宇都宮国綱
宇都宮国綱 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄11年(1568年) |
死没 | 慶長12年11月22日(1608年1月9日) |
氏族 | 宇都宮氏 |
略歴
天正4年8月7日(1576年8月30日)、父・広綱の死とともに宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、壬生氏や皆川氏などの国内の反対勢力が活発化したこともあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国の佐竹氏や下総国の結城氏、甲斐国の武田勝頼、さらには豊臣秀吉と手を結んで対抗する。
しかし、小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城などの周辺諸城が全て北条に寝返っており、国綱は拠点を平城の宇都宮城から山城の多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願うのみとなっていた。
天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された[注釈 1]。 その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣している。また、秀吉の力を背景に家中の統制を強め[1]、文禄3年(1594年)には豊臣姓を下賜された。
しかし慶長2年10月13日(1597年11月22日)、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男・長重[2]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし、姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に浅野長政の関与があったことが窺える。他に、太閤検地に際して結果が秀吉が安堵した18万石ではなくその倍以上であった、という石高詐称によるもの[3]という説もある。更に国綱と今泉ら側近が進めてきた家中の統制強化に長年にわたって宇都宮氏の実権を握ってきた門閥重臣を代表する芳賀氏が反発し、門閥対側近による合戦に至ったことが原因とする説もある[4]。
その後、国綱は宇都宮を追放されて備前国の宇喜多秀家の下に預けられた。秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣し、順天城の戦いで武功を立てた[5]。しかし、秀吉の死により再興はかなわなかった[注釈 2]。
その後、諸国を流浪し、慶長12年(1607年)に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死したと言われている。享年40。
息子の義綱は成人後、水戸藩士となった。国綱の妻・小少将は徳川和子の乳母となり、和子入内に従って上京した。
家臣
「宇都宮弥三郎羽柴国綱公 家臣連名簿・慶長2年」[6]より2千石以上の家臣一覧。
- 10万石
- 2千石以上10万石以下
- 汀壱岐守
- 神山紀伊守
- 河神丹波守 (武田信玄公ヨリ人質ニ来ル、河ハ川也)
- 下ヶ橋豊前守
- 生田目四郎右ヱ門
- 桑島丹後守
- 笠間長門守
脚注
注釈
引用元
- ↑ 一説(「江田『戦国大名宇都宮氏と家中』、P190-192)には、「城割」を行って笠間氏や塩谷氏から居城を没収して自らの側近を城主に任じたとする。しかし、秋田塩谷系譜によれば、塩谷氏は、文禄4年(1595年)2月8日に秀吉により改易が命じられ、この時に川崎城を立ち退いており、慶長2年(1597年)1月2日には佐竹義宣の家臣として初出仕している。改易の理由は不明だが、この時に川崎城は廃城になっており、もし、宇都宮家により川崎城を退去させられたのであれば、文禄4年に宇都宮領となっていた川崎城が廃城となることは考えられず、宇都宮城下に住んでいたのも、一族である義綱の身柄を宇都宮家が預かっていただけであり、宇都宮家により川崎城主を替えられたとする説は、諸説のひとつという扱いになっている。
- ↑ 宇都宮興廃記は次男と記す。
- ↑ 坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P11
- ↑ 江田『戦国大名宇都宮氏と家中』、P192-195
- ↑ 『宇都宮高麗帰陣物語』
- ↑ 『下野史料』No.40(栃木県立図書館所蔵)