南国土佐を後にして
南国土佐を後にして(なんごくとさをあとにして)は武政英策が作詞・作曲した歌謡曲及び、それを元にした映画。
概要
原曲は、中国大陸中部に出兵した陸軍朝倉歩兵236連隊(鯨部隊)内で自然発生的に生まれ、歌われていた曲とされる(同部隊には高知県出身者が多かった)[1]。後半部に土佐民謡「よさこい節」を歌いこんでいる[1]。
戦後、復員兵らによって高知県にもたらされ、古里ソングとして定着した[1]。そして、後述のペギー葉山盤の大ヒットで全国的に知られるようになった[1]
武政は原曲を採譜、整理、改編しており、原曲の歌詞にあった「中支」「露営」といった、戦時下を連想させる言葉を、集団就職の若者をイメージさせる言葉に置き換えた。[2]
丘京子盤
丘京子が1953年9月に開局したラジオ高知の番組で歌い、反響を呼んだことにより日本マーキュリーからシングル発売された[1]。伴奏は高知サロンアンサンブル。レコードの吹き込みはラジオ高知のスタジオを借り、高知市にあった川村時計店の技術部が当時は貴重品だったテープレコーダーで行った[1]。シングルのレーベルには「民謡 南国土佐を後にして」「武政栄策 補作・編曲」という表記がある。
後に25cm LP盤『南国土佐の想出』の収録曲としても発売されている[1]。
1961年公開の映画『次郎長社長よさこい道中』(進藤英太郎の社長シリーズ第3弾)に丘が芸者役で出演し「南国土佐を後にして」を歌っている[1]。
鈴木三重子盤
1955年に鈴木三重子が吹き込みテイチクレコードからシングル発売したが、このときは話題にはならなかった[1]。
ペギー葉山盤
1958年11月にNHK高知放送局テレビ開始の記念番組として「歌の広場」にペギー葉山が登場し歌い、テレビ時代の幕開けとともに日本全国に知れ渡った[1]。1959年5月にペギーの歌でキングレコードからシングル発売されると、発売からほぼ1年で約100万枚を売る大ヒット[3]となり、累計では200万枚を売り上げた[4]。8月2日に日活で同作に封切、この映画に本人役として登場した。また、ペギーは同年の「第10回NHK紅白歌合戦」でも本楽曲を披露した。30年後の1989年の「第40回NHK紅白歌合戦」の第1部(昭和の紅白)にもペギーは本楽曲で出場した。
NHKからオファーを受けた当初は「自分はジャズ歌手だから」と乗り気でなかった。鈴木三重子盤を聞いて曲を覚え生放送の本番に臨んだが、観客のボルテージが最高潮になるのを感じ、驚いたという。のちに鯨部隊で歌い継がれていたことを知るが、それを最初から聞いていたらオファーを快く受けただろうと語っている。[5]
ペギーがレコード発売してから語り継がれる曲となり、ペギー葉山は1974年に2人目となる[6]高知県名誉県人が贈られた。
ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には、高知市のはりまや橋公園に本楽曲の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席した[7]。碑は午前8時半から午後8時半まで1時間おきにペギー本人の歌声が流れ、隣に建てられた鯨の親子が潮を吹く仕組みになっている。
なおこの映画がヒットしたことを受けて製作されたのが、小林旭主演の「ギターを持った渡り鳥」などの「渡り鳥シリーズ」である。
この曲は、山下達郎の中学時代の恩師が大学へ進学する際に、師である武政が彼のことを思って書いた曲である(「ぴあ」での山下達郎へのインタビューより)。
収録曲
- ペギー葉山盤
映画版
1959年8月2日公開
- スタッフ
- キャスト
ほか
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 「関西発レコード120年 第2部・歌謡曲秘話(17)南国土佐を後にして」『神戸新聞』1997年4月27日付、17面。
- ↑ BSジャパン「昭和は輝いていた」平成29年2月10日
- ↑ 読売新聞社文化部 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』 社会思想社、1997年、61頁。ISBN 4390116010。
- ↑ ペギー葉山さん死去…10日肺炎で入院しそのまま、スポーツ報知、2017年4月13日6時0分。
- ↑ BSジャパン「昭和は輝いていた」平成29年2月10日
- ↑ 1人目は司馬遼太郎。
- ↑ ペギー葉山感激 高知で「南国土佐を後にして」歌碑除幕式スポニチ、2012年11月4日
関連項目
- 1959年の音楽
- ご当地ソング
- よさこい節
- 第40師団 部隊歌
- 帰ってきたウルトラマン - 第43話「魔神 月に咆える」の劇中で、ペギー葉山の夫である根上淳が運転する車のカーラジオから本曲が流れる場面がある。
- トラック野郎・故郷特急便 - 劇中で何度も流れる(ラストでも歌われる)