樺太

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樺太島
座標 北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積 76,400平方キロメートル km²
最高標高 1,609メートル m
最高峰 ロパチン山
所在海域 オホーツク海日本海
所属国・地域 ロシアの旗 ロシア
日本政府はサンフランシスコ平和条約によって放棄した南樺太を帰属未定地と主張する。
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樺太(からふと)、樺太島(からふととう、ロシア語Сахалин中国語庫頁島)、サハリンサハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400km2は世界第22位で21位の北海道(78,073km2)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。

樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

現在、サハリンプロジェクトが進められている。

概要

1945年(昭和20年)までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語Сахалин」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。[1]

現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している[2][3]。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄した。

第二次世界大戦において、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の地上戦が行われた地でもある(樺太の戦い)。

名称

「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カ・プ・ヤ・モシ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる[4]。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[5]、 北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる [6]

古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに関する同時代史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[7]1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[8]

1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[9]1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島としてを描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる。[10]

「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
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転写:sahaliyan ula angga hada 、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。 ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。

中国語ではの時代の呼び名である「庫頁島」(クーイェダオ)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。

地理

ファイル:Sakhalin (detail).PNG
樺太と周辺の地形
ファイル:Sakhalin2.png
樺太の白地図

樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である(北海道本島の面積は77,981.87km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置しているガオト岬(エリザベート岬)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。

南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。

樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部はネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。

東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。

樺太の気候亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季湿度が高く、が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬はオホーツク海側で乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。日本海側では雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。また、夏と寒暖の差が大きく、特に大陸の影響を受けやすい北樺太は、大洋の影響が大きい南樺太より気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。南西部は対馬海流暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類爬虫類などの分布が異なっている。

樺太は石油天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。

地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

樺太の先住民には、南部のアイヌ、東岸中部以北のウィルタ、北部のニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌを除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)は戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた(樺太アイヌは当初は樺太土人として内地人と区別されていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同じとなった)。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である。

主な山岳

主な湖沼

主な河川

島嶼

南樺太

南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業農業林業製紙パルプなどの工業石炭石油採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市ユジノサハリンスク)。現在は稚内港より船で渡航が可能。船で行く場合3日間以内に限りビザなしで滞在が可能。その他に空路も利用可能。

石炭産業

1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた。[11][12]

亜庭湾

樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた。

林業と製紙業

1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松椴松パルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙富士製紙樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。

森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船腹が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた[13]

新聞

日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である。

ラジオ放送

参照: 豊原放送局

1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。

銭湯

樺太出身の有名人

参照:

交通

稚内桟橋駅から大泊港駅まで、稚泊連絡船で約8時間。

遺骨

熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道進攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている。

皇太子裕仁親王の行啓

1925年(大正14年)、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、樺太を訪問(行啓)。豊原市真岡町大泊町などで構成される樺太庁が出迎えた。

樺太犬

樺太犬は日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。

カラフトマス(樺太鱒)

カラフトマスは、缶詰の原料として利用されている。

マリモ

樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。

フレップ

フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。

競馬

日本の植民地時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。

北樺太(北サハリン)

北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月〜1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方として置かれ、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石)である。オハ油田サハリンプロジェクトサハリン1サハリン2)が代表的な石油産業である。

歴史

氷河期には大陸と陸続きだった。古代以前は続縄文人(南部に進出)や、オホーツク文化人(日本書紀に記される粛慎)などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、東岸中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は「スメレンクル」と呼んだ)などの北方少数民族もいた。

日露競合前

中国、朝鮮の古書(山海経海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説もある。

以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
北蝦夷地(樺太)人員の変遷
西暦(元号) 人口
1804年(文化元年) 2,100
1822年(文政5年) 2,571
1839年(天保10年) 2,606
1854年(安政元年) 2,669
1873年(明治6年)1月1日 2,358
1875年(明治8年)1月1日 2,374

日露の領土競合時代

  • 1853年
    • ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所を築き、国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した。
    • ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本に属するアイヌの居住地(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村婦礼)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、樺太の住民は南部の日本人(アイヌ及び和人)、東岸中部以北のウィルタ、北部のニヴフのみ。間宮海峡対岸の外満州でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった[20][21]
  • 1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)
  • 1854年(嘉永7年)5月18日、クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航し駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。
  • 1854年(安政元年) - 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。
  • 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。
  • 1856年(安政3年) - 幕府、樺太東岸の中知床岬長浜郡外知床村)以北および西岸のノタサン(野田郡野田町)以北を樺太直捌場所とした。
  • 1857年(安政4年)
    • 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
    • 北緯48度の地峡の両端にあたる西岸・クシュンナイ(久春内郡久春内村)と東岸・マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)に少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。これを除くと、当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
  • 1858年 - 幕府は大野藩土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
  • 1859年 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、1859年(安政6年)7月26日、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
  • 1862年 (文久2年)
    • 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ(敷香郡敷香町)に漁場を開設。東岸でフヌプより北に居住するアイヌは60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
    • 勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ(真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。
  • 1865年 - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
  • 1867年 - 樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[22]とされた。以降、ロシアは囚人を送込み軍隊を増派して北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。
  • 1869年頃 - 北蝦夷地を樺太と改称
  • 1870年2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
  • 1871年8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
ファイル:Sakhalin prisoners 19 century.jpg
1880年代の樺太へのロシアの流刑者。

全島のロシア領期

南部の日本領期

ファイル:Border Security of the 50th parallel of north.JPG
北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の国境警察隊員。1913年(大正2年)から1939年(昭和14年)まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷を以下にまとめる。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷
調査年月日 人口 出典
1908年(明治41年)12月31日 26,393 樺太庁統計書
1913年(大正2年)12月31日 44,356 樺太庁統計書
1918年(大正7年)12月31日 79,795 樺太庁統計書
1920年(大正9年)10月1日 105,899 国勢調査
1925年(大正14年)10月1日 203,754 国勢調査
1930年(昭和5年)10月1日 295,196 国勢調査
1935年(昭和10年)10月1日 331,943 国勢調査
1940年(昭和15年)10月1日 414,891 国勢調査
1944年(昭和19年)2月22日 391,825 人口調査
ただし、極寒の樺太では夏と冬では人口が違い、冬には避寒のため内地に戻る者が多く人口が減り、翌夏にはまた増える。例としては明治44年では夏の人口は57000人だが冬には36725人に減っている[25]
ファイル:Russian hamlet in Karafuto-2.JPG
樺太のロシア人集落
1930年(昭和5年)頃

内地時代

ファイル:Toyohara street.jpg
1930年代(内地編入前)の豊原市中心部(真岡通り)の風景。

戦後の樺太

  • 1945年(昭和20年)9月17日 - 南サハリン・クリル列島住民管理局の設置により、樺太庁が事実上廃止される。
  • 1946年(昭和21年)1月 - 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より日本政府に対しSCAPIN-677が通達され、日本の政治的・行政的権限の行使の中止が指令される。
  • 1946年(昭和21年)2月2日 - 1945年9月20日まで遡り南サハリン州が設置され旧日本領の千島列島とともに南樺太が編入される。
  • 1947年(昭和22年)1月2日 - 樺太全島と千島列島からなるサハリン州に編入。
  • 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法が施行される。これをもって日本の国内法的に樺太庁が廃止される。
参照: 南サハリン州

帰属の歴史

ファイル:RussiaSakhalin2007-01.png
ロシアにおける樺太の位置
ファイル:Karafuto SakhalinISLAND.JPG
宗谷岬から樺太を望む。この写真ではぼんやりしているが、天候によってははっきり見えることもある[32]

幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。

領土問題

1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦8月11日より南樺太に侵攻を開始した。8月14日ポツダム宣言受諾後も、8月22日知取町で日ソ停戦協定が成立するまで侵攻を続けた。結果南樺太を占領し、現在の継承したロシアに至るまで実効支配を続けている。

1951年(昭和26年)9月8日サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太の領有権を日本政府は放棄した。

ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約締結国でなく、南樺太の領有権の帰属先は条約上は未定のままとなっている。

冷戦下の1952年(昭和27年)3月20日アメリカ合衆国上院は、同年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約の解釈から南樺太の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のために、南樺太の権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行っている。

しかし、このような議論は一般的なものではなく、日本政府もサンフランシスコ平和条約の立場上、積極的な領土返還要求を行ってはいない。この点が、いわゆる北方領土問題北方地域)とは異なっている。

ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。日本政府は南樺太の帰属は未確定で、最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられると主張している[35]。一方で、ロシアによる実効支配についてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、領有権を放棄した日本政府も異議を唱える立場にはないとしている[35]

また、日本政府は仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて在ユジノサハリンスク総領事館について必要な措置を取ると主張している[35]

ロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているというものである。

領土が未帰属であることから北方領土問題とともに取り上げられることも少なくない。架空戦記の話題にもなった[36]

脚注

  1. 「樺太―カラフト」を知る ニッポン 領土問題の原点 侵奪―回復ー放棄―不法占拠―そして? (別冊正論25)12頁
  2. 阿部照哉畑博行編『世界の憲法集 〔第二版〕』(有信堂、1998年8月発行)の「18 ロシア連邦」(宮地芳範が訳出及び解説を執筆)の「ロシア連邦憲法」第3章(連邦体制)第65条(ロシア連邦の主体)第1項によれば、サハリン州がロシア連邦を構成する主体となっている。
  3. サハリン州憲章(1996年施行)第3条第1項によれば、「サハリン州の領土には、サハリン島とそれに隣接する領土、小クリル列島を含む千島列島の領土、ならびにロシア連邦の国際的条約と連邦法によってその境界が定められる内水と領海が入る。」と規定されている。
  4. 西鶴定嘉説
  5. 中川裕; 北原次郎太; 永山ゆかり; バヤリタ; ブリガ; 児倉徳和; 久保智之; 西田文信 他 『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たちⅡ』 白水社2012年ISBN 9784560086162 
  6. 同上、及び 田村すず子 『アイヌ語沙流方言辞典』 草風館1996年ISBN 9784883230938  、ほか多数
  7. 海保嶺夫 『北方史史料集成』 北海道出版企画センター〈第4巻〉、1998年ISBN 9784832898028 
  8. 國東利行 『廻国僧正光空念師宝永元年松前・蝦夷地納経記』 北海道出版企画センター、2010年ISBN 9784832810099 
  9. 岩崎奈緒子「史料紹介 天理大学付属天理図書館所蔵 加模西葛杜加国風説考」、『北海道・東北史研究』第3号、北海道・東北史研究会、2006年12月NAID 40015350264
  10. 「ニッポン 領土問題の原点!!「樺太-カラフト」を知るの15頁の上段4行目。侵奪―回復―放棄―不法占拠―そして?【発行所:産経新聞社 発売所:日本工業新聞社】
  11. 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
  12. 『樺太の炭坑』(Website "樺太大百科")http://kam-r.sub.jp/ainu/karafutohyakka.html
  13. 上野金太郎編『北洋材十年史』1970年 全国北洋材協同組合連合会 p.34 記録編
  14. エゾの歴史 海保嶺夫 ISBN 978-4061597501 初版96年
  15. 古代の日本 第九巻、東北・北海道、角川書店 ISBN 4-04-522009-7
  16. 『熊石町史』熊石町発行(1987年9月)
  17. 「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」
  18. 「樺太の神社の終戦顛末」 前田 孝和
  19. 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革 稚内市
  20. 「北海道」 ・ 「壌中」 の植民地化とその国際法の論理
  21. 「日露和親条約」がカラフト島を両国の 雑居地と したとする説は正しいか?
  22. 明治初年の樺太 : 日露雑居をめぐる諸問題
  23. 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律 - Wikisource
  24. 中野文庫 - 樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律
  25. 樺太庁施政三十年史 上巻、88-89頁。
  26. 明治41年内務省告示第29号(官報第7425号、p.788
  27. 法律第39号 官報 大正7年(1918年)4月17日
  28. 勅令第124号 官報 大正9年(1920年)5月3日
  29. 保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)竹野 学
  30. Vladimir Datsyshen,"The Russian-Japanese relations in Northern Sakhalin during the Japanese occupation (1920–1925)", Yearbook Japan, Institute of Oriental Studies of the Russian Academy of Sciences, 2014
  31. 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、179頁。
  32. http://www.welcome.wakkanai.hokkaido.jp/topics/2010/03/post-62.html 稚内観光協会 1月16日閲覧。
  33. 日本政府外務省日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)
  34. 『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページ
  35. 35.0 35.1 35.2 北方領土問題に関するQ&A(関連質問) 外務省HP
  36. 『北方領土奪還作戦』

参考文献

  • 角田房子 『悲しみの島サハリン—戦後責任の背景』 新潮社。ISBN 4101308063。
  • ウィーゾコフ 『サハリンの歴史-サハリンとクリル諸島の先史から現代まで』 北海道撮影社。ISBN 4938446596。
  • アントン・チェーホフ 『サハリン島』 原卓也訳、中央公論新社 新版2009年。

関連項目

地理

その他

外部リンク