和人地

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和人地(わじんち)は、近世北海道における地域区分のひとつ。松前地(まつまえち)ともいう。主に蝦夷と呼ばれるアイヌが居住する蝦夷地に対して、もっぱら和人が居住する渡島半島南部の一帯を指した。

概要

渡島半島にはアイヌ文化成立の前段階である擦文時代には、擦文文化と本州土師器文化の間に生じたクレオール的文化である青苗文化が成立していた。この文化を足がかりに、ここに和人の移住定着が起こり、鎌倉時代室町時代の間には本州の安東氏の影響下に置かれた(道南十二館渡党参照)。在地領主蛎崎氏改め松前氏は安東氏の配下であったが、豊臣秀吉に直接仕え、安東氏から独立、徳川家康からアイヌ交易独占権を認められ、大名に列した。これにより松前藩が和人地を直接支配領域とし、あわせて蝦夷地との交易をも管理することになった。

初期の松前藩の収入は、藩主・家臣ともにアイヌとの交易にあったため、松前藩は他の和人とアイヌとの取引を禁止した。その一環として、松前藩は和人地に境界を引き、東西の端に番所を置いて、和人地と蝦夷地の往来を取り締まった。表向き和人が蝦夷地に出ることは禁じられたが、実際は現在の道道根室浜中釧路線の前身である厚岸-仙鳳趾間の道を開削した厚岸在住の士丹羽金助のように、沿岸部に定住する者もいた[1]。一方、アイヌが和人地に出ることは禁止されず、江戸時代の前半には、交易船を仕立てて和人地に出るアイヌも珍しくなかった。

後に、和人地の鰊漁が慢性的不漁に陥ると、蝦夷地に和人が漁労に出るようになった。ただし、永年の居住は表向きなお禁じられており、季節の出稼ぎが主だったようであるが、18世紀の末頃から江戸幕府が蝦夷地を上知天領とすると、次第に拡大し、東は1800年(寛政12年)には野田追(のだおい、現八雲町)、1864年(元治元年)には同長万部(おしゃまんべ、現長万部町)など、後の胆振国山越郡にあたる地域に広がり、西では1807年(文化4年)の後志国寿都郡等や1865年(慶応元年)に後の後志国小樽郡に相当する小樽内(おたるない、現小樽市)に達した。

なお、末期の和人地に相当する地域には、後に北海道11国86郡のうち下記の国郡が置かれた。

脚注

  1. 後の北海道方言が渡島半島や沿岸部で話される浜言葉と、明治以降に多くの和人が移住した内陸の言葉に二分されるのはこのためである。

関連項目