大御所 (江戸時代)
大御所(おおごしょ)とは、江戸幕府において征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍の敬称。
大御所の由来
江戸幕府において大御所の名が正式に用いられるようになったのは、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康が、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲って隠居したときに「大御所様」という敬称が用いられるようになったときである。しかし、御所とは天皇の居所(皇居)を意味する言葉でもあり、それに大を加えて用いることは天皇よりも上の者を意味するということで、当時はその名に対して批判や疑問も多かったと言われている。だが、これに対して家康は、古来の幕府の隠居した将軍の中にも大御所の名を用いたものはいる、と言い繕うことで難を逃れている。
大御所政治
江戸幕府を開府した初代将軍・徳川家康は、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲って駿府城に隠居城を構えた。(ただし駿府城は1609年以降は名目上、徳川頼宣の駿府藩50万石の政庁。)しかし、大御所となった後も家康は現役将軍の権威を配慮しつつも政治を主導していたため、大御所政治と呼ばれた。家康は駿府(現静岡市)に居を構え、主に西国政策を中心に政治を行い(駿府政権)、秀忠の居る江戸には譜代を幕閣として配置し家康在世中は主に東国に対する政策を行った[1](江戸政権)。秀忠が政治を実際に取り仕切るようになったのは1616年の家康の死後からである。
- 家康・秀忠 二元政治の幕閣[2]
2代将軍・秀忠も1623年に将軍職を息子徳川家光に譲って隠居している。そして1632年に病死するまで、政治の実権を握り続けた。西丸派(大御所)は秀忠側近を中心としているのに対し、本丸派(将軍)は新旧の譜代層から構成されていた。
- 秀忠・家光 二元政治の幕閣[3]
8代将軍・徳川吉宗は1745年に将軍職を息子徳川家重に譲って隠居しているが、家重は言語障害があったため、1751年に死去するまで、吉宗は実権を握り続けた。
9代将軍・徳川家重は、1760年に将軍職を息子徳川家治に譲って隠居しているが、言語を唯一理解できた御側御用人大岡忠光の逝去を受けての将軍職引退であり、また、翌年に病死したため、大御所として政治的実権を握ってはいない。
11代将軍・徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとして、老中松平定信に先例が無いとして反対され、断念した(大御所事件)。 また自らも1837年に将軍職を息子徳川家慶に譲った後も、1841年に死去するまで大御所として政治の実権を握り続けていた。なお、家斉の治世は50年以上にも及んだため、将軍在任中も含めて「大御所時代」と呼ばれることが多い。
この他、15代将軍・徳川慶喜も生存中に将軍職を辞して、宗家の家督も徳川家達に譲り、過去の大御所と似た存在となった。しかし徳川幕府が政権を返上した後の事であり、徳川家の家政も執らず別家を立てて当主となっているので、同列にはできない。