千代ノ皇王代仁
千代ノ皇 王代仁(ちよのおう みよひと、1991年5月29日 - )は、鹿児島県大島郡与論町出身で九重部屋所属の現役大相撲力士。本名は基 王代仁(もとい - )。身長179cm、体重153kg、血液型はA型。得意手は右四つ、寄り、吊り。好物はアイスクリームとマカロニサラダ[1][2]。島出身だが魚介類が苦手[3]。最高位は東前頭15枚目(2017年1月場所-3月場所)。
人物
与論島出身で、小学校と中学校は地元与論町の学校に通っていた。高校は沖縄県立中部農林高校に通い、相撲部に所属した。2年生になってからは相撲部の1年後輩の男子に勧められ、卒業までの2年間はその男子の実家で下宿生活を送るようになった。下宿先の夫妻からは好物(先述)をしばしば振る舞われていたという。[2]高校卒業後は九重部屋の誘いを受けて入門し、2010年3月場所に初土俵を踏んだ。この時の四股名は本名と同じ基だった。
初土俵場所は前相撲を2連勝で1番出世。その後は序ノ口を1場所、序二段を3場所で順調に通過し、初めて三段目に上がった2011年1月場所から、四股名を千代皇に改めた。その場所こそ負け越したが、その後2場所続けて6勝1敗の好成績を挙げて同年9月場所から幕下の土俵を務めている。
2012年1月場所は土付かずの4連勝と絶好調であったが、5番相撲でそれまで本割では負け知らずの25連勝であった佐久間山に負け、佐久間山に史上1位タイとなる初土俵からの26連勝を記録される(その後佐久間山の連勝記録は単独1位となる27連勝まで伸びた)。一方の千代皇はその後も2連敗を喫してしまい、最終的には4勝3敗であった。しかし、この勝ち越しから好調が始まることとなり、勝ち越しが続いて同年7月場所で幕下15枚目以内の地位に初昇格。11月場所は負け越したが、西幕下5枚目で5勝2敗とした2013年3月場所後には、与論島からは初めてとなる関取への昇進が決定した。[4]新十両として迎えた翌5月場所では7勝8敗の負け越しを喫して1場所で関取の地位を明け渡したが、翌7月場所では5番相撲で不戦勝に恵まれる幸運もあって4勝3敗の勝ち越しを果たし、9月場所は自身最高位タイの東十両14枚目に復帰して十両で初めての勝ち越しを果たした。翌11月場所は番付運に恵まれ5枚半上昇の西十両8枚目に昇進し、自己最高位を更新する。[5]その次の11月場所では同じ十両で13勝して優勝を果たした千代鳳や11勝した兄の千代丸(単独の十両優勝次点)と比肩する10勝の好成績を残し、2014年1月場所は自己最高位を大きく更新した西十両2枚目の地位を与えられた。しかしこの場所は直前の稽古総見で腰を痛めた影響で得意の吊りを自粛せざるを得なかったことから[6]いいように寄り切られる場面が目立ち[7]、10日目に負け越しが確定してしまい5勝10敗の不振に甘んじた。同年9月場所は9勝6敗の勝ち越しを収め、翌11月場所は運良く番付が6枚上昇して西十両2枚目まで最高位を更新したが、この場所は怪我で8日目から途中休場した。その後は番付が十両中位から下位を推移していたが、2016年9月場所は11日目に勝ち越しを決めるなど好調であり、最終的に10勝5敗と自身2度目の十両での2けた白星となった。10月8日の秋巡業さいたま場所では幕下と20番取って11勝に終わり、3連勝するのがやっとなど、巡業では不調であった[8]が、直後の11月場所では自己最高位に並ぶ3回目の西十両2枚目。千秋楽の小柳との取り組みで勝って小柳の優勝の可能性を消滅させた[9]。場所は8勝7敗と勝ち越し、この勝ち越しによって千代皇は新入幕を確実なものにした。これに関して本人は「幕内はうまい人がたくさんいる。悪いところを見直して頑張りたいと思います」と大舞台での活躍を期した。高校時代に千代皇を指導した沖縄県相撲連盟の木崎智久副理事長は「ここまで我慢して戦い続けてきた」と愛弟子をたたえた[10]。2017年1月場所は中日まで2勝6敗と苦戦したが、14日目までは11日目を除いて勝ち続け、千秋楽に負けて7勝8敗と負け越したものの健闘した。勝ち越しは逃したものの場所後の2月18日に都内のホテルで行われた自身と千代翔馬の幕内昇進祝賀会では「部屋の中で(格段)優勝なしで幕内に上がったのは自分だけ。殊勲賞、敢闘賞、技能賞をいち早くつかんでいきます」と、続く3月場所に向けて力強く話した[11]。1月場所は負け越したものの、番付据え置きの東前頭15枚目で3月場所を迎えた。しかしけがにより11日目から途中休場するなど僅か3勝に留まり、十両陥落となった。。5月場所は東十両6枚の地位を与えられ、8勝7敗。7月場所はやや幸運で2枚半上昇の西十両3枚目。6日の横浜場所の朝稽古では11番申し合いを行った[12]迎えた7月場所は4勝11敗と大敗し、翌9月場所は十両の二けた台まで番付を下げた。この場所から四股名を千代皇 王代仁から千代ノ皇 王代仁に改め、8勝7敗と勝ち越し。翌11月場所も8勝で勝ち越した。2018年1月場所は初日から7連勝を果たして優勝争いの先頭を走っていたが、8日目からの十両上位勢との取組で6連敗と一気に調子を崩した。14日目になんとか勝ち越しを決めたものの、結局8勝と1つの勝ち越しに留まった。それでも好調時の強さは光るものがあり、2018年3月場所前の記事では「腰痛さえ癒えればすぐにでも幕内だ」と評された[13]。7月場所は10日目に7勝目を挙げるなど中盤まで勢いがあったが11日目から給金相撲を3連敗するなど失速、残りは全て勝ったがこの場所は9勝6敗。9月場所は場所前に腰痛が発症した影響で振るわず、12日目に負け越しが確定。結局この場所を6勝9敗で終えた[14]。
取り口
基本的に右四つ、寄りを得意としており、取的時代から吊りの技術も評価されており、[15]次第に現役の中でも吊りの名手として名前が挙がるようになった。[16]2013年9月場所中の『どすこいFM』では二子山(元大関・雅山)が「力士の大型化が進む中、吊りを得意とする力士は他にいない。千代皇はその点で魅力的な力士。」と位置づけていた。[17]11月場所2日目には解説を務めていた当時の岩友親方が吊りについて言及し、その技術を生かして体重215kgの徳真鵬を寄り切った相撲は岩友から「相当驚いた」と絶賛された。副次的に突き押しも使用する。新入幕を果たしたころには右四つから強く当たって攻める相撲にも注目が集まった[18]。2017年3月場所前の座談会では雷(元小結・垣添)から「やっぱり、この力士も後手に回ることが多いですね。立ち合いで先手を取って右四つに組み止めて前に出る相撲が増えれば、番付も上がっていくと思います」と話しており、竹縄(元関脇・栃乃洋)も「組んだら強いけど、幕内の力士は当たりも強くて圧力もあるし、なかなか思い通りには取らせてもらえないでしょうからね」と付け加えている[19]。
人物・エピソード
- 13代九重(元横綱・千代の富士)曰く「口で言って覚えない」力士であるそうだが、九重が稽古を分析した内容を弟子達にメールで指導するという手法を扱ったことで相撲の腕が着実に上がっていった。[20]
- 与論島に別荘のある縁で北見けんいちの釣りバカ日誌の「ハマちゃん」の化粧まわしを贈呈されている[21]。
略歴
- 2010年3月場所 - 初土俵
- 2010年5月場所 - 序ノ口昇進
- 2010年7月場所 - 序二段昇進
- 2011年1月場所 - 三段目昇進
- 2011年9月場所 - 幕下昇進
- 2013年5月場所 - 十両昇進
- 2017年1月場所 - 幕内昇進
主な成績
2018年9月場所終了現在
通算成績
- 通算成績:307勝288敗11休(51場所)
- 幕内成績:10勝16敗4休(2場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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2010年 (平成22年) |
x | (前相撲) | 東序ノ口11枚目 5–2 |
東序二段82枚目 5–2 |
西序二段40枚目 5–2 |
東序二段3枚目 5–2 |
2011年 (平成23年) |
西三段目66枚目 3–4 |
八百長問題 により中止 |
東三段目82枚目 6–1 |
東三段目14枚目 6–1 |
西幕下36枚目 5–2 |
東幕下25枚目 3–4 |
2012年 (平成24年) |
東幕下33枚目 4–3 |
東幕下26枚目 5–2 |
西幕下19枚目 4–3 |
西幕下14枚目 4–3 |
西幕下9枚目 4–3 |
東幕下4枚目 3–4 |
2013年 (平成25年) |
西幕下7枚目 4–3 |
西幕下5枚目 5–2 |
東十両14枚目 7–8 |
東幕下3枚目 4–3 |
東十両14枚目 8–7 |
西十両8枚目 10–5 |
2014年 (平成26年) |
西十両2枚目 5–10 |
東十両7枚目 8–7 |
東十両6枚目 7–8 |
西十両7枚目 7–8 |
西十両8枚目 9–6 |
西十両2枚目 3–5–7 |
2015年 (平成27年) |
東十両10枚目 8–7 |
西十両7枚目 6–9 |
西十両10枚目 8–7 |
西十両8枚目 6–9 |
東十両11枚目 7–8 |
西十両12枚目 8–7 |
2016年 (平成28年) |
西十両8枚目 6–9 |
西十両10枚目 8–7 |
西十両7枚目 8–7 |
東十両7枚目 7–8 |
西十両8枚目 10–5 |
西十両2枚目 8–7 |
2017年 (平成29年) |
東前頭15枚目 7–8 |
東前頭15枚目 3–8–4[22] |
東十両6枚目 8–7 |
西十両3枚目 4–11 |
東十両11枚目 8–7 |
西十両9枚目 8–7 |
2018年 (平成30年) |
西十両6枚目 8–7 |
東十両6枚目 6–9 |
東十両9枚目 6–9 |
東十両11枚目 9–6 |
東十両7枚目 6–9 |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 基 王代仁(もとい みよひと)2010年3月場所 - 11月場所
- 千代皇 王代仁(ちよおう - )2011年1月場所 - 2017年7月場所
- 千代ノ皇 王代仁(ちよのおう - )2017年9月場所 -
脚注
- ↑ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p95
- ↑ 2.0 2.1 「皆を元気づける力士に」 千代皇に“両親”エール琉球新報 2013年6月2日
- ↑ 九重部屋の三銃士が初鼎談「強烈なライバル意識が強さの秘密」 SmartFlash 2018.01.13(2018年1月15日閲覧)
- ↑ 新十両・千代皇「満足せず上目指す」 スポーツ報知 2013年3月27日閲覧
- ↑ この場所は十両力士の内勝ち越し者が半数を切り、把瑠都が場所前に引退して栃ノ心が場所を全休した上に、さらに2ケタ白星が5人、皆勤2ケタ黒星が4人という顕著な星の割れ方をしていた。これらが番付運に大きく関係した。
- ↑ 『相撲』2014年2月号64頁
- 「流石に吊りをやったら師匠に怒られる」と本人が誌上でその症状を物語っていた。
- ↑ 負けた10番中9番が寄り切りであった。
- ↑ 『相撲』2016年11月号14ページ
- ↑ 小柳、新十両優勝ならず…千代皇に敗れ、夢と消えた「急に緊張した」 2016年11月28日7時30分 スポーツ報知
- ↑ 千代皇、入幕ほぼ手中 大相撲九州場所で楽日勝ち越し 琉球新報 2016年11月28日 06:30
- ↑ 千代翔馬と千代皇が昇進祝賀会、先代親方を胸に精進 日刊スポーツ 2017年2月18日22時44分
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p5
- ↑ 『相撲』2018年3月号 p.58
- ↑ 『相撲』2018年10月号 p.64
- ↑ 『相撲』2012年8月号92頁
- ↑ 『相撲』2013年11月号59頁
- ↑ それ以前まで吊りの名手として名を馳せていた元大関・把瑠都はこの場所を十両の地位で全休したことを最後に引退となった。
- ↑ 新入幕の千代皇「沖縄を元気付ける」 千代の富士譲りの攻めの相撲 沖縄タイムス+ 2016年12月27日 11:02
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年4月号76ページ
- ↑ 日本テレビ『誰だって波瀾爆笑』2013年9月8日放送分
- ↑ 千代大龍は「キン肉マン」/主な漫画化粧まわしメモ 日刊スポーツ 2017年4月25日9時50分 紙面から
- ↑ 右母趾末節骨骨折のため11日目から休場
関連項目
参考文献
- 「相撲」編集部編『平成二十四年度版 大相撲力士名鑑』 ベースボール・マガジン社、2012年、44頁
外部リンク
大相撲関取一覧 - 平成30年七月場所 | ||||||
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東 | 番付 | 西 | ||||
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横綱 |
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三役 | ||||||
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大関 |
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逸ノ城 | 関脇 | 御嶽海 | ||||
玉鷲 | 小結 | 松鳳山 | ||||
平幕 | ||||||
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幕内前頭 |
| ||||
十両 | ||||||
|
十枚目 |
| ||||
関取経験がある幕下以下の現役力士 | ||||||
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