棋士 (囲碁)

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テンプレート:囲碁 棋士(きし)は、碁打ちともいい、囲碁を打つ人の総称。

プロを指す事が多いが、アマチュアでも棋士と呼ぶ事もある。

一覧

棋士の一覧は以下を参照

呼称

室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れると、彼らは「碁打」と呼ばれるようになる。江戸時代に家元が俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」「碁之者」などの呼び名が使われた。また江戸時代には「碁士」「碁師」などの呼び方も生れ、地方においても賭碁をする者は碁打と呼ばれた。明治になると「碁客」「碁家」「棋客」「棋家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。また日本棋院以前の囲碁専業の者や高手に対しても棋士と呼ぶことが多い。

プロ棋士制度

日本

法律では職業として囲碁を行うのには資格は不要だが、試合を開催する団体が定める認定が必要になる場合がある。以下は日本棋院関西棋院が定める規則についての記述である。

日本棋院関西棋院の2つがプロを認定する組織として存在している。さらに日本棋院は東京本院・中部総本部・関西総本部に分かれている。このいずれかで入段試験を突破した者だけがプロ初段の棋士となり、プロ棋戦への参加資格を得る。プロ入りのためには、普通まずプロの卵である院生となって入段試験手合を勝ち抜くことで資格を得る。また院生にならずとも、外来で予選・試験手合を突破することでもプロ入りは可能である。

プロ入りには年齢制限があるが、関西棋院では研修棋士制度を設けており、プロ棋士相手の試験碁で一定の成績を収めればプロ入りが可能である。

日本棋院の院生で棋士になれなかった者には、研修棋士を経て「普及棋士(準棋士)」の資格が与えられた。また院生以外で入段試験に合格できなかった者には普及専門の「地方棋士」の資格が与えられた。[1]

世界

韓国(韓国棋院)・中国(中国棋院囲棋部)・台湾(台湾棋院)にも独自のプロ組織があり、それぞれの棋戦が行われている。またこれらの棋士が一堂に会して戦う国際棋戦も盛んである。さらに2011年にはアメリカ合衆国・カナダで、2014年にはヨーロッパでもプロ制度がスタートした。

歴史

中世まで

の時代には『奕旨』を著した歴史家の班固などの愛棋家が知られ、建安七子と呼ばれた文人でも孔融や、王粲、『弈勢』を著した応瑒が碁に長じていた。

琴棋書画が盛んであり、代表的な打ち手の孫策呂範の対局が最古の棋譜として残されていて[2]、棋力の高さを示している他、武将の陸遜蔡頴諸葛瑾が知られ、民間人で「呉の八絶」の一人の厳子卿と馬綏明は『広博物志』で棊聖と呼ばれている。

東晋では河南省で天才少年と言われて後に宰相の王導に引き立てられ将軍となった江彪が最強とされ、范注『棋品』で江彪が棊品第一品、王導が五品と記されている。竹林の七賢と言われた中でも阮籍王戎は碁好きだった。この頃に王担之が囲碁の別称として「坐隠」と呼んだことが『世説新語』にあり、僧の支遁が手談と呼んだ。

南北朝時代には、斉 (南朝)の王抗が第一品の打ち手とされていて、武帝に命じられて北魏孝文帝から派遣された打ち手の苑寧児と対局した。

初唐では裵寂、王勃、廬藏用、高智周らが棋士として高名だった。玄宗の時に棋待詔制度が設けられ、王積薪、顧師言、王倚、王叔文、滑能、朴球などが就いた。顧師言は日本の王子と対戦して、鎮神頭の妙手で勝ったとされている。日本の王子の名ははっきりしないが、高岳親王、伴小勝雄の説がある。また玄宗は新羅聖徳王の葬儀への使節に楊李膺という近衛兵きっての打ち手を同行させ、新羅の打ち手に連戦連勝して面目を保った。

宋代では棋待詔に賣充、楊希粲、劉仲甫、李逸民、沈才子などが高名であった。潘慎修『棋説』、楊希粲『双泉図』、李の『忘憂清楽集』、沈括『夢渓谷筆談』、劉の『棋訣』、張擬『棋経十三篇』、厳徳甫と晏天章『玄玄経(玄玄碁経)』などの著作も書かれ、沈括夢渓筆談』では囲碁の変化の数についても記された。べん京などの大都市では道観や寺院などで棋会がしばしば開かれるようになり、高手が競った。

元代には文人の中から、『玄玄碁経』を再編した虞集劉因黄庚などの名手が出た。

高句麗では長寿王の時代に国手である道琳という僧がいて、百済蓋鹵王の側近に送り込まれて国力を削ぐ工作をしたとある。

日本では遣唐使に加わった伴小勝雄が碁師と呼ばれており、小勝雄に習った紀夏井は少しの間に小勝雄を越えるほどになった[3]宇多法皇醍醐天皇に寵遇された法師寛蓮は、『花鳥余情』で碁聖と記されている。『二中歴』では寛蓮の他、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者といった名がある。

九条兼実は碁を好み、その邸で対局した九条良経の小童が囲碁の上手と『明月記』にある。慈円後鳥羽上皇に招かれて対局していた。鎌倉時代には玄尊による『囲碁口伝』『囲碁式』も書かれた。

近世

の初期、相子先が高名を馳せたが、太祖の命で楼得達と対局し、勝った楼得達が棋官の地位を得た。他に趙九成、氾洪などが国手と呼ばれた。嘉靖から万暦の頃に明では最も囲碁が盛んになり、浙江省一帯の永嘉派として鮑一中、李沖、周源、余希聖など、安徽省一帯の新安派として程汝亮、汪曙、方子謙など、北京周辺の京師派には李釜、顔倫などがいて、王世貞『奕旨』では鮑一中、程汝亮、李釜、顔倫が取り上げられている。明末には、江蘇省出身の過百齢が出て、上京して国手の林符卿に勝ち、国手とされるとともに『官子譜』などを著した。他に方子振、汪幼清などが名手として名を上げた。

清朝初期には盛大有、周東候らを打ち負かした黄龍士が最も知られ、その弟子の徐星友も国手となった。続いて范西屏施襄夏、梁魏今、程蘭如が大家となる。清末には囲碁も水準を落とす中で、「晩清の十八国手」と呼ばれる秋航、任惠南、董六泉など、続いて周小松、浙江省の陳子仙、漢陽の徐耀文、李湛源など国手と呼ばれる棋士がいた。

室町時代に日本から明に渡った僧虚中は、林応龍と協力して『適情録』がまとめられた。『満済准后日記』『看聞御記』では召し出された囲碁の上手として、大円、式部、宗勝、一色、北野、吉原、昌阿(性阿)の名がある。その後には阿弥衆の中で、碁の上手として重阿弥が知られていた。続いて仙也、春阿弥、宗心、樹斎などが現れ、その後の本因坊算砂本能寺の僧利玄、神尾宗具、仙也の子の仙角、山の内入道、鹿塩、庄林といった者は公家や寺院の他に豊臣秀次徳川家康などの武家にもしばしば招かれて、江戸時代の家元制度の基礎となった。また北条幻庵に徳斎という者が召し出されており、北条氏直の頃には真野仙楽斎が関東での碁の上手と言われていた[4]。江戸幕府からは家禄を受ける家元として、算砂を始祖とする本因坊家、算砂の弟子の中村道碩を継ぐ井上家安井算哲に始まる安井家、利玄の禄を継いだ林家が定められた。四家は名人碁所を筆頭にして、御城碁などで切磋琢磨し、棋聖と呼ばれた本因坊道策本因坊丈和など多くの高手を生んだ。

また本因坊算砂は朝鮮通信使にいた本国第一人者の李礿史と三子で対局した。本因坊道策琉球使節の親雲上浜比嘉には四子で対局し、浜比嘉に三段を認めた。1710年の琉球使節では、屋良里之子本因坊道知に三子、相原可碩に先番で打った。

近代以降

明治時代になると家元制度は崩壊したが、本因坊家を存続させた本因坊秀和本因坊秀栄の一門や、本因坊秀甫らによる近代的な囲碁組織方円社によって多くの棋士が活躍した。 また女流の喜多文子吉田操子が男性棋士と互角の成績を残し、普及や組織運営にも大きな役割を果たした。

本因坊秀哉高部道平は、中国も訪問して交流を行った。この頃の中華民国では汪雲峰、呉祥麟、潘朗束、顧水如、王子晏、劉棣懐過惕生らがいたが、三子程度の差があった。

大正末期に碁界合同による日本棋院が誕生し、雁金準一棋正社との対抗戦が世間を湧かせた。また顧の弟子の呉清源が見いだされて日本へ渡り、木谷實らと角錐しつつ高段へと昇った。

昭和になると終身名人制を廃して、本因坊戦などの選手権制の棋戦が多く生まれ、日本棋院と、そこから分裂した関西棋院の棋士が鎬を削った。また昭和20年代には呉清源が、十番碁で当時の一流棋士すべてを打ち込んで最強と目された。

主な棋戦優勝者:

各国における棋士

日本のおもな現役棋士

日本七大タイトル保持者

テンプレート:七大タイトル保持者

日本七大タイトル経験者

その他の棋士

三大タイトル挑戦者
七大タイトル挑戦者
主要棋戦優勝者
その他

女性の棋士

参照: 女流棋士 (囲碁)
日本女流五大タイトル保持者

(2018年7月15日現在)

他の物故棋士(昭和以降)

現代の中国


中華人民共和国では副首相陳毅によって囲碁強化が進められ、全国囲棋個人戦などの大会の実施、中国囲棋協会設立によって、日本に追いつくことを目標として棋士を育成した。顧水如の弟子の陳祖徳日中囲碁交流で初めて日本の九段に勝利し、1970年代には聶衛平が最強の地位を得る。また日本と同様の棋戦が多く開催されるようになり、劉小光馬暁春曹大元江鋳久陳臨新銭宇平兪斌張文東らが活躍する。また孔祥明芮廼偉などの女流棋士も男性と互角に戦うようになった。

1990年代以降は、七小龍と呼ばれる常昊周鶴洋邵煒剛王磊羅洗河劉菁丁偉が国内棋戦の他、国際棋戦でも活躍し、2000年代には小虎世代と呼ばれる古力孔傑胡耀宇黄奕中王尭謝赫邱峻劉星らが世界戦で好成績を上げる。

韓国

木谷實門下だった趙南哲第二次世界大戦後に韓国棋院を設立して、現代囲碁の普及を行った。日本で修行した金寅尹奇鉉河燦錫らが活躍し、1970年代から曺薫鉉徐奉洙、続いて劉昌赫李昌鎬を加えた四強時代となり、1990年代には国際棋戦で多数の優勝を飾るようになる。薫鉉、昌鎬の活躍で囲碁ブームが起こり、2000年代は李世乭朴永訓崔哲瀚睦鎮碩趙漢乗元晟溱姜東潤朴廷桓朴鋕恩らが国内戦、世界戦で活躍する。

台湾

台湾からは呉清源に見いだされた林海峰が日本で名人になるなど活躍し、続いて王立誠王銘琬張栩なども日本でタイトルを獲得した。また実業家応昌期の後押しで中国囲棋会などの囲碁組織が作られ、周咸亨陳永安陳長清がプロ棋士として活躍する。続いて彭景華林聖賢などが成長し、1990年代には中国で修行した周俊勲が第一人者となり、林至涵陳詩淵王元均がこれに続いている。

その他

1978年にはオーストリア人のマンフレッド・ヴィンマーが関西棋院で、わずかに遅れてアメリカ人ジェームズ・カーウィンが日本棋院で、それぞれ欧米人として初のプロ初段となった。その後は日本棋院のマイケル・レドモンドハンス・ピーチ、韓国棋院のアレキサンダー・ディナーシュタインスベトラーナ・シックシナなどがアジアのプロ組織で棋士となっている。アメリカではアメリカ在住の棋士による組織でトーナメントが行われており、レドモンドや、中国出身の江鋳久豊雲、韓国出身の車敏洙などが出場している。2012年アメリカ囲碁協会は、韓国棋院と提携してプロ制度を発足させた。さらに2014年には、欧州囲碁連盟が独自にプロ制度を開始している。欧米の他にアルゼンチンフェルナンド・アギラールなども国際棋戦でしばしば上位に進出し、またオーストラリア出身の黒嘉嘉も台湾とオセアニアで活躍している。

棋士の呼び名

日本

中国


脚注

注釈
出典
  1. 木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1978年(第5章 専門棋士)
  2. 「忘憂清楽集」
  3. 『日本三大実録』
  4. 林元美『爛柯堂棋話』

参考文献

  • 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
  • 増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
  • 小堀啓爾「江戸・明治著名棋士名鑑」「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)
  • 中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年

関連項目

外部リンク