堀内光雄

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堀内 光雄(ほりうち みつお、1930年1月1日 - 2016年5月17日[1])は、日本政治家実業家。元衆議院議員(10期)。富士急行株式会社会長血液型AB。

労働大臣第51代)、通商産業大臣第62代)、自由民主党総務会長(第43代)を歴任。

来歴・人物

山梨県東八代郡御坂町出身。山梨県立甲府第一高等学校慶應義塾大学経済学部卒。富士急行創業者一族の出身で、祖父、父ともに衆議院議員。1962年、富士急行社長に就任。学究肌の経営者として知られ、『生産性の測定と適正分配』(1961年ダイヤモンド社刊)他複数の著書がある。

富士急行(当時の社名は富士山麓電気鉄道)入社後、東京都内の観光バス営業所に勤務。ここでの修行体験が後年同社を観光事業を中心として再建するのに役立ったとされる。また、現在の富士急バスのカラーリング(緑色をベースとした物)も彼が考案したものである。この他、富士急社長時代には富士急ハイランド日本ランドなどの観光事業や各種事業に注力し、父・一雄と東急総帥の五島慶太との関係からともすると東京急行電鉄の傍系とみなされていた同社を自立させ、一代で現在の富士急グループを形成した。

1976年第34回衆議院議員総選挙で初当選(当選同期に愛知和男中村喜四郎鳩山邦夫中島衛西田司池田行彦相澤英之津島雄二鹿野道彦塚原俊平中西啓介与謝野馨渡辺秀央中川秀直甘利正など)。当選後は大平正芳率いる宏池会に入会。宏池会では後の会長鈴木善幸の側近として知られ1989年宇野内閣労働大臣として初入閣したが、1990年第39回衆議院議員総選挙では落選。しかし、1993年第40回衆議院議員総選挙ですぐに返り咲き、1997年第2次橋本改造内閣通商産業大臣に就任。通産相在任中、石油公団について事務方が用意した答弁書の内容に疑問を持ったことから、同公団関連企業112社についての膨大な資料を独力で精査する。その結果、公団の不良債権が1兆3,000億円にも膨れ上がっていたことを暴き出し、退任後の1998年、「文藝春秋」誌1998年11月号に掲載の論文『通産省の恥部 石油公団を告発する』で実態を世に問う。その結果、2002年に「石油公団廃止法」が成立される運びとなり、同公団は2005年3月をもって解散された。

2000年11月加藤の乱加藤派から分離。翌年堀内派を結成し、会長となる。

2001年4月から2004年9月までの約3年半にわたり小泉政権下で総務会長を務め、小泉改革に反対するベテラン議員が多い中で、基本的には一貫して小泉を支援した。2003年の自民党総裁選では野中広務古賀誠らに反小泉派の統一候補として出馬を要請されるが固辞する。しかし、総務会長退任後は一転して反小泉色を鮮明にする。これは、派を挙げて小泉政権に協力したのに、内閣改造などで堀内派が反主流派並の冷遇を受けたからだと言われる。

郵政民営化法案衆議院本会議採決では、採決当日に派閥会長を辞任して反対票を投じた。このため、第44回衆議院議員総選挙では自民党公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の長崎幸太郎候補らを破り10回目の当選を果たすも、当選後の特別国会では、再提出された郵政法案に一転して賛成票を投じた。

2006年8月22日に慶應義塾大学OBの親睦という名目で、民主党代表小沢一郎国民新党代表の綿貫民輔(但し、2人とも元自民党)とゴルフをするなど、非自民色を強めていると見られた。しかし、10月に入ってからは復党の流れが強まった。

11月27日には、自民党に「復党願」と「誓約書」を提出。翌28日には記者会見を行い、「迎えてくれるのならありがたい」「私は法案には反対したが、民営化自体には賛成」と語り、復党の理由などを国民へ説明した。

2006年12月4日、造反議員11人の復党が党紀委員会にて全会一致で認められ、自民党に復帰。12月15日古賀派(旧堀内派)に名誉顧問として再入会。翌年9月26日、同派名誉会長に就任。

2008年6月16日に自民党本部は堀内を公認することを内定した[2]。対立する長崎幸太郎には、比例一位の待遇が用意されたものの、長崎は無所属で出馬する旨を表明、麻生首相衆議院解散総選挙の日程を予告した2009年7月13日に、自民党に離党届を提出し、17日に了承された[3]7月18日には、長崎を支持する地元町議ほか党員3648人が集団離党したと報じられたが[4]、水増しであり、自民党山梨県連は、実際の党員は415人で、その中でも故人の場合や本人の承諾がない場合もあることを明らかにしている[5]。その後8月11日、長崎が保守系・反小泉・反郵政無所属の政治家により構成される平沼グループに参加し、グループ代表の平沼赳夫が求めていた郵政民営化を見直す方針の受け入れを表明したため、小泉チルドレンの刺客として反小泉・反郵政の堀内に敵対した前回選挙と図式が逆転している。[6]

2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙では山梨県建設業協会の支援を受けて選挙活動をしていたが[7]民主党新人の坂口岳洋に敗れ引退。2012年の第46回衆議院議員総選挙では長男の妻堀内詔子が後継候補として出馬、小選挙区では長崎に敗れたが比例復活で初当選した。

2016年5月17日、間質性肺炎のために死去[1][8]。86歳没。 政府は没後、正三位に叙することを閣議決定した[9][10]

政策

エピソード

所属していた団体・議員連盟

家族・親族

系譜

  • 清和源氏(甲斐源氏逸見氏堀内家の嫡流である。
  • 先祖は武田信玄の元、若狭守(堀内政俊)、佐渡守(堀内政豊)を拝任し、川中島での戦功を称され宝刀を授与されたり、堀内政豊は三枚橋城の城将に任ぜられた[12]。尚、宝刀並びに鎧、陣笠などは当家に今も保管されているという[13]
  • 甲斐国志にも堀内家の記録が残されており、江戸時代は上黒駒周辺の名主を務めた、と書かれている。 
  • 日蓮が堀内家の先祖の家に宿泊したことがあり、その縁で身延山久遠寺との関わりが深く、祖父・良平の代から信徒総代を勤めている。
  • 母の実家、田中家は、山梨県勝沼町にあった旧山梨田中銀行(現在は博物館)の頭取家であり、本人もよく遊びに行ったという。

テンプレート:堀内良平関係者系譜図

著書

  • 『設備投資の合理的方法』(1958年ダイヤモンド社
  • 『例解経営分析実務』(1959年中央経済社
  • 『生産性の測定と適正分配』(1961年)ダイヤモンド社
  • 『人間の価値計算』(1964年)ダイヤモンド社
  • 『自民党は殺された』(2006年)ワック社 ISBN 4898310923
  • 『平成安国論』(2011年)文藝春秋
  • 『「靖国」と「千鳥ヶ淵」を考える』(2013年)祥伝社新書

脚注・出典

外部リンク

議会
先代:
山崎拓
日本の旗 衆議院社会労働委員長
1986年 - 1987年
次代:
稲垣実男
公職
先代:
佐藤信二
日本の旗 通商産業大臣
第62代:1997年 - 1998年
次代:
与謝野馨
先代:
丹羽兵助
日本の旗 労働大臣
第52代:1989年
次代:
福島譲二
党職
先代:
村岡兼造
自由民主党総務会長
第43代:2001年 - 2004年
次代:
久間章生
先代:
分裂
宏池会会長
2000年 - 2005年
次代:
古賀誠
丹羽雄哉



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