原民喜
原 民喜(はら たみき、1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の詩人、小説家。広島で被爆した体験を、詩「原爆小景」や小説「夏の花」等の作品に残した。
Contents
生涯
学生時代
1905年11月15日、広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現中区幟町)に生まれる。陸海軍・官庁用達の縫製業を営む父・原信吉の五男。1917年、11歳で父を亡くし、この頃から無口で内向的な性格となる。同じ年に兄・守夫と原稿綴じの家庭内同人誌『ポギー』を発刊して詩作を始める。これは後に他の兄妹も参加して、詩名を『せれなで』『沈丁花』『霹靂(へきれき)』と変えながら、断続的に約12年間続いた。1918年、死の床にあった姉ツルから聖書の話を聞き、「生まれ変わるような衝撃」を受ける。ツルの死後、形見として『聖書』を譲り受け、最晩年までツルを慕った。
1923年広島高等師範学校付属中学(現:広島大学附属高等学校)4年を修了。大学予科の受験資格が与えられたために1年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。同人雑誌『少年詩人』に参加する。
1924年、慶應義塾大学文学部予科に進学。1925年、辻潤、スティルネルに惹かれ、ダダイスムに傾斜し、1月から4月にかけて、糸川旅夫の筆名で『芸備日日新聞』にダダイスム風の詩を発表する。1926年に同人誌『春鶯囀』を創刊して熊平清一、熊平武二、山本健吉、銭村五郎、長光太らが参加。また原稿綴じ回覧雑誌『四五人会雑誌』を創刊する。在学中は一時左翼運動への関心を高め、日本赤色救援会に所属しオルグにも参加するが、組織の衰弱化・崩壊に伴い、自然に運動から離れる。1932年に慶應義塾大学英文科を卒業。卒論は「Wordsworth論」。相当の身請け金を出し本牧の女性を自由にし同棲をはじめるも、半月も経たないうちに逃げられる。初夏、カルモチン自殺を図るが失敗する。
詩人へ
1933年、郷里の隣家の紹介で、広島県豊田郡本郷町(現・三原市)出身の永井貞恵と見合い結婚。貞恵の弟の善次郎は後の評論家佐々木基一。1935年、小品集『焔』を自費出版。俳句誌『草茎』へ貞恵とともに俳句を発表。俳号は杞憂。1936年から1941年にかけて『三田文学』などに短編小説を多数発表するが、1939年の貞恵の発病により次第に作品発表数は減少した。1942年に船橋市立船橋中学校の嘱託英語講師となる。1944年、貞恵が糖尿病と肺結核のため死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」(1946年)などの作品を生んだ。
1945年1月、郷里の広島に疎開。8月6日に広島市に原爆が投下され、爆心地から1.2キロメートルの生家で被爆。家が堅牢だったこと、狭い便所にいたことから一命はとりとめるが、家はその後の火災で焼失する。二晩の野宿の後、佐伯郡八幡村(現在の広島市佐伯区東部)に避難する。それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調がおもわしくない状態が続く。秋から冬にかけて、原爆投下の惨状をメモした手帳を基に小説「原子爆弾」(後の「夏の花」)を執筆。体験者しか知りえない同作の過酷な原爆描写は、現在でも稀少であるとともに、原が詩人であったことから、今日でも原爆投下の状況を表現した詩として評価が高い。
自殺
1946年4月、長光太の勧めに呼応し上京。慶應義塾商業学校・工業学校の夜間部の嘱託英語講師をしながら、『三田文学』の編集に携わる。1947年6月、「夏の花」を『三田文学』に発表。同年12月、英語講師を辞す。1948年1月、『三田文学』の編集室のあった能楽書林に転居し、雑誌編集と執筆活動に専念。6月、『近代文学』の同人となる。またこの頃、春に慶応義塾大学を卒業し評論家として出発したばかりの遠藤周作と知り合い、深い親交を結ぶ。同年12月、「夏の花」が第一回水上滝太郎賞を受賞。1949年2月、能楽書林より小説集『夏の花』を刊行。この年いっぱいで丸岡とともに『三田文学』の編集を辞し、若手と交替する。
1950年1月、武蔵野市吉祥寺に転居。4月、広島で行われた日本ペンクラブ大会に参加、登壇者の一人として講演を行う。6月、朝鮮戦争勃発。12月、長光太宛て書簡で詩「家なき子のクリスマス」と詩「碑銘」を送る。1951年3月13日午後11時31分、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間の線路に身を横たえ鉄道自殺する。原は大量の酒を飲んでいたらしく、視官は原の轢死体からアルコールの匂いがしたと証言している。しかし、事前に遺品などの整理は周到に行われており、衝動自殺ではないことが窺われる。遺稿に「心願の国」「永遠のみどり」。
作家研究
原民喜は草野心平主催の『歴程』に参加し、多くの詩を創作、また童話も多数残した。
原は対人関係や日常生活において臆する幼児であったと形容されるが、「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」(『鎮魂歌』より)にみられるように、内部において強靭な意志を持った作家だということが垣間見られる。原の作品はは死後50年経ったため、著作権が失効している。その為作品の多くはインターネット等で自由に閲覧する事が出来る。
大江健三郎による原爆小説アンソロジーでは、原の『心願の国』の中の「何とも知れない未来に」という言葉を書題として使われた[1]。
主な作品
詩
- 「原爆小景」(「コレガ人間ナノデス」「燃エガラ」「水ヲ下サイ」「永遠のみどり」などを収める構成詩)
- 「碑銘」
- 「悲歌」
小説
- 「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」(以上3つは『夏の花』三部作と称される)
- 「鎮魂歌」
- 「心願の国」
翻訳
- 『ガリバー旅行記』スウィフト 主婦之友社 1951(少年少女名作家庭文庫)
著書
- 『焔』白水社 1935(自費出版)
- 『小説集 夏の花』能楽書林 1949
- 『原民喜詩集』細川書店 1951(死の4カ月後、残された原稿から友人たちの手によって刊行された)
詩碑と建立の経緯
広島市平和記念公園内原爆ドーム東側に立つ原の詩碑には、彼の作品である「碑銘」(「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻」)が刻まれている。
原の没後、多くの友人・知人のなかから彼を記念する詩碑を出身地であり原爆に被災した地でもある広島市に建立しようという動きが出た。碑の建立は広島の学生同人誌運動の中心であり原に私淑していた梶山季之(当時は広島高師在学中)らの奔走により実現し、表面に原の「碑銘」を刻んだ陶板、裏面に佐藤春夫の追悼文を刻んだ銅板を付し1951年末に広島城址公園に城の石垣を背に建立された。
しかしその後、碑は子供たちの投石遊びの標的にされ損傷、穴だらけになった陶板の碑銘の判読は困難な状態となり、また裏の銅板も何者かに持ち去られたため、1967年現在地に最初の形態そのままで再建された[2]。
なお詩碑とは別に2010年には、被爆翌日に一夜を過ごした広島東照宮に、当時原が書いたメモ「原爆被災時のノート」の一節を刻んだ「原爆65周年追憶碑」が建立されている。
脚注
- ↑ 日本ペンクラブ編、大江健三郎選『何とも知れない未来に』集英社 1983年
- ↑ 広島平和記念資料館・平和記念公園周辺ガイド41 原民喜詩碑
参考文献
- 『夏の花・心願の国』新潮文庫 の年譜。ISBN 410-1163014
- 『原民喜戦後全小説』講談社文芸文庫(全2巻)、1995年。改版(全1巻)2015年
- 『定本 原民喜全集』青土社 全3巻+別巻、1978-79年
- 『原民喜全詩集』岩波文庫、2015年。所収年譜(竹原陽子編)。ISBN 400-311082X
- 評伝
- 遠藤周作 「原民喜」(短編集『影法師』 新潮文庫(ISBN 4101123071))、「全集12」に収録
- 川西政明 『一つの運命 原民喜』 講談社、1980年
- 小沢美智恵 『嘆きよ、僕をつらぬけ』 河出書房新社、1996年(ISBN 4309010385)
- 岩崎文人 『原民喜 人と文学』 勉誠出版、2003年(ISBN 9784585051626)
- 小野恵美子 『花の幻 評伝・原民喜』 土曜美術社出版販売、2013年
- 梯久美子 『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 岩波新書、2018年(ISBN 9784004317272)
関連人物
- 佐々木基一 - 妻・貞恵の実弟として原と深い親交があった。
- 遠藤周作 - 戦後の一時期、原と親交を持った。
- 佐藤春夫 - 慶應義塾大学文学部の先輩で原を文壇に送り出すのに尽力。
- 伊藤整
- 梶山季之 - 広島高等師範学校在学中、原の最初の詩碑の建立の中心となった。
- 丸岡明 - 能楽書林関係者で戦後の一時期、上京して困窮していた原の面倒を見た。
- 熊平源蔵 - 学生時代に親交のあった熊平清一・武二兄弟の父。
関連項目
- 夏の花
- 三田文学
- 能楽書林 - 作品集『夏の花』を刊行した。
- 広島市への原子爆弾投下
- 広島東照宮 - 被爆後に原が家族とともに野宿した場所で、彼の「原爆被災時のノート」の一節を刻んだ碑が境内に建立されている。