大隅諸島
地理 | |
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場所 | 太平洋 |
諸島 | 薩南諸島 |
島数 | 4[注釈 1] |
主要な島 | 屋久島、種子島、口永良部島、馬毛島 |
面積 | 994.41 km2 ({{rnd/b構文エラー: 予期しない演算子 < です。|構文エラー: 予期しない演算子 < です。|(構文エラー: 予期しない演算子 < です。)|構文エラー: 予期しない演算子 < です。 }} sq mi)[1] |
最高標高 | 1,936 m (6,352 ft)[1] |
最高峰 | 宮之浦岳[1] |
行政 | |
都道府県 | 鹿児島県の旗 鹿児島県 |
市町村 |
25x20px 西之表市 25x20px 熊毛郡中種子町 25x20px 熊毛郡南種子町 25x20px 熊毛郡屋久島町 |
最大都市 | 西之表市(人口15,472人) |
大隅諸島(おおすみしょとう)は、南西諸島のうち鹿児島県に属する薩南諸島北部の島嶼群。
地理
鹿児島県に属し、種子島、屋久島、口永良部島、馬毛島などから成る。黒島、硫黄島、竹島の上三島については、大隅諸島に含まれるとする説と含まれないとする説がある。
天気予報では「種子島・屋久島地方」という区分がよく使われる。この場合には、種子島、屋久島、口永良部島に加えて、黒島、硫黄島、竹島の上三島が含まれる。また、さらに「種子島地方」と「屋久島地方」とに細分する場合には、「種子島地方」には種子島、馬毛島及び上三島が含まれ、「屋久島地方」には屋久島、口永良部島が含まれる[2]。なお、天気予報における区分では、従来、「南西諸島」に「種子島・屋久島地方」を含める場合と含めない場合があったが、2007年4月1日の予報用語の改正に伴い、「南西諸島」は「種子島・屋久島地方」を含む場合のみに用いることとされた[3]。
歴史
この地域の歴史は古く、現在の日本本土側の縄文文化の影響も遺跡に見られる。
日本古代の『続日本紀』699年(文武天皇3年)には多褹(たね、種子島)が掖玖(やく、屋久島)・菴美・度感(どく、徳之島)などの島々と共に朝廷に朝貢し位階を授けたと記されている。また、大宝2年(702年)には「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」とあり、この地域が九州南部の未開人(隼人、熊襲などか)と連合して大和朝廷に反乱し征服されたと推定される。この反乱により平定された種子島・屋久島が令制国・多禰国(たねのくに)に組み込まれる。また、九州南部も日向国からが唱更国(後の薩摩国)が分国され、さらに和銅6年(713年)にはそこから大隅国が分国される。720年(養老4年)には九州南部で隼人の反乱。後の824年(天長元年)に、多禰国の領域は大隅国に編入となる。
なお、口永良部島は、古代は屋久島(多禰国)と共にあり天長元年(824年)に多禰国四郡が大隅国二郡に再編された際に共に編入されたと推定されるが、史料上大隅国と確定するのは1702年(元禄15年)編纂の「元禄国絵図大隅国」である。馬毛島は種子島氏が支配していた(よって大隅国と推定)が無定住島である期間が長くはっきりしない(明治期以降、鹿児島県熊毛郡から西之表市)。
注釈
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 “大隅諸島(おおすみしょとう)とは”. コトバンク. . 2018閲覧.
- ↑ 細分区説明 - 鹿児島地方気象台
- ↑ 予報用語の改正について - 気象庁