大正区
たいしょうく 大正区 | |
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地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
市 | 大阪市 |
団体コード | 27108-0 |
面積 |
9.43km2 |
総人口 |
64,009人 (推計人口、2018年4月1日) |
人口密度 | 6,788人/km2 |
隣接自治体 隣接行政区 |
大阪市(西区、港区、浪速区、西成区、 住之江区) |
外部リンク | 大正区 (日本語) |
大正区(たいしょうく)は、大阪市を構成する24行政区の一つである。区全体が運河に囲まれた島状の地形となっている。
大正初期以来沖縄県からの移住者が多かった地域で[1][2]、沖縄料理や沖縄食材を扱う店が多く、「リトル沖縄」とも呼ばれる[3]。
2016年現在、大阪市24区の中で最も人口が少ない。
Contents
地名と由来
区名
大正区の区名は、木津川に架かる大正橋(たいしょうばし)から命名された[4]。区名制定にあたり住民に区名を募集した際「大正橋区」を希望する声が多かったが、「大正橋区」では長いとして最終的に大正区に決定した。なお、区名の由来となった大正橋は大正4年竣工であるが、大正区自体は大正時代ではなく昭和7年に設置された区である。
町名
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三軒家の地名は、江戸時代初期の開発当時に3軒の民家があったことが由来となっている。三軒家は摂津国西成郡木津村の中村勘助(木津勘助)によって開発された。
北村および泉尾(いずお)の地名は、江戸時代にこの地を開発した北村六右衛門に由来する。そのうち、「北村」は姓をそのまま取り、「泉尾」は北村六右衛門の出身地・和泉国大鳥郡踞尾(つくの)村(現在の堺市西区津久野町)から、和泉国の「泉」と踞尾村の「尾」を組み合わせて命名された。
北恩加島(きたおかじま)・南恩加島(みなみおかじま)・千島・小林の地名は、江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次に由来する。「北・南恩加島」については、開発者・岡島嘉平次への敬意を示すため、この地を担当していた代官が「岡島」を「恩加島」の表記に変更した。「千島」および「小林」は、岡島嘉平次の出身地・摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)からとっている。
平尾の地名は、江戸時代にこの地を開発した平尾与左衛門に由来する。
船町および鶴町の地名は、万葉集の和歌から町名がとられている。船町や鶴町など区の南西端は明治以降の大阪港第一次修築工事の際に埋立・開発がすすめられた町である。なおこの地にはかつて鶴浜通・福町の地名もあり、これらの地名も万葉集からとられていたが、住居表示の実施によりいずれも鶴町に統合される形で姿を消している。
地理
大正区は、かつての淀川水系と大和川水系により運ばれた土砂により出来た大阪湾の三角州の1つであり、運河により更に3つに分かれている。
北を頂点として、南の辺が約2.8km、南北の長さが約4kmの三角形の形をしている。東と南には木津川、西には岩崎運河、尻無川が流れ、西端は大阪湾に接している。区の内部には、人工港湾の大正内港があり、木津川から分かれ、南恩加島・鶴町と船町との境界を成す木津川運河がある。北端に、JR西日本と大阪市営地下鉄の大正駅がある。また、南北の目抜き通りに大正通り、東西に国道43号が通る。
現在、木津川と三軒家川の間には難波島があるが、三軒家川は北半分が埋め立てられている。木津川を挟んで東側には月正島(がっしょうじま)があったが島の東を流れていた七瀬川は埋め立てられてこちらも地続きとなっている。
歴史
難波八十島と呼ばれた三角州地帯の南部に過ぎなかった当区域に人家が見られるようになったのは元和年間とされ、木津川尻の姫島に西成郡難波村から漁民3名が移住したのが始まりとされている(三軒家由来の他説)。その後、中村勘助による新田開発が始まり、姫島は勘助島や難波島と呼ばれるようになった。難波島は木津川口を塞ぐように位置していたため、1699年(元禄12年)に河村瑞賢によって島の中央部を開削する工事が行われ、木津川の流路が一直線になった。中央で木津川のために分割された難波島は西側の島の名は難波島(島の西には三軒家川)のままとし、東側の島の名は月正島(島の東には七瀬川)と命名された。
以降、同じく瑞賢の開削による安治川と並んで木津川は諸国物産を積んだ廻船で大いに賑わった。
新田開発は木津川改修工事とともに本格化し、新田開墾は願書を1698年8月(元禄11年)に提出、同年9月に許可された。町民(中村勘助、北村六右衛門、岡島嘉平次など)が行い、現在の町名はその開墾した人に由来する。なかでも岡島嘉平次は当区域に該当する全16新田のうち9新田の開発に携わっている。工事としてはまず堤防予定地の内側を掘り下げて溝を造り、その上げ土で堤防を築いて海水の侵入を防ぐ。この後堤防内を新田に開拓する。新田の雨水などは、一時溝にためて、干潮のときは堤防の水門をあけて排水し、満潮のときは水門を通じて海水の侵入を防いだ。江戸時代後期になるとほぼ現在の形になる。
1883年(明治16年)に三軒家にあった大阪紡績会社(現:東洋紡)がイギリスより日本で初めての蒸気式の紡績機を輸入し、大阪を日本一の紡績工業都市へと押し上げ「東洋のマンチェスター」とも呼ばれるきっかけを作った。また堀江など長堀沿いにあった材木市場が手狭になり、千島や小林に大きな貯木場が作られた。鶴町(現在の鶴町1丁目、船町渡船場付近)にはゼネラルモーターズの自動車工場(1927年(昭和2年)から1941年(昭和16年)まで)が、船町には中山製鋼所の製鉄所や日立造船などの造船所も作られ、近郊農村は阪神工業地帯の重工業集積地に姿を変えた。これらの大工場に働き口を求めて沖縄県から移住者が多く集まったことが、現在も続く沖縄県出身者のコミュニティ形成の主因となっている。川沿いの工場には大きな船が着岸するため、大正区を取り囲む川には(区の北端の大正橋などを除いて)橋は掛けられず、渡船が対岸とを結んでいた。市内からは大正橋を通り市電が鶴町までを結んでいた。この大正橋は1915年(大正4年)に開通した。
第一次世界大戦時には、小林付近にドイツ軍捕虜を、第二次世界大戦時には新千歳にアメリカ軍捕虜を収容したと言われる収容所があった。第二次世界大戦時、大正区全域が大阪大空襲により壊滅的な被害を出したが、一方で現在の大正中央中学校(当時大正尋常高等小学校と言われていた[5] )[6]附近にあった高射砲陣地にあった砲は、B29を1機撃墜させるなどの戦果を挙げている。[7]
工業化による地下水くみあげのために地盤沈下が起こり、洪水や高潮に弱くなったほか浸水被害が深刻なため、第二次世界大戦後になって貯木場や市街地を削って川を広げ大正内港を作る一方、出た土砂で区内に盛り土を行い、大正運河なども埋め立てられた。1980年代以降、産業構造の変化で重工業が振るわず中小の工場も廃業するものが出る一方、その跡地に大型店舗が立地したり、川沿いの立地を生かしたレストランやマンションの用地として活用されているものもある。
- 1889年(明治22年) - 町村制施行により、西成郡三軒家村・川南村が発足。
- 1897年(明治30年) - 大阪市第一次市域拡張により、三軒家村および川南村の木津川右岸が大阪市へ編入され、西区に含まれる。
- 1915年(大正4年) - 大正橋竣工。程なく大阪市電九条高津線が開通。
- 1916年(大正5年) - 木津川運河開削。
- 1920年(大正9年) - 岩崎運河開削。
- 1925年(大正14年) - 大阪市第二次市域拡張に伴い、新設の港区に含まれる。
- 1930年(昭和5年) - 区内で初めての市バスが運行する。(野田阪神 〜 鶴町)
- 1932年(昭和7年) - 尻無川左岸かつ岩崎運河以南が港区より分区され大正区が発足。
- 1934年(昭和9年) - 小林町(現在の小林)に大正消防署を新設する。
- 1940年(昭和15年) - 防潮堤が完成する。(尻無川・木津川)
- 1941年(昭和16年) - 防潮水門9ヵ所完成する。
- 1943年(昭和18年) - 泉尾警察署を大正警察署と改称する。
- 1946年(昭和21年) - 大正区商店街連盟結成する。大正区防潮本部設置する。(水防団結成)
- 1955年(昭和30年) - 洪水対策としての防潮堤竣工。
- 1961年(昭和36年) - 天王寺 - 西九条間の国鉄大阪環状線開通する。大正駅開設される。
- 1970年(昭和45年) - 国道43号線・阪神高速西大阪線開通する。
- 1972年(昭和47年) - 大阪市環境局の大正工場が完成する。
- 1975年(昭和50年) - 第1回大正区民祭り開催される。
- 1995年(平成7年) - なみはや大橋開通する。
- 1997年(平成9年) - 大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅開通する。
- 2003年(平成15年) - 千歳橋完成する。
- 2012年(平成24年) - 沖縄返還40周年・大正区制80周年記念事業として、千島公園にて9月8日・9日に「綱・ちゅら・エイサー祭 〜与那原大綱曳in大正区〜」が開催された[8]。
大阪府議会議員
大正区単独で1つの選挙区(大正区選挙区)を有し、定数は1人である。
- 金城克典(大阪維新の会・1期目)
交通
前述のとおり、大正区内には鉄道がほとんど整備されておらず、鉄道駅は大正駅が北端に所在するのみである。
区内の公共交通はおおむね大阪シティバスが担っている。南部の鶴町地区(鶴町四丁目停留所)と大正駅(大正橋停留所)との間は早朝から深夜まで比較的運行頻度が高く、昼間でもあまり待たずに乗れる程度の本数を確保している。また、朝ラッシュ時の大運橋通と大正橋間は1分未満の間隔で運行しているなど運行頻度は特に高いが、これは通勤通学のために駅へ向かう区内の住民と、駅から区内の勤務先へ通勤する利用客とが朝夕のラッシュ時でも双方向の需要が見込めること、大正区は南北に長く大正通がその中央を背骨状に通っており、バス路線を集約しやすいことがその理由である。
なお、大阪市高速電気軌道の長堀鶴見緑地線を鶴町地区まで延伸する計画がある。
鉄道
道路
橋梁
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渡船
大正区は河川や運河などの水路に囲まれた地域であるため、公営渡船が数多く運航されている。歩行者および自転車専用で、運賃は無料。港湾局による木津川渡以外は大阪市建設局による運航である(大阪市には全部で8箇所の公営渡船があるが、その内7箇所が大正区と関わりがある)。
※ 大阪市の公営渡船も参照。
教育
高等学校
- 大阪市立泉尾工業高等学校
- 大阪府立泉尾高等学校 ※2018年 大阪府立大正高等学校と合併に伴い、大阪府立大正白稜高等学校に名前を移行
- 大阪府立大正高等学校 ※現在の在校生が卒業後閉校・大阪府立大正白稜高等学校に移行
中学校
小学校
幼稚園
- 大阪市立
- 三軒家西幼稚園
- 泉尾幼稚園
- 私立
- 昭和幼稚園
- 北恩加島幼稚園
- 南恩加島幼稚園
- 昭光幼稚園
専修学校
施設
公共施設
- 泉尾公園
- 昭和山(千島公園)
- 大阪市立大正図書館
- 大正地区文化交流プラザ
- 大正区ふれあい福祉センター
- 大正区老人福祉センター(トモノス大正)
- 大阪府警 大正警察署
- 大阪市消防局 大正消防署
- 大阪市交通局(大阪市営バス) 鶴町営業所
- 大阪市建設局 千島下水処理場
- 大阪市環境局 大正工場
医療機関
商業
商店街
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主な大規模商業施設
寺社・宗教施設
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その他
かつて存在した主な施設
- 木津川飛行場 - 伊丹空港開業に伴い機能の大部分を移転したが、のちに廃港。
- 大阪俘虜収容所 - 第一次世界大戦時の1914年(大正3年)11月11日にドイツ軍捕虜760名が収容された。そののち、1917年(大正6年)2月に閉鎖され、似島(広島市南区)へ移転した。
- 大阪市電大阪市電鶴町車庫
本社を置く主な企業
出身者
政治
- 佐藤祐弘 - 元衆議院議員
学術
文化・芸術・芸能
スポーツ
- 碧天大市 - 大相撲力士
- 池原シーサー久美子 - プロボクサー
- 具志堅幸司 - 体操選手、ロサンゼルスオリンピック体操金メダリスト[10]
- 久高寛之 - プロボクサー
- 前田日明 - 元プロレスラー
- 森岡栄治 - プロボクサー
- 森本圭美 - 元プロボクサー
- 前川勝彦 - 元プロ野球選手
- 比嘉賢伸 - プロ野球選手(読売ジャイアンツ)
- 阪口皓亮 - プロ野球選手(横浜DeNAベイスターズ)
- 山本祐大 - プロ野球選手(横浜DeNAベイスターズ)
大正区ゆかりの著名人
舞台とする作品
脚注
- ↑ 一緒に考えまひょ!大正区の産業振興を考える意見交換会 (PDF) p.7 - 大正区(2011年(平成23年)9月13日付、2013年(平成25年)11月21日閲覧) ※筋原区長による発言部分。
- ↑ 大阪市大正区における沖縄関連店舗の立地展開 (PDF) (「立命館地理学」第17号、2005年(平成17年)、p.87-99) - 真鍋一弘 著、立命館地理学会 発行(立命館大学、2013年(平成25年)11月21日閲覧)
- ↑ NHK大阪放送局 担当プロデューサー 近江寧基. “番組情報 えぇトコ”. NHK大阪放送局. . 2015閲覧.
- ↑ 大正橋西詰の記念碑の記述より。
- ↑ 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年(平成17年)p.68
- ↑ 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年(平成17年)p.43
- ↑ 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年(平成17年)p.43・68
- ↑ 大正区役所 総務課 総合企画グループ (2012年9月4日). “大阪市 大正区 綱が繋ぐ皆で繋ぐ「綱・ちゅら・エイサー祭 ~与那原大綱曳in大正区~」 を開催します!(※ 終了しました)”. 大阪市. . 2012閲覧.
- ↑ 京都大学のウェブサイト
- ↑ 2013年(平成26年)8月29日 大阪市大正区報道発表『具志堅幸司さん講演会「大正区から世界へ!“育てて伸ばすスポーツ指導”」を開催します』、および千島公園内にある具志堅幸司金メダル記念碑の記述より。
- ↑ NHKサイト「著名人が母校で授業!『課外授業ようこそ先輩』」
参考資料
- 『大正区の歴史を語る』 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年(平成17年)
外部リンク
- 大正区 公式ウェブサイト (日本語)