周布公平
提供: miniwiki
周布 公平(すふ こうへい、1851年1月7日(嘉永3年12月6日) - 1921年(大正10年)2月15日)は、明治時代日本の政治家・官僚。長門国萩城下(現在の山口県萩市)出身。長州藩士周布政之助(兼翼)の次男・嫡子。周布兼道の父。男爵、貴族院議員。
略歴
- 1864年(元治元年9月):父・周布政之助の自決により家督を継ぐ[1]。
- 1865年:第二次長州征伐にて兄(政之助の長男)の周布藤吾が戦死。
- 1871年-1876年:兵部省から派遣され、ベルギーに滞在[2]
- 1876年(明治9年):司法少丞[3]
- 1881年(明治14年):太政官法制部少書記官
- 1881年以降:獨逸学協会(獨協中学校・高等学校の前身獨逸学協会学校の母体)会員
- 1882年(明治15年)3月:長男・兼道が生誕。
- 1889年(明治22年)12月26日-1891年(明治24年)6月15日:第1次山縣内閣内閣書記官長(現官房長官)
- 1890年(明治23年)10月1日:貴族院勅選議員となる[4][5]
- 1891年(明治24年)6月15日-1897年(明治30年)4月7日:兵庫県知事
- 1897年(明治30年)12月6日-1898年(明治31年)11月24日:行政裁判所長官
- 1898年(明治31年)12月24日:錦鶏間祗候に任じられる[6]。
- 1900年(明治33年)6月16日-1912年(明治45年)1月12日:神奈川県知事
- 1908年(明治41年)5月8日:男爵となる[7]
- 1910年頃:白耳義会(現日本・ベルギー協会の前身)会長
- 1912年(明治45年)1月9日-1913年(大正2年)7月31日:枢密顧問官
- 1912年(明治45年)1月13日:貴族院議員を辞職[7]
- 1913年(大正2年)8月2日:隠居[8]
栄典
- 1876年(明治9年)6月27日 - 正七位[9]
- 1890年(明治23年)1月16日 - 従四位[10]
- 1895年(明治28年)2月20日 - 正四位[7][11]
- 1905年(明治38年)6月24日 - 勲二等瑞宝章[7][12]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[13]・明治三十七八年従軍記章[14]
- 1908年(明治41年)7月10日 - 正三位[7]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[15]
- 外国勲章佩用允許
著作
- 周布公平監修、妻木忠太著 『周布政之助傳』上・下、東京大学出版会、1977年
- 周布公平 『白耳義国史』(ベルギーこくし)、静養書楼、1877年
脚注
- ↑ 河出孝雄『日本歴史大辞典』第6巻、河出書房新社
- ↑ 周布公平『白耳義国志』静養書楼、1877年
- ↑ 小林孝雄『大森鐘一と山県有朋』出版文化社、1989年
- ↑ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ↑ 工藤武重『帝国議会史綱』(明治篇44ページ、有斐堂書房、1908年)では「9月27日」。
- ↑ 『官報』第4648号、明治31年12月26日。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 帝国議会会議録 - 国立国会図書館
- ↑ 『官報』第307号、大正2年8月7日。
- ↑ 『太政官日誌』明治9年1月-6月
- ↑ 『官報』第1966号「叙任及辞令」1890年1月21日。
- ↑ 『官報』第3491号「叙任及辞令」1895年2月21日。
- ↑ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ↑ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ↑ 16.0 16.1 『官報』第1838号「辞令」1889年8月14日。
- ↑ 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。
- ↑ 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。
- ↑ 19.0 19.1 『官報』第5948号「叙任及辞令」1903年5月4日。
公職 | ||
---|---|---|
先代: 箕作麟祥 |
行政裁判所長官 第3代:1897 - 1898 |
次代: 松岡康毅 |
先代: 小牧昌業 |
内閣書記官長 第3代:1889 - 1891 |
次代: 平山成信 |
日本の爵位 | ||
先代: 叙爵 |
男爵 周布(政之助)家初代 1908年 - 1913年 |
次代: 周布兼道 |
典拠レコード: