福岡
大分
明治維新後、年貢や酒株が廃止となり酒の移出入が自由化したことにより、三津では御蔵所にあった米を使い酒造を始めるものが増えた。広島県の酒造家の中でこの頃最初に県外へ販路を伸ばしたのが三津の者たちであり、まず伊予・周防に進出し、1873年(明治6年)頃には伊予中島の商人(船頭)を介して舟で福岡・大分の九州東海岸側へ売っていった。「酒舟」と呼ばれたこの舟は最盛期には30艘におよび、特に1877年(明治10年)西南戦争では金魚酒が出回っていた中で三津の酒は官軍(明治政府軍)に愛飲され、これによって三津が酒どころとして評判になり、1882年(明治15年)頃には酒造26戸・造石高5,000石(902kl)に達している。この頃三津はこの付近で一番盛んだった地であり、竹原・西条や仁方もこれに続いた。
この間、政府は1875年(明治8年)酒類税則を定め酒税の徴収を始める。県内の有力酒造家はその対応を協議するため1876年(明治9年)尾道浄土寺で会合を開いた。これに三津からは本田泰三と日下賛左衛門が出席している。
軟水醸造法の開発
ただこの盛況は短期間に終わった。供給が過多気味に入ったところで、交通の発達に伴い灘・堺のより上質な上方酒が流入して県内を席巻し、更に1884・85年(明治17・18年)の不況に加えてこの時期に政府が酒税を極端に増税[補足 1]したため、県内では経営的に立ち行かなくなる蔵元が続出した。そのため広島の酒造家は生き残りをかけて高値で売れる良質な酒作り、特に灘酒を目標に研究を重ねていく。なお三津の酒舟では中島の船頭が利益を得るため水で割って(金魚酒)売っていたこともあって1887年(明治20年)頃には減少し1892年頃(明治25年)には姿を消した。
1888年(明治21年)、三津の本田泰三・三浦仙三郎、竹原の頼三郎[補足 2]・進藤周次郎の音頭で酒造業者が一致団結して向上を図る目的で賀茂郡南部酒造組合を結成する。これは県内初の酒造組合であり全国でも古いもののひとつになる。
ここで三津に三浦仙三郎が登場する。明治初期から酒造業を始めた三浦も酒質の向上を目指し、当初灘から技術を持ち帰って醸造を試みるも失敗に終わった[5]。1892年(明治25年)頃、その原因が水質の違いによるものだとわかる[5]。灘の仕込み水宮水が硬度8から10の硬水だったのに対し三津では硬度2程度の軟水であるため、灘の真似ではうまくいくはずがなかった。そこで三浦はこれまでのやり方を全く変え、軟水に適する醸造法の研究を始め、1897年(明治30年)軟水醸造法が完成した[5]。この醸造法は大きく2つの特徴がある。
- 硬水の場合は含まれる栄養を元に酵母が活性化するが、軟水の場合は栄養が不足するため酵母の働きが鈍い。そのため麹が米の内部まで十分に行き渡るようしっかりと育てる。
- 不足する軟水からの栄養を補うため米からの栄養を用いる。それが十分に溶け出すのを待つため、もろみを低温でゆっくりと発酵させる。
この開発の中で、古くからの習慣に固執する杜氏を更迭して新しく若い杜氏を迎え入れ、それまで杜氏の手の感覚による品質管理だったものに寒暖計による精密な温度管理を取り入れ、麹室を改良し衛生管理を改善した。これによって腐造がほぼなくなった。この軟水醸造法は、三浦が目指した灘酒に対抗できる銘酒が作れる手法であるどころか、それまでの酒造界では軟水は酒造には不向きと言われてたがこの手法はそれを根底から覆すことになった。この手法が今日の吟醸造りの基礎となった技術とも言われている。これをもって三浦が世に出したのが銘酒「花心」である。
この頃の小学校地理教科書[補足 3]には以下の文が書かれていた[5]。
三津町ハ多ク額ノ良酒ヲ産スルヲ以ッテ甚タ名高ク摂津国ノ灘ニ対シ俗ニ下灘ト称ス
三浦は1898年(明治31年)三津町長に当選するも、この文を発見して特に“下灘”のところに感激して発奮し、同年町長を辞し酒造業に専念したという[5]。
三津杜氏の誕生
軟水醸造法が出来上がった同年、三浦は「酒造研究会」を開き三津およびその周辺の杜氏・蔵人を集めその醸造法を教え研究を更に進めた。翌1898年(明治31年)三浦はその技術を記した『改醸法実践録』を発行、広く公開した。軟水の多かった広島[補足 4]の杜氏は大いに刺激されともに研究に励んだ[5]。
同じ年である1898年(明治31年)広島県酒造組合が結成され、組合による県域での品評会や技術講習会が始まる。一方で販売面での転機は1900年(明治33年)に訪れる。義和団の乱に際し旧日本軍は臨時的に軍用酒を買おうと灘や堺の商人に打診したものの急であったため2者とも躊躇したことから、広島県酒造組合が県の品評会で1等を受賞した数種の酒を見本として軍に提出するなど働きかけ、三浦「花心」・保田大吉「白茶」・槌信右衛門「於多福」の3つが軍用酒として採用された[5]。花心と於多福は三津の酒であり、この契約が広島酒の全国販売展開の嚆矢となった[5]。
このころになると酒税が地租を抜いて国税収入のトップとなった。国も財政の一環として酒質改善に動き1899年(明治32年)広島税務管理局に醸造技術部が設立[35]、1902年(明治35年)大蔵省の醸造技手として橋爪陽が着任する。同1902年三浦の酒造研究会は名を「醸杜親話会」に改め、翌1903年(明治36年)橋爪を講師として招く。そこから1905年(明治38年)組合の事業として橋爪の酒造講習会が三津で開かれるようになり、これがのちに賀茂郡の事業→賀茂郡高等実業補習学校醸造科→県立醸造試験場の事業→県立醸造試験場附属三津酒造講習所と昭和初期まで続いていった。こうして三浦の醸杜親話会・橋爪の講習の中で育った杜氏が三津杜氏となった。
1935年(昭和10年)時点での県内杜氏組合員数
杜氏組合 |
杜氏 |
助業者 |
計
|
三津
|
389 |
1,700 |
2,089
|
西条
|
52 |
570 |
622
|
竹原
|
45 |
215 |
260
|
内海
|
19 |
84 |
103
|
鞆
|
6 |
144 |
120
|
南方
|
4 |
80 |
84
|
この明治30年代、広島の酒造界は古くからの手法でいわゆる鬼殺し的な地酒をつくる古流と軟水醸造法を用いる三津流の2つの勢力になった。そこから、
- 西条 : 水質は中硬水。三津杜氏を招聘して軟水醸造法を研究し西条の古流と合わせた西条中硬水醸造法を作り上げた。そのため事実上三津杜氏から西条杜氏が生まれたことになり、西条では2つの杜氏が主力となった[41]。
- 竹原 : 水質は軟水だが軟水醸造法開発前になる1893年(明治26年)頃酒造に適した照蓮寺井戸を発見し、独自に改醸が進められた。ただ井戸発見前から三津と組合を作っていることなどお互いに協力しあっており、竹原杜氏と三津杜氏は同化していた。
1906年(明治39年)頃には軟水醸造法は広島で広く定着し、広島杜氏の大部分が三津杜氏となっていった。同年、現在の安芸津町域周辺出身者で三津醸造稼人組合を結成、1911年(明治44年)組合規約改正を行い加入者数も増大し県内で初めての杜氏組合になる三津杜氏組合を結成する。西条・竹原などでも三津に続いて杜氏組合が結成された。
吟醸酒の誕生
広島の酒にとって大きな転換期となったのが、1907年(明治40年)日本醸造協会主催の第1回全国清酒品評会で飛び抜けた成績[補足 5]を収めたことである。全国の酒造家にとっては灘・伏見のブランドイメージが強い中での広島含めた地方酒の躍進は意外なことであった。三津の酒では1909年(明治42年)第2回全国清酒品評会で花心が優等2位を受賞している。
この品評会や1911年(明治44年)から始まる酒類総合研究所主催全国新酒鑑評会での地方酒の躍進によって、それまで水質が原因で酒造を諦めかけていた地域の人達は技術的に銘酒が作れることが可能であると知ることになる[5]。そしてこれらの受賞は蔵元にとっては名誉であるだけではなく売上に大きく影響することから、各地の酒造は一層盛んになり酒質は向上し昭和初期には吟醸造り競争が加熱した[46]。三津杜氏はどの水質でも安心して酒が造れる杜氏として重用され、日本各地やハワイ・樺太・朝鮮・満州・中国でも酒造に従事していたという。
ちなみに吟醸とは日本で生まれた言葉であり、江戸期には吟造・吟製という言葉があったものの吟醸はなく、文献での初出は1894年(明治27年)である[50]。吟醸酒は1907年から始まった清酒品評会によって育まれたが、当時は“(三浦が開発した)軟水によるもろみ低温ゆっくり発酵によって品評会向けに作られた酒”という意味合いが強く、(旧)酒税法上そのまま出せなかったことや酒造家の手間などを理由に、市場にはほぼ流通していなかった[50][46]。昭和50年代に広島杜氏がYK35仕込みによる大吟醸酒を編み出し、これを研究して各酒造メーカーが商品化しだしたのは1980年代で、1990年特定名称清酒制度によって定義がつけられ、平成バブル景気と重なって吟醸ブームが起きた[50][52]。
近代以降
|
酒造場数 |
造石高(石) |
現在
|
竹原町 |
17 |
12,362 |
竹原市
|
三津町
|
13 |
9,942 |
東広島市
|
西条町 |
7 |
5,939 |
東広島市
|
仁方町 |
8 |
6,740 |
呉市
|
内海町 |
3 |
2,116 |
呉市
|
阿賀町 |
5 |
1,056 |
呉市
|
その他 |
34 |
15,011 |
-
|
右に、1908年(明治41年)度の賀茂郡町村別の酒造場数を造石高順で示す。この時期は広島県全体の酒造業が成長していく最中で、同年度の県造石高は160,951石であるため三津では県の6%を製造していたことになる。
広島県の杜氏としては三津が主流であったが、県の酒造業の中心は明治末期から西条へ移っていく。これは西条流の醸造法を確立したことに加え、それまで県外への運搬は沿岸部の町からの船による海上輸送が主であった[補足 6]が山陽鉄道(山陽本線)が登場し1901年(明治34年)全線開通したことにより西条では鉄道による大量輸送に切り替えて増大する広島酒の需要に対応できたため[補足 7]である[56]。農閑期となり寒仕込みの時期となると、三津の杜氏や蔵人は西条へ仕込みに行った[57]。
山口 (1992, p. 53)を参考に大正から昭和期にあった安芸津の酒造場の位置を2018年地図に示したもの。川や入江あるいは北(西条)から港に至る道沿いに多くあった。左の丘の神社が榊山八幡神社。
1948年米軍撮影。
以下、現在の安芸津町域における1908年(明治41年)と1919年(大正8年)の酒造業者が生産していた代表的な銘柄を造石高順で列挙する。
1908年 |
|
1919年
|
酒銘 |
造石高 (石) |
氏名 |
|
酒銘 |
造石高 (石) |
氏名
|
花心
|
1,156 |
三浦忠造 |
|
花思
|
2,376 |
内藤久次郎
|
関西一
|
1,044 |
柄福松[柄酒造] |
|
全盛
|
2,035 |
三津酒造(株)
|
錦
|
973 |
内藤久次郎 |
|
堀の井
|
1,515 |
堀本恒
|
堀の井
|
825 |
堀本恒 |
|
於多福
|
1,484 |
柄酒造(株)
|
印内
|
747 |
日下賛三 |
|
花心
|
1,392 |
三浦忠造
|
日の丸
|
642 |
重田時平 |
|
富久長
|
1,282 |
(名)今田新次酒場 [今田酒造本店]
|
×
|
日の丸
|
1,159 |
重田時平
|
三ツノ花
|
723 |
原田實二
|
渓泉
|
680 |
荒谷超松
|
大福
|
513 |
古川佐市
|
白鳩
|
1,231 |
原田有恒
|
- 大正期にあったもので上記にないものとしては、「雲峰」西山栄助、「満寿鏡」益田甚平 、「富久授」河上酒造場、「国の一」古川酒造場。
- この時期にいくつか会社を設立している。旧来の家業の延長であった酒造業に経営の近代化を導入したのは西条の方で先行していた[60][61]。
- 「花心」の三浦仙三郎は1874年(明治7年)創業したが1908年病で死去、実弟の三浦忠造が継いだ。第2回全国清酒品評会で花心が優等2等を受賞したのは忠造時代になる。ただ1925年(大正14年)廃業している。なお忠造は1905年(明治38年)旧早田原村現在の安芸津町風早にビワ栽培を持ち込んでおり、そこから安芸津は広島県唯一のビワの産地となった[8]。
- 「富久長」の名つけ親は三浦仙三郎で1910年(明治43年)商標登録[62]。今田酒造本店は1872年(明治元年)創業である[62]が1908年の記録には記載がない。大正期に雲峰の西山氏から酒蔵を譲渡されている。1981年(昭和56年)発足した日本吟醸酒協会に加盟する蔵元の一つ[63]。
- 本田泰三は賀茂郡南部酒造組合の組合長を勤め明治初期の三津における中心人物であったが、大正期の記録では消えている。酒銘も不明。
- 「印内」の日下賛三は明治末期から大正初期に廃業している。1917年(大正6年)時点での賛三の肩書は“素封家”で、醸造機器を貸し出していた。なお長男の日下是一・次男の日下晃次郎ともに元三津町長[16]。
- 堀本氏のちの堀本酒造は「金泉」のほうが知られているがこの時点では「堀の井」。平成に入り廃業するが、杜氏は「雨後の月」相原酒造(呉市仁方)に移り金泉は現在でも作られている。
- 荒谷氏のちの荒谷酒造は「此の花」のほうが知られているがこの時点では「渓泉」。古くは仕込み水に三津湾に浮かぶ龍王島の水を使っており、かつて島に住んでいた人はその水番をしていたという[64]。
- 「日の丸」の重田氏のちの重田酒造は1905年(明治38年)創業[17]、平成に入って廃業。
- 「全盛」の三津酒造は1930年(昭和5年)廃業。
- 「白鳩」の原田有恒は、三津町ではなく旧早田原村現在の安芸津町風早に所在。
いつ頃作られたか不明であるが、三津小唄にはこのような文句がある[8]。
酒のよいのと景色に惚れて 急ぐ旅路を三津泊り
近代における広島酒のピークは大正バブル期であり、三津の酒含めた賀茂郡の酒は県外へと売られていった。大正期に現在の安芸津町域には酒蔵が最大で24あった[18]。ただ戦中に広島財務局鑑定部が書いた資料では、大正期の三津は盛況したが税務官吏の細かい徴収の結果勢いが弱まり衰退していったとしており、遺憾であったと記載している。
1943年(昭和18年)三津町・早田原村・木谷村が合併してできた安芸津町において酒造業は主要産業であった[62]。当時の町の男は全員何らかの形で酒蔵で働いた経験があり[18]、杜氏は花形職業であったという[62]。1954年(昭和29年)三津杜氏組合をベースに竹原・西条などの県内杜氏組合が合併して広島杜氏組合となり、安芸津に組合事務所が置かれ、安芸津町長が組合長に就任している。地元の県竹原高校安芸津分校[補足 8]に醸造科があった[62]のはこの流れからである。
広島の酒は1958年(昭和33年)に戦後最盛期を迎えたもののそこから減少が続いている。安芸津でも減少は続いているものの、明治から昭和末期まで続いた酒造メーカーは金泉の堀本酒造・此の花の荒谷酒造・日の丸の重田酒造・関西一の柄酒造・富久長の今田酒造本店の5つと、県内他所に比べて存続した割合は多い方であった。
ただそこからさらに減って2018年(平成30年)現在柄と今田の2つのみとなっている。平成30年7月豪雨では双方ともに被災、特に柄酒造は麹室にまで水が入るなど深刻な被害を受けている[67]。
文化
景観
2018年現在、酒造メーカーは柄酒造と今田酒造本店の2つのみである。双方の酒蔵ともに三浦仙三郎の蔵の配置に影響を受けていると考えられている[17]。
三津の東側である安芸津町木谷から竹原市吉名町[68]にかけて、レンガの産地である。かつては三津にレンガの工場があった[3]。このレンガはこの周辺の大正期に造られた酒造用の煙突に用いられており、三津に唯一残る今田酒造本店の1920年(大正9年製)のものや[3]、西条の酒蔵に現存する多く[69]が、安芸津産である。
榊山八幡神社には、摂末社として醸造の神大山咋神を祀る松尾神社が建立されている。他、三浦仙三郎像や、狛犬代わりの石製の酒樽、仙三郎が寄進した石製の酒甕など、酒にまつわるものがいくつかある[3][70]。三浦仙三郎像は1921年(大正10年)に仙三郎を称える功徳碑として菩提寺である蓮光寺に建立されたものの、太平洋戦争中の金属類回収令により撤去されたものの、1990年(平成2年)榊山八幡神社に再建された。安芸津歴史民俗資料館には仙三郎ゆかりの品や酒造りに関する資料を展示している[3][71]。
東広島市は2017年現在西条周辺の酒造関連施設の文化財登録をしており、安芸津の酒造群もこれに続いて申請の準備が行われている[72]。
Former Horimoto shuzou.jpg
旧堀本酒造
主屋は現存し現・デイサービスセンター金泉
Ruin of Aratani jouzousho.jpg
Tsuka shoten sakagura.jpg
原田實二酒造場の跡地を引き継いだ酒類問屋、柄商店の倉庫
かつては「つちや」銘柄の酒を販売していた[73]。
その他
- 杜氏鍋
- 酒粕をベースに味噌仕立てで仕上げた鍋で、野菜や安芸津名産の広島カキなどが入る。杜氏のまかない飯だった鍋で美酒鍋の安芸津版になるが「清酒は商品なので使うのはもったいない」と酒粕を入れたという[74]。
- 宮之原昌幸シリーズ『蓮如伝説殺人事件』
- 2009年発売の木谷恭介の小説。安芸津が舞台であり、酒に関する描写もある。
脚注
- 補足
- ↑ 1898年(明治31年)の1升価格で、灘酒が40銭、地方酒は半値の20銭で流通していた。地方酒の場合は酒税を払うと8銭しか残らず更に材料・人件・諸経費を抜くとほとんど残らなかった。
- ↑ 頼春風の孫[26]。つまり頼山陽の従甥にあたる。
- ↑ 1883年(明治16年)から教科書検定制度採用。1904年(明治37年)から国定制度開始[30]。
- ↑ 三原・竹原の一部・西条・広島の一部など局地的に硬水あるいは中硬水がでていたが、三津含めた旧賀茂郡から呉の広い範囲では軟水が出ていた。
- ↑ 優等1位が竹原藤井酒造「龍勢」、優等2位が倉橋林酒造「三谷春」。
- ↑ 運搬に用いる酒樽の製造は1882年(明治15年)ごろ仁方で始まりそこから竹原・三津で増えており、これも沿岸部が先行していた。
- ↑ 三津に鉄道、つまり現在の呉線安芸津駅が開業するのは1935年(昭和10年)。
- ↑ 現広島県立豊田高等学校。1956年に安芸津町が賀茂郡から豊田郡に変更されたことによる。
- 出典
参考資料
- 廣島財務局鑑定部「中國六縣酒造變遷發達の状況 (其二) (PDF) 」 、『日本釀造協會雜誌 39巻 4号』、日本釀造学会、1944年、 164-186頁、. 2018閲覧.
- 坂井正治「広島杜氏 (PDF) 」 、『日本醸造協会誌 61巻 8号』、日本醸造協会、1966年、 696-702頁、. 2018閲覧.
- 山口昭三「醸造建築の調査研究 : 広島県の酒造場 その1(歴史) (PDF) 」 、『近畿大学九州工学部研究報告. 理工学編Vol. 21』、近畿大学九州工学部、1992年12月、 47-57頁、. 2018閲覧.
- 池田明子「和製漢語「吟醸」の歴史から (PDF) 」 、『日本醸造協会誌 98巻 12号』、日本醸造協会、2003年、 850-858頁、. 2018閲覧.
- 佐々木健、佐々木慧「[harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hkg/file/12031/20180320122120/AA11419398_49_p23.pdf 広島発の秀逸バイオ技術,軟水醸造法の水質化学的および微生物学的要点] (PDF) 」 、『広島国際学院大学研究報告 49巻』、広島国際学院大学、2016年12月、 23-35頁、. 2018閲覧.
- 『西条酒造一班』 日本醸造協会中国支部、1920。アクセス日 2018-05-19。
- “竹原市の維持及び向上すべき歴史的風致 第2章 (PDF)”. 竹原市. p. 61-64. . 2018閲覧.
関連項目