社) / 再録:『安部公房全集 <003>』p.473-506. 所収
- ↑ 安部ねりさんと語る加藤弘一HP「ほら貝」
- ↑ 初出:「文藝」(河出書房)1954年12月号および1955年3月号/再録:『安部公房全集 <004>』p.419-454. 所収
- ↑ 初出:「群像」1954年12月号(講談社) / 再録:『安部公房全集 <004>』p.455-480. 所収
- ↑ 初出:「新日本文学」1955年7月号 / 再録『安部公房全集 <005>』p.97-181. 所収
- ↑ 初出:『どれい狩り・制服・快速船』(青木書店) / 再録:『安部公房全集 <005>』p.203-264. 所収
- ↑ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』(大光社) / 「新日本文学」1957年11月号 / 再録:『安部公房全集 <006>』p.201-213.p.237-248. 所収。文化放送(「耳」はラジオ九州との共同制作)による「現代劇場 人間の顔シリーズ」 の第1作、第2作として1956年11月2日および12月7日に放送。
- ↑ 他にもメンバーとして井上俊夫、岡本太郎、小林勝、杉浦明平、瀧口修造、武田泰淳、玉井五一、鶴見俊輔、徳大寺公英、中原佑介、長谷川四郎、羽仁進、埴谷雄高、林光、針生一郎、柾木恭介、真鍋呉夫らが在籍していた。(出典:『安部公房全集 <007>』巻末作品ノート p.9)
- ↑ 『安部公房全集 <007>』p.209-302. 所収
- ↑ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』(大光社) / 再録:『安部公房全集 <007>』p.463-475. 所収
- ↑ 単行本初出:講談社刊 / 再録:『安部公房全集 <008>』p.85-169. 所収
- ↑ 『安部公房全集 <010>』p.10-541. 所収
- ↑ 『安部公房全集 <011>』p.39-120. 所収
- ↑ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』 (大光社) / 再録:『安部公房全集 <011>』p.201-224.所収
- ↑ 初出:『安部公房戯曲全集』(1970年) / 再録:『安部公房全作品10』、『安部公房全集 <011>』p.375-435.所収
- ↑ 『安部公房全集 <013>』p.7-505.『安部公房全集 <014>』p.7-499.所収
- ↑ 『安部公房全集 <012>p.469-491
- ↑ 授与式の模様はNHKニュースセンター9時などで採り上げられ、安部は放送時のテレビ画面を写真撮影した。(『安部公房全集 <025>』箱裏、安部ねり『安部公房伝』p.180-181)
- ↑ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』表紙、安部ねり『安部公房伝』p.184
- ↑ 『安部公房全集 <026>』p.433-481 所収
- ↑ 『われながら変な小説』(初出:「波」1991年12月号、新潮社) / 再録:『安部公房全集 <029>』p.212-215
- ↑ 『安部公房全集 <029>』p.251-273 所収
- ↑ 安部の死後、フロッピーディスクから発見された文書データより絶筆と判定されている。(出典:『安部公房全集 <029>』巻末作品ノート p.10-11)
- ↑ 妻子ある有名作家との23年間を、はじめて公に文藝春秋WEB、2013.09.26
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.227および、谷真介『安部公房レトリック事典』p.430。真知の命日は前者、直接の死因となった病名は後者の記述に拠る。なお、真知の命日について後者では9月23日と記載されているが、より刊行年の新しい前者の記述に拠った。
- ↑ “安部公房さん未発表作発見 最初期の短編「天使」”. 共同通信社. 47NEWS. (2012年11月7日) . 2012閲覧.
- ↑ “安部公房の未発表短編見つかる=札幌の実弟宅で―「新潮」に掲載 - WSJ日本版 - jp.WSJ.com”
- ↑ ノーベル文学賞候補といわれた作家・安部公房の封印されてきた過去ダ・ヴィンチ、2013年08月27日
- ↑ 『安部公房とわたし』山口果林著 人生賭けた悲運の不倫劇産経新聞、2013.9.22
- ↑ 安部公房、隠し通した「がん闘病」 山口果林さん、手記で語る朝日新聞、2013年7月25日
- ↑ 安部は文壇付き合いについて「文学畑の人たちと付き合っていると疲れる、常識が合わない」と養老孟司に語っていたという (養老孟司『小説を読みながら考えた』p.210 ) 養老はつづけて「理科系のわたし (養老) からすると、文学者は主観の塊で、根本的には度し難い人種なのである」と書いている。
- ↑ 初出:『われながら変な小説』(初出:「波」1991年12月号、新潮社) / 再録:『安部公房全集 <029>』p.212
- ↑ 初出:「すばる」(臨時増刊石川淳特集記念号) 1988年、集英社 / 再録:『安部公房全集 <028>』p.378-379
- ↑ 最相葉月『星新一 1001話をつくった人』p.412
- ↑ 『大江健三郎 作家自身を語る』p.294-295
- ↑ 『安部公房全集 <027>』「明日を開く文学」p.178-182
- ↑ 『安部公房全集 <029>』p.72-79
- ↑ 初出:『安部公房全集 <023>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.310
- ↑ 山口果林『安部公房とわたし』p.125
- ↑ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.58-59
- ↑ 「負けるが勝ち カフカの生家を訪ねて」(初出:中央公論社刊 世界の文学18 ドストエフスキイ 付録)、「美しい石の都プラハ」(初出:世界文化社刊 世界文化シリーズ9 東ヨーロッパ) / 再録:『安部公房全集 <020>』p.131-133
- ↑ 『安部公房全集 <027>』p.60
- ↑ (初出:「地球儀に住むガルシア=マルケス」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.122) なお、エリアスとその妻ベーツァの著作は岩田行一や池内紀などの訳出で法政大学出版局から出版されている。
- ↑ キーンから「これはあなたが読むために書かれたような小説だ」と言われたという。(初出:「地球儀に住むガルシア=マルケス」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.122)
- ↑ 61.0 61.1 『ダ・ヴィンチ解体全書vol.2 - 人気作家の人生と作品』p.122
- ↑ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.50-51,66
- ↑ 安部は発売元だった西武自動車販売の広報用にチェニジーの装着方法を図解入りで執筆している。(『安部公房全集 <028>』p.277-278 )
- ↑ 近年では『安部公房全集』全30巻の箱裏と見返し、新潮文庫より刊行されている安部作品の表紙に使用されている
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.218
- ↑ それ以前にも、1970年代末ごろから星新一など幾人かがワープロの使用を試みているが、平井和正 (1982年頃から使用) や村上春樹などを除き、いずれも程なくして断念したという。
- ↑ “文字とともに歩む――伊藤英俊氏に聞く”. 加藤弘一 (2003年4月15日). . 2012閲覧.
- ↑ 夢みる機械~安部公房、キューブリック、ピンク・フロイドの眼 (その2) スローリィ・スローステップの怠惰な冒険 (2014年12月27日投稿) リンク先にも安部が1985年のNHK訪問インタビュー出演時に同機器を操作した映像がある。
- ↑ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.3
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.310
- ↑ 山口果林『安部公房とわたし』p.129
- ↑ ドナルド・キーン、安部公房『反劇的人間』
- ↑ 新潮文庫旧版の戯曲集『友達・棒になった男』 (1987年)、『緑色のストッキング・未必の故意』 (1989年)に使用された。なお、後者では美術家の承諾を得て一部の彩色を変更している。
- ↑ 『安部公房全集 <003>』p.85
- ↑ 安部ねり『安部公房伝』p.218
- ↑ 『死に急ぐ鯨たち』所収
- ↑ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.59、安部ねり『安部公房伝』帯文
- ↑ 初出:安部公房スタジオ会員通信8 / 再録:『安部公房全集 <026>』p.401
- ↑ 『安部公房全集 <026>』巻末資料p.16
- ↑ 初出:『若い読者のための短編小説案内 第4回 小島信夫「馬」』(文藝春秋「本の話」1996年4月号) / 再録:『若い読者のための短編小説案内』(文庫版)p.66
- ↑ 初出:『安部公房全集 <021>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.301
- ↑ 初出:『安部公房全集 <021>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.302
- ↑ 『大江健三郎 作家自身を語る』p.234
- ↑ 収録作品:『砂の女』 『他人の顔』 『燃えつきた地図』 『友達 (戯曲)』 『デンドロカカリヤ』 『棒』 『水中都市』 『時の崖』 / エッセイ『一寸先は闇』 (月報収録)
- ↑ 資料編の最終30巻目のみ、刊行が大幅に遅れた。
- ↑ 友達 - Movie Walker
参考文献
- 『新潮日本文学46 安部公房集』 新潮社、1970年。
- 安部公房 / ドナルド・キーン (対談) 『反劇的人間』 中央公論社〈中公文庫〉、1979年3月。ISBN 978-4-12-200620-1。
- 『安部公房文学語彙辞典』 谷真介 編著、スタジオVIC(出版) 星雲社(発売)、1981年4月、増補版。
- 安部公房 『死に急ぐ鯨たち』 新潮社、1986年9月。ISBN 978-4-10-300807-1。
- 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』 高野斗志美 編著、新潮社、1994年4月。ISBN 978-4-10-620655-9。
- 『安部公房レトリック事典』 谷真介 編著、新潮社、1994年8月。ISBN 978-4-10-399101-4。
- 『ダ・ヴィンチ解体全書vol.2 - 人気作家の人生と作品』 ダ・ヴィンチ編集部、リクルート、1997年7月。ISBN 978-4-94-767980-2。
- 『安部公房全集 <001> 1942.12‐1948.05』 新潮社、1997年7月。ISBN 978-4-10-640121-3。
- 『安部公房全集 <003> 1951.05‐1953.09』 新潮社、1997年10月。ISBN 978-4-10-640123-7。
- 『安部公房全集 <004> 1953.10‐1955.02』 新潮社、1997年11月。ISBN 978-4-10-640124-4。
- 『安部公房全集 <005> 1955.03‐1956.02』 新潮社、1997年12月。ISBN 978-4-10-640125-1。
- 『安部公房全集 <006> 1956.03‐1957.01』 新潮社、1998年1月。ISBN 978-4-10-640126-8。
- 『安部公房全集 <007> 1957.01‐1957.11』 新潮社、1998年2月。ISBN 978-4-10-640127-5。
- 『安部公房全集 <008> 1957.12‐1958.06』 新潮社、1998年3月。ISBN 978-4-10-640128-2。
- 『安部公房全集 <009> 1958.07‐1959.04』 新潮社、1998年4月。ISBN 978-4-10-640129-9。
- 『安部公房全集 <010> 1959.05‐1959.09』 新潮社、1998年6月。ISBN 978-4-10-640130-5。
- 『安部公房全集 <011> 1959.05‐1960.05』 新潮社、1998年7月。ISBN 978-4-10-640131-2。
- 『安部公房全集 <020> 1966.01‐1967.04』 新潮社、1999年5月。ISBN 978-4-10-640140-4。
- 『安部公房全集 <021> 1967.04‐1968.02』 新潮社、1999年6月。ISBN 978-4-10-640141-1。
- 『安部公房全集 <022> 1968.02‐1970.02』 新潮社、1999年7月。ISBN 978-4-10-640142-8。
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- 『安部公房全集 <025> 1974.03-1977.11』 新潮社、1999年10月。ISBN 978-4-10-640143-5。
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- 『安部公房全集 <029> 1990.01‐1993.01』 新潮社、2000年12月。ISBN 978-4-10-640149-7。
- 『安部公房 評伝年譜』 谷真介 編著、新泉社、2002年7月。ISBN 978-4-78-770206-7。
- 村上春樹 『若い読者のための短編小説案内』 文藝春秋〈文春文庫〉、2004年10月。ISBN 978-4-16-750207-2。
- 最相葉月 『星新一 1001話をつくった人』 新潮社、2007年3月。ISBN 978-4-10-459802-1。
- 養老孟司 『小説を読みながら考えた』 双葉社、2007年4月。ISBN 978-4-57-529953-3。
- 『大江健三郎 作家自身を語る』 聞き手・構成 尾崎真理子、新潮社、2007年5月。ISBN 978-4-10-303618-0。
- 『安部公房全集 <030> 1924.03‐1993.01』 新潮社、2009年3月。ISBN 978-4-10-640150-3。
- 宮西忠正 『安部公房・荒野の人』 菁柿堂(出版) 星雲社(発売)〈Seishido brochure〉、2009年3月。ISBN 978-4-434-12940-7。
- 呉美姃 『安部公房の〈戦後〉 植民地経験と初期テクストをめぐって』 クレイン、2009年11月。ISBN 978-4-906681-33-4。
- 安部ねり 『安部公房伝』 新潮社、2011年3月。ISBN 978-4-10-329351-4。
- 苅部直 『安部公房の都市』 講談社、2012年2月。ISBN 978-4-06-217493-0。
- 安部ヨリミ 『スフィンクスは笑う』 講談社、2012年2月。ISBN 978-4-06-290148-2。
- 田中裕之 『安部公房文学の研究』 和泉書院〈近代文学研究叢刊 49〉、2012年3月。ISBN 978-4-7576-0614-2。
- 大江健三郎 『定義集』 朝日新聞出版、2012年7月。ISBN 978-4-02-250810-2。
- 『(霊媒の話より) 題未定 - 安部公房初期作品集』 新潮社、2013年1月。ISBN 978-4-10-300811-8。
- 木村陽子 『安部公房とはだれか』 笠間書院、2013年5月。ISBN 978-4-30-570692-8。
- 山口果林 『安部公房とわたし』 講談社、2013年7月。ISBN 978-4-06-218467-0。
関連人物
外部リンク
- Abe Kobo(英語)
- 「安部公房とわたし」の真実 - 東洋経済