大宰帥
大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府の長官。唐名は都督、和名は「おほみこともちのかみ」。律令制において西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。
概要
その前身については、『魏志倭人伝』に見える一大率、那津官家の管理者、九州王朝関連説、唐の筑紫都督府などの諸説が混在するが、通説によると、大化5年(649年)の筑紫率(つくしのそち)を嚆矢とし、『日本書紀』『続日本紀』に散見する筑紫大宰や筑紫総領なども大宰帥の前身に相当する長官職と推定される。
令制施行後、「大宰帥」の職名が成立し、親王は三品もしくは四品、臣下であれば従三位(場合によっては正三位)の者が任じられた。初期には大伴旅人のごとく九州に赴任して大納言以上への昇進の足がかりとなる場合も多かったが、やがて参議・中納言などと兼官して赴任せず(遥任)に季禄・職分田などの特権のみを享受する者も現れ、臣下の大宰帥は弘仁年間の多治比今麻呂が最後となる。大同元年(806年)の伊予親王(桓武天皇皇子)を初例として、以後は親王帥に取って代わり、弘仁14年(823年)の大宰府管内での公営田設置を機に、親王任国と同様、親王(当時は葛原親王)を補任するのが慣例となった。こうした親王帥を「帥宮(そちのみや)」と呼ぶ。その目的は皇室財政の緊縮にあったため、当然親王帥は在京のままで府務を行わず、実際の長官には、臣下から次官の大宰権帥・大弐(任官者が納言クラスなら権帥、参議や散三位クラスなら大弐)を派遣するものとされた。『北山抄』には「如帥・太守等者、為親王所置之官也」と見え、親王帥が固定化しつつあったことが分かる。
ただし、この規定は親王任国の場合と違ってあくまで慣習法に過ぎず、令や格式にて定められたものではなかったから、事情の如何によっては臣下の大宰帥が補任されることがあり得た。長保3年(1001年)の平惟仲や治承3年(1179年)の藤原隆季はその例だが、前者は左遷(実質配流)による権帥藤原伊周の後任になることを嫌ったため、一方後者は権帥として左遷された関白藤原基房を監視するため(実際には備前国に配流とされたために帥の赴任も中止された)であったといわれる。
寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇以降は、外寇時の責任が親王へ及ぶことが危惧されたため、例外を除いて帥宮も含めた大宰帥の赴任はなくなったとされている。ただし、親王帥の補任だけは中世以降も断続的に行われ、明治2年(1869年)の官制改革まで存置された。なお、最後の親王帥は有栖川宮熾仁親王である。
大宰帥の一覧
大宰帥を務めた人物の一覧。大宝令以前については、大宰帥の前身と考えられる長官職を採録した。
脚注
- ↑ 『続日本紀』養老4年正月27日条
- ↑ 『万葉集』巻5
- ↑ 天平宝字3年(759年)親王宣下を受け船親王。
- ↑ 『菅家文草』巻9
- ↑ 5.0 5.1 『日本紀略』
- ↑ 『本朝皇胤紹運録』によって仮にここに掲げる。
- ↑ 敦慶親王か(田中喜美春の説)。
- ↑ 『観世音寺資財帳』
- ↑ 9.0 9.1 9.2 『貞信公記』
- ↑ 『吏部王記』
- ↑ 『醍醐寺雑事記』
- ↑ 『朝野群載』巻12
- ↑ 13.0 13.1 『九暦』
- ↑ 『九条殿記』
- ↑ 『北山抄』巻3
- ↑ 『本朝文粋』巻8
- ↑ 『栄花物語』
- ↑ 18.0 18.1 『御堂関白記』
- ↑ 『朝野群載』巻20
- ↑ 『大間成文抄』巻10
- ↑ 21.0 21.1 『継塵記』
- ↑ 北朝による補任。
- ↑ 『後愚昧記』
- ↑ 24.0 24.1 南朝による補任。
- ↑ 『南朝五百番歌合』
- ↑ 『新葉和歌集』
参考文献
- 田中篤子 「大宰帥・大宰大弐補任表」(『史論』第26・27集 東京女子大学史学研究室、1973年、NCID AN00119350)
- 黒板伸夫 「大宰帥小考―平惟仲の補任をめぐって」「大宰帥についての覚書」(『摂関時代史論集』 吉川弘文館、1980年、ISBN 9784642020954)
- 宮崎康充編 『国司補任 第1~5』 続群書類従完成会、1989~91年、NCID BN03854234
- 黒板勝美編 『新訂増補国史大系 公卿補任 第1篇』 吉川弘文館、2000年、ISBN 9784642003568
- 川添昭二監修・重松敏彦編 『大宰府古代史年表』 吉川弘文館、2007年、ISBN 9784642014335