墨子
墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前470年~紀元前390年頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人[1]。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟(てき、羽の下に隹)という。
経歴
当初は儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別愛であるとして満足せず、独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至った。
生誕地は魯であると思われる。墨(ぼく)という名前から、墨(すみ)を頻繁に使う工匠、あるいは入れ墨をした囚人であった、などの諸説があるが、詳しいことは全くわかっていない。司馬遷の史記・孟子荀卿列伝における墨子についての記述でも、「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨子は宋の高官であろう)などと憶測の文章になっている。前漢代から早くも謎多き人物であったようである。かなりの学があったと思われ、卑しい身分の出身では無かった可能性が高い。当時は、学問をするにも書物を読むにも相応の家柄でなければ出来なかったからである。
著書
著書『墨子』(53篇現存)は墨子本人やその弟子の思想を記した書物。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によって編まれたとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅(後述)以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。
- 第一構成 「親士」「修身」「所染」「法儀」「七患」「辞過」「三弁」
- 断想集。
- 第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」「非命」「非儒」
- 「十論」。墨子の主要論考。
- 第三構成 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」。論理学の文集
- 「墨弁」。哲学、幾何学、光学等を記した論文集。
- 第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」
- 言行録、説話集。
- 第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」「旗幟」「号令」「雑守」他に散逸して編名が分からないもの10編
- 城(すなわち市街地)を守る為の詳細かつ具体的な技術論集。
主な思想
主な思想は以下のとおりである。兼愛・非攻のような非常に理想主義的な思想を展開する墨子は、当時勢力の拡大に躍起になっていた諸侯の考え方とは相容れず、諸侯からは敬遠されがちであったことが、墨子の多くの編から読み取ることが出来る。
兼愛
兼愛とは「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。
非攻
非攻とは一言で言えば、非戦論である。墨子直著と見られ、「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」と疑問を投げかけている。
墨子、および墨家の全体像
墨子と弟子とのやりとりからは、功利主義的な多くの弟子を諭すのに苦労する墨子の姿が散見される[2]。また、墨子自ら楚に赴いて、宋を攻めようとする楚王を説き伏せようと努力することもあった[3]。このような幾多の墨子の努力の甲斐有って、思想集団として、また、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、墨家は儒学と並び称される程の学派となった[4][5]。
墨子の没後、墨家集団は三墨と呼称される三つの集団に分裂するも、未だ大勢力を誇るが[4]、秦帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。 さらに漢代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない。
その後、墨子の思想は中国でほとんど顧みられる事が無く、清代まで時代が下る。清末の動乱期になって西洋文明を積極的に摂取していく動きが中国に広がる中で、墨子の思想はキリスト教の思想に酷似しているとの見地や、「墨弁」の科学的な内容への評価から再研究を始める学者が徐々に現れ始めた。その代表的な学者に孫詒譲がいる。かれら清末の学者らによって、墨子の思想は2000年以上の雌伏を経て再評価されるようになった。
逸話
- 楚の王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器、雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策する。それを聞きつけた墨子は早速楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子先生がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしましょう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。すかさず墨子は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と再び公輸盤をやりこめた。そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨子に誓った。使命を終えた帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨子は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。墨子の御技は、救われた宋人にもわからない程の素早さであった[3]。この逸話から「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語が生まれた。
- 2004年に当時の小泉純一郎首相が、イラクへの自衛隊派遣に関する国会論争において墨子の「義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非(あら)ず」という言葉を引用して自説を主張した。
脚注
関連項目
参考文献
- 山田琢 『墨子』 新釈漢文大系(50・51)、明治書院、1975年-1987年。
- 渡辺卓・新田大作 『墨子』 全釈漢文大系(18・19)、集英社、1974年-1977年。
- 渡辺卓 『古代中国思想の研究』 創文社、1973年。
- 孫詒譲 『墨子間詁 漢文大系』(注釈原典)、冨山房、1984年。ISBN 4-572-00076-X
- 薮内清 『墨子』(比較的容易に手に入る墨子の全訳、研究本)平凡社東洋文庫、1996年。ISBN 4-582-80599-X
- 浅野裕一 『墨子』 講談社学術文庫、1998年。ISBN 4-06-159319-6
- 金谷治 『墨子』 中公クラシックス、2018年(「世界の名著 諸子百家」中央公論社の新訂版)。解説末永高康