大和神社
大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市新泉町星山にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神
祭神は次の3柱。
日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神、『元要記一説』では右殿を稲倉魂神としている。
歴史
『日本書紀』によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢いだと畏れられた。そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年2月、倭迹迹日百襲姫命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年8月7日にも、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君らが同じ夢を見たため、同年11月に大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。 この伝承からアマテラスを天神とし、ヤマトノオホクニタマを地祇とする性格をはっきりさせたことが読み取れる。垂仁紀はもっと詳細に出ている。
当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。長岡崎が長岳寺付近の丘陵を指す可能性もある。
朱鳥6年(692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。
平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。
明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は1945年(昭和20年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名が末社・祖霊社に合祀されている。1969年(昭和44年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に1972年(昭和47年)9月24日、巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没者も合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られている。
境内
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中門
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社務所
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高龗神社(摂社)
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鳥居
主な祭事
- 1月4日 御弓始式 - 小笠原流弓術による「三々九手挟式」で行われる。
- 4月1日 ちゃんちゃん祭り - 祭礼一行は、大和神社を出発して、岸田の市場というところにある腰掛け石で休憩し、山辺・式上の群境をしばらく歩き、中山大塚古墳のすぐ近くにあるお旅所へ向かう。
- 6月30日 茅の輪くぐり
文化財
奈良県指定文化財
天理市指定文化財
現地情報
所在地
交通アクセス
- 鉄道
- バス
関連図書
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、17頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、79-80頁
- 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、212-213頁
関連項目
脚注
- ↑ 平成30年2月2日奈良県公報より奈良県教育委員会告示第20号 (PDF) 。
- ↑ 『天理市文化財・遺跡分布地図 天理市内の指定文化財』 天理市教育委員会、2016年、p. 47。
外部リンク
- 大和神社 - 公式サイト
- 大和坐大国魂神社三座 - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」