台湾の歴史
台湾の歴史 | |
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台湾史年表 | |
先史時代 オランダ統治時代 (1624-1662) 鄭氏政権 (1662-1683) 清朝統治時代 (1683-1895) 台湾民主国 (1895) 日本統治時代 (1895-1945) 中華民国統治時代 (1945-現在) | |
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台湾の歴史(たいわんのれきし)では、台湾地域の歴史区分と主要な歴史的内容の概略を述べる。詳細については各時代ごとの項目を参照のこと。なお、台湾地域の地域範囲については台湾の地域範囲を参照のこと。
Contents
概略
先史及び原住民時代 (1624年以前)
地質学の研究によれば今から300万年から1万年前の更新世氷河期の時代、台湾は中国大陸と地続きであり、大陸から人類が台湾に移住し、居住していたと考えられている。現在台湾で確認されているもっとも古い人類は台南市左鎮区一帯で発見された左鎮人であるが、その生活文化がどのようなものであったのかについては具体的な考古学の成果が上がっていない。
また考古学により旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)には人類の居住が開始されていたことが確認されている。現在確認されている台湾最初の文化は長浜文化(台東県長浜郷の八仙洞遺跡などが代表例)であり、大量の打製石器及び骨角器が発掘されている。長浜文化は中国南部の文化とある程度の類似性を有しているが、現在の考古学の成果からは台湾の旧石器時代の民族系統については確定するに至っていない。
台湾での新石器時代及び金属器時代の文化は旧石器時代の文化との関連性は高くない。この時期は発掘された遺跡により新北市八里区の大坌坑文化及び十三行文化、台北盆地の円山文化及び植物園文化、台東県の卑南文化などが存在しているが、出土品の中に中国大陸からの貨幣なども含まれており、台湾以外との外部交渉が行われていた傍証となっている。現在定説となっているのは新石器時代以降の先史文化は台湾南島語系民族によるものであり、現在の原住民が台湾に定住する以前に、別の族群が台湾に居住していた可能性を示している。
日本人学者移川子之蔵は台湾の先史時代より20以上の先住民族が居住していた可能性を指摘し、また一部は現在の原住民の祖先(十三行文化人のガダガラン族祖先説)であるとも考えられている。しかし考古学の発掘は未だ新石器文化と台湾原住民との間を具体的な継承関係を確定できていない。
台湾原住民はオーストロネシア語族に属し、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかし一度台湾から出て行った種族が、再び台湾に戻ってくるなど、その移動は複雑で未だ不明な点が多い。
中華人民共和国の歴史学者は、古くから中国人に東海(東シナ海)上にある島として台湾の存在は認識されていたと主張する。『三国志·呉志』、『隋書·流求伝』及び『文献通考』などに台湾を記録したとも考えられる記録があり、『隋書·流求伝』では「流求国在海中、当建安郡東、水行五日而至(流求国は海中に在り、建安群の東に当たり、水行こと五日にして至る)」と記載され中国大陸と台湾との間の交渉の論拠としている。さらに『元史·瑠求伝』などもある[1][2][3]。しかし流求国とは古来琉球王国や琉球群島のことを指す。 台湾が何時の時代に中国の版図に編入されたかについては諸説があるが、澎湖諸島と台湾本島を区分して記述すれば、澎湖諸島は元代に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したというのが確実な記録であり、台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地としての位置づけが明代まで続き、。
オランダ占拠時代(1624年 - 1662年)
台湾が注目されるようになったのは16世紀の明朝時代になってからである。倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。また、この時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。そのために、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
なお、ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生したとされている。
また、そのころ日本にも、台湾に対して領土的な興味を持つ勢力が幾つか存在した。豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。 実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)。また1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官 村山等安が、いずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣した。
台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。なお、同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功している。
オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。
明鄭統治時代(1662年 - 1683年)
1644年、李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状況にあった中国に満州族の王朝である清が進出して来た。これに対し、明朝の皇族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661年に滅亡させられた。そのために、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点にすることを目指したが1662年中に病気で死去した。そのために、彼の息子である鄭経たちが父の跡を継いで台湾の「反清復明」の拠点化を進めたが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代 実質21〜23年間[4]で終了した。
歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たすことなく死去し、また台湾と関連していた時期も短かった。だが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。
なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦として人形浄瑠璃化された。
満清支配時代(1683年 - 1895年)
建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した(澎湖海戦)。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼすために台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有することに消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した(台湾道、1684年-1885年)。ただし清朝は、台湾を「化外の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかったために統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清朝の主権が及んでいたと主張している。
清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。この間、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、さらにはマラリア、デング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったため、台湾では内乱が相次いだ。なお、清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。
19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。即ち、1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港されることとなった。1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻が、台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。これに伴い、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省(1885年-1895年)を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば1887年に基隆―台北間に鉄道を敷設するなど近代化政策を各地で採り始めた。だが、1894年に清朝が日清戦争に敗北したため、翌1895年4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。
日本統治時代(1895年 - 1945年)
台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである。1895年5月25日、日本への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との乙未戦争に発展した。日本軍の圧倒的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊、1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。
「農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している。
また初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していた。その後近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。
台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民になるかを選択させた。1895年に台湾が大日本帝国に編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰令」によって処刑された。その数は3000人に達した。抗日運動は、1915年の西来庵事件(タパニ事件)で頂点に達した。
また当時の台湾に多かったアヘン常習者への対策として、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止とした。
当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、八田與一が烏山頭ダムと用水路を建設した。この八田の功績に対して、烏山頭ダムの湖畔には地元住民によって建設された八田の銅像があり、現在でも八田の命日には毎年地元住民による感謝と慰霊が行われている。また、この地方出身である陳水扁総統も感謝の弁を述べている。
太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる。軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた。しかし戦争末期にはアメリカ軍の空襲を受けるなど台湾も爆撃などを受け、目標としていた工業生産を達成することなく終戦を迎えることとなった。
社会面では当初は植民地としての地位にあった台湾であるが、日本国内で大正デモクラシーが勃興する時期に台湾でも地方自治要求が提出され、台湾人としての権利の主張が行われている。これらは台湾議会設置請願運動となって展開された。しかし、これが実った時期は、日本統治時代末期の1935年であった。この1935年に地方選挙制度が施行されるようになり、台湾においても地方選挙が行われ地方議会が開かれることとなった[5]。
1944年9月には台湾でも徴兵制度が施行されているが、併合地籍徴集兵は、戦争終結のため実際の戦闘に投入されることはなかった。陸軍志願兵への倍率は、1942年から始まった応募受付第一回で倍率426倍、第二回で601倍を記録した。徴用は、戦争当初から行われていた。詳しくは、台湾人日本兵参照のこと。
中華民国統治時代(1945年 - 現在)
南京国民政府(1945年 - 1949年)
1945年の第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が1945年10月17日に約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸して来た。その兵士達は鍋釜をさげ、薄汚れた綿入れを着込み、ほとんどが草履履きで素足のものもいて、隊列はだらしなく曲がり、だらだら歩いていた。
南京国民政府は、1945年10月25日の日本軍の降伏式典後に、台湾の「光復」(日本からの解放)を祝う式典を行い、台湾を中華民国の領土に編入すると同時に、台湾を統治する機関・台湾行政公所を設置した。
だが、中華民国軍が台湾に来てから、婦女暴行や強盗事件が頻発した[6]。さらに、行政公所の要職は新来の外省人が独占し、さらには公所と政府軍の腐敗が激しかったことから、それまで台湾にいた本省人(台湾人)が公所と政府軍に反発し、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。
その際に、蒋介石は事件を徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷き、中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した上で、1947年に台湾省政府による台湾統治を開始した。二・二八事件以降、国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている(二・二八事件 もしくは 2・28白色テロ)。こうした台湾人に対する弾圧は蒋経国の時代になっても続けられた。国民党が当時の資料の公開を拒み続けているため、正確な犠牲者数は不明で、犠牲者数には諸説ある。だが、1949年に蒋介石が国共内戦で敗れた兵隊、崩壊状態にあった南京国民政府を引き連れて台湾に移住してきたため、これ以降は事実上蒋介石・国民政府による台湾の直接統治が行なわれることとなった。国民党軍兵士の強奪、官吏の腐敗ぶりには目に余るものがあり、国民党軍の占領後間もないころから、台湾人(内省人)は、新たな支配者に失望し始め、「犬が去って、豚が来た」と嘆くようになった[7]。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いという意味である[7]。この例は、第二次世界大戦が終わった途端に東欧各地で、「ファシズム的君主制が終わったら、共産党による一党独裁が始まった」様相と同じ現象である。
なお、日本国は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)や日華平和条約において台湾の領有権を放棄したものの、両条約ではいずれも台湾の中華民国への返還(割譲)が明記されていない。そのために現在では、台湾は中華民国によって占領されているだけであり、最終的な帰属国家は未定であるとの解釈(台湾地位未定論)も存在する。
台湾国民政府(1949年 - 1996年)
戒厳令を敷き、知識分子・不穏分子を弾圧した蒋介石は開発独裁を行う。大陸から台湾に逃れた数十万の軍人を養うためにも、大規模開発は必須だった。鉄道の北廻線や蘇奥港開発など、十大建設が実施され、台湾経済は軽工業から重工業へ発展していく。
一方大陸を完全に掌握した共産党は、台湾攻略を目標とした金門島攻撃に着手した(台湾海峡危機を参照)。しかし海軍及び空軍兵力に劣る人民解放軍は有力な制海・制空権を掌握できず、要塞に立てこもる国民党軍や、台湾海峡を航行するアメリカ第七艦隊を打破することはできず、共産党も金門侵攻を放棄した。
共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、蒋介石に種々の援助-美援(美国援助=米国援助)を与えた。ベトナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に台湾経済に流入したことで、台湾経済は高度成長期に突入することになる。
植民地統治の影響から、台湾は日本との経済的繋がりが強かったが、このころから台湾経済はアメリカ経済との関係を親密化させていく。多数の台湾人がアメリカに留学、そのままアメリカに在住し台湾とのビジネスを始めるなど、太平洋横断的なネットワークが構築され、中でも台湾人が多く住んだカリフォルニアの影響を受けて電子産業が育ち、Acerなどの国際メーカーが誕生した。
政治的には国民党独裁が続き、台湾の民主化運動は日本、後にアメリカに移住した台湾人を中心に展開されることとなった。しかし1970年代に入ると美麗島事件が発生し、その裁判で被告らを弁護した陳水扁、謝長廷らを中心に台湾内で民主化運動が盛んになる(党外運動)。また1984年には、国民党の内情を記した「蒋経国伝」を上梓した作家・江南こと劉宜良が、滞在先のサンフランシスコで、中華民国国防部軍事情報局の意を受けたチャイニーズ・マフィアに殺害される「江南事件」が発生。レーガン政権が戒厳を解除するよう圧力を掛ける。
蒋親子の死後、国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出された。
社会的には蒋介石とともに大陸から移住して来た外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人との対立、さらに本省人内でも福老人と客家人の対立があったが、国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中華文化の推奨などを通して台湾の中華化を目指した。
国際的にはアメリカの庇護下で、日本、韓国、フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一端を担っていたが、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立すると、台湾は国連から追放され、日本からも断交されるに至った。しかしアメリカは自由陣営保持の観点から台湾関係法を制定し台湾防衛を外交テーゼとしている。
民主化後(1996年 - 現在)
- 参照: 総統民選期の中華民国
李登輝は永年議員の引退など台湾の民主化政策を推進したが高齢のため2000年の総統選には出馬せず、代わって民進党の陳水扁が総統に選出され、台湾史上初の政権交代が実現した。陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党とたびたび衝突し、政局は混迷を続けた。
2004年の総統選では国民・民進両党の支持率は拮抗していたが、僅差で陳水扁が再選を果たした。混迷の原因の一つは中国問題で、中国は陳水扁を敵視し、国民党を支持することで台湾政界を牽制しているが、その過度な干渉となると台湾ナショナリズムを刺激し、反中国勢力が台頭するという中国にとっても難しい問題となっている。
一方の当事者であるアメリカ自身、中国に対する脅威論、友好論が錯綜し一定の方針が定まっていないため、対台政策も一貫せず、台湾は独自性を強めざるを得ないとの見方もある。そのために日本を対中包囲網の一環に組み込もうとする遠謀も、李登輝などの親日政治家には見られるとされる。
一方で台湾は中国との経済的関係を強化しつつあり、今や中国経済を抜きに台湾経済が成り立たない情況となっている。基幹産業であった電子産業も中国への工場進出による産業の空洞化が進み、台湾政府は新竹や台南にサイエンスパークを設置して、バイオテクノロジーなどの先端産業の育成を図っているが、欧米との競争もあって情況は楽観できない。
また経済の知的集約化、サービス化の進展により台北への人口集中が進み地方との格差問題も顕在化している。景気低迷による格差拡大、出生率低下による高齢化、東アジア随一の離婚率の高さなど、社会の成熟による問題も噴出している。
文化的には中国、日本、欧米の影響を強く受けていたが、ナショナリズムの高揚に連動するかのように、台湾独自の文化も勃興している。とりわけ映画界では侯孝賢などのニューシネマが有名である。
脚注
文献情報
- 戴国フェイ『台湾―人間・歴史・心性―』(岩波書店、1988年)
- 伊藤潔『台湾―四百年の歴史と展望―』(中央公論社、1993年)
- 若林正丈『台湾―変容し躊躇するアイデンティティ―』(筑摩書房、2001年)
- 周婉窈(濱島敦俊・石川豪・中西美貴訳)『図説 台湾の歴史』(平凡社、2007年)