千波湖
千波湖 | |
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所在地 | 日本 茨城県水戸市 |
位置 | |
面積 | 約0.332 km2 |
周囲長 | 3.0 km |
最大水深 | 約1.2 m |
平均水深 | 約1.0 m |
貯水量 | 約0.000365 km3 |
千波湖(せんばこ)は、茨城県水戸市にある那珂川水系の湖である。
概要
茨城県北ジオパークのジオサイトの一つ。千波湖と桜川は水戸城の南側の外堀の役目を果たしていた。
現在の面積は約332,000m2で、主に昭和期の埋め立ての結果狭くなったものである。埋め立てられた場所は、当初干拓され田として利用されていたが、その後水戸駅南側の市街地を形成した。戦後の食料不足時には全面的に水を抜き水田用地として使用していたこともある[1]。湖の周回は3,000m。並木もありジョギングや散歩のコースとして親しまれている。また、千波湖は、その平均水深が、約1.0m程度であるため、分類上は「沼」になる。なお、千波湖は、法律上、河川(桜川の一部)に位置づけられる。
湖のほとりには、茨城県近代美術館と茨城県立県民文化センターがあり、周辺とあわせて千波公園となっている。千波公園と隣接する偕楽園を合わせた総面積は、都市公園としてニューヨークのセントラルパークに次いで世界第2位の広さ。臨時のイベントスペースがあり、大河ドラマ徳川慶喜などのイベントなどが行われた。水戸の花火大会は、湖のほとりおよび一部湖面で行われ、桜川沿いと湖を囲む形で観客が集まる。
- Lake Senba 1986.jpg
千波湖空撮[2]
- The perspective of the Senba Lake from Senekidai.jpg
偕楽園仙奕台より望む
- View from Art Tower Mito south.jpg
水戸芸術館より望む
歴史
千波湖は、かつて千波沼と呼称されており、江戸時代は上沼と下沼からなっていた[3]。天保年間(1830 - 1943年)の古地図[4]をみると、千波沼は水戸市の旧・下市[注釈 1]近くまであり、桜川は用水路として水戸市城東二丁目付近を北流して那珂川に注いでいた[3]。明治時代までは水戸城の中御殿も実在し、当時の水戸城の周囲にも千波沼の水をめぐらしていたと伝えられている[3]。明治40年に発行された水戸市現勢地図からは、水戸市宮町から水戸駅南と柵町一帯は、千波沼の内堀となっていた[3]。その桜川の北流は、1968年(昭和43年)頃には埋め立てられた[3]。下市近くまであった下沼は、1921年(大正10年)から1918年(昭和7年)にかけて埋め立てられて水田地帯となり[3]、昭和7年の干拓事業完成を機に、千波沼の呼称が千波湖へと変更された[3]。1965年(昭和40年)からは、吉田神社がある台地の崖を崩してさらに埋め立てられ、水戸駅南地区の開発が行われて市道と新市街地が整備された[3]。
景勝地としての千波湖
かつての千波湖は、西に筑波山、湖面越しに水戸城、吉田神社を望み、"新道"(又は"柳堤")と呼ばれる湖中の柳道が景観に風雅な装いを加えた、見所の多い景勝地であった[5]。その美しさは以下のような八景の中で称えられている。
- 水戸八景
- 千波湖八景
千波湖八景はかつての千波湖における8つの佳地である。徳川光圀が定めたと案内されることが多い。八景の一覧は以下のとおり[5]。
- 七面山秋月
- 梅戸夕照
- 下谷帰帆
- 柳堤夜雨
- 藤柄晴嵐
- 封田落雁
- 緑岡暮雪
- 神崎寺晩鐘
また、1996年に市民公募で選ばれた現代の水戸市内の八景である「新水戸八景」の中のひとつ「偕楽園公園と千波湖周辺」として千波湖が含まれており、千波湖の美しさが今も人々に認められていることが示されている[7]。
脚注
注釈
- ↑ 水戸市大字下市(しもいち)は1933年(昭和8年)以前の行政区分による呼称で、現在の水戸市本町を中心とする地区。
出典
参考文献
- 大槻功 『都市の中の湖(五浦歴史叢書 2)-千波湖と水戸の歴史-』 文真堂、2001-10。ISBN 4-8309-4402-1。
- 長久保光明 『陸前浜街道地誌』 暁印書館、1981-10-25、初版。
- “水面に県都の変遷を映す 千波湖(水戸市)周辺の今昔”. 常陽藝文 10. (1984-3).