千種忠顕
千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。
生涯
正応3年(1290年)には、東宮権大進として胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていた(『伏見天皇宸記』)。その後は後醍醐天皇の近臣となり、皇太子邦良親王の早期即位を画策する父の六条有忠と敵対した。学問よりも笠懸や犬追物など武芸を好み、淫蕩、博打にかまけていたため父から義絶されている。
元弘2年/正慶元年(1332年)の元弘の乱の後、天皇の隠岐島流罪に処されると、これに随従している。
翌年、天皇とともに隠岐を脱出して伯耆の名和長年を頼り、船上山に挙兵した。頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて足利高氏や赤松則村らとともに六波羅探題攻めに参戦している他、奥州白河の結城宗広、親朝親子をはじめ各地の豪族に綸旨を飛ばすなど、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した。
建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、権勢を振るった。従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など3ヶ国の国司職と北条氏の旧領10ヶ所を拝領したものの、万里小路宣房らとともに出家した。宣房はこのとき高齢であるが、若年の忠顕の出家は新政への批判が集まる中で詰め腹を切らされる形となったものと考えられている[1]。
建武2年(1335年)11月、足利尊氏が新政から離反すると、建武3年(1336年)1月に新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した。
同年6月7日、再び京都へ迫った尊氏の軍と対戦し、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義と戦って戦死した[2][3]。
明治維新後、新田義貞、北畠顕家、楠木正成らが再評価されたことに伴い、大正8年(1919年)11月15日に忠顕は従二位を追贈された。
恩賞後の暮らしぶり
建武の新政の功により、後醍醐天皇から莫大な恩賞を得て、忠顕は家臣らとともに日夜酒宴に明け暮れた。宴に集う者は300人を数え、費やされる酒肴の費用は膨大な額に上った。数十間もある厩で肥馬を50 - 60頭も飼育し、興が乗ると数百騎を従えて上京や北山へ繰り出して、犬追物や鷹狩に没頭した。狩りの際は豹や虎の皮を装着し、金襴刺繍や絞り染めの直垂を着用していたとされる。
忠顕の歌
- 『新葉和歌集』に一首が採られている。
都思ふ夢路や今の寝覚まで いく暁の隔て来ぬらむ— 新葉和歌集、右衛門督忠顕