十島村
十島村(としまむら)は、鹿児島県、東シナ海上の吐噶喇(トカラ)列島各島を行政区域とする村である。村の北限は北緯30度の口之島、南限は北緯29度にある。
現在の十島村は1952年(昭和27年)にアメリカ合衆国から北緯29度以北の行政権が日本国に返還された際に「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」に基づき北緯30度以南(口之島を含む)、北緯29度以北の区域に設置された地方自治法による自治体であり、1908年(明治41年)に島嶼町村制により設置された十島村(じっとうそん、初代)とは異なる。十島村(初代)は1952年(昭和27年)に「大島郡十島村の境界」(鹿児島県告示)により口之島を除く北緯30度以北の区域に変更され、同時に三島村に名称を変更した。
村役場は1956年から鹿児島市にある。これは、国や県に対応する業務が多く、役場が島内にあると交通費などがかさむためである[1]。
中心となる島は中之島で、その他には口之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・小宝島・宝島が有人島である。
地理
十島村は最北の口之島から最南の横当島までの距離は直線で約160kmで、“日本一長い村”としても知られる[2]。各島には平家の落人伝説が語り継がれている。豊かな自然と独自の文化、天然の温泉は人々を魅了し年間を通してダイバーや釣り人、観光客が絶えない。
- 口之島 13.3km2(125人)
- 十島村で最も北に位置し、十島村の玄関口である。人口は中之島に次いで多い。日本最古の野生化牛(純血種・口之島牛)が野山に群れをなしており、島民と共存している。なお純血種は口之島を含めて全国で2箇所しか生息しておらず、かつ野生は口之島のみである。島民にとって牛は友であり、かけがえのない財産である。
- 周囲20km、燃岳(もえだけ)を中心とした火山島であり、最高点は前岳の628m。島の北部を日本国内の陸地では唯一北緯30度線が通過しており、それを示すモニュメントもある。
- 中之島 34.5km2(155人)
- 十島村で最も人口が多く、かつては村役場の所在地であった。村役場の移転後も唯一村役場支所や駐在所、民俗資料館や天文台が置かれ実質村の中心地である。
- 周囲32km、最高点は御岳(トカラ富士)の979m。
- 諏訪之瀬島 27.8km2(63人)
- 日本でも指折りの活火山を有する火山島である。現在も活動中で、最高峰の御岳山頂付近では噴煙が見られる事がある。
- 周囲27km、最高点は御岳の799m。
- 悪石島 7.5km2(77人)
- 学童疎開船対馬丸の撃沈地点に最も近い島。島内には慰霊碑が設けられている。
- 周囲13km、最高点は御岳の584m。
- 平島 2.1km2(78人)
- 平家落人伝説が伝えられており、島名の由来にもなっている。
- 周囲7km、最高点は御岳の243m。
- 小宝島 1km2(49人)
- 周囲5km、最高点は竹の山の103m。
- 宝島 7.1km2(128人)
- 十島村で最も南に位置する有人島。イギリスの海賊キャプテン・キッドが財宝を隠したという伝説が伝えられており、島名の由来との説もある(他にもトカラが訛った、平家が金・銀・銅を求めてやってきた(実際銅山があった)など種々の説がある)。このため、幕末期から明治にかけて欧米のトレジャーハンターによる略奪が頻繁に起こったほどである。
- 周囲14km、最高点はイマキラ岳の292m。
- 臥蛇島 4.1km2(0人)
- かつては有人島であったが、1970年7月28日に最後の4世帯15人が島外へ移住したことで、無人島となった。島の周囲が好漁場であること、またダイビングスポットになっていること等から、島の周囲に寄りつく船は多いが、船着き場から集落跡までの経路が相当危険な状態にまで荒廃しているため、島への上陸は公には認められていない。
- 周囲9km、最高点は御岳の497m。
- 小臥蛇島 0.5km2(0人)
- 小島 0.36km2(0人)
- 上之根島 0.54km2(0人)
- 横当島 2.76km2(0人)
- 十島村で最も南に位置する。2つの火山島が狭い洲で接続して、1つの島になっている。島の周囲が好漁場であるため、島の周囲に寄りつく船は多い。島への上陸は可能だが港や船着き場が無いため、艀やボートで上陸する事になる。
- 周囲10km、最高点は東峰の495m。
なお、7つの有人島と臥蛇島の合計8つは、大字として用いられている。
隣接する自治体
気候
鹿児島県奄美地方として、南日本気候である。暖流である黒潮の本流から少し離れているため、冬場はまれに氷点下になることがある。
日照時間が短く、日本で最も日照時間が短い地域の一つである。
歴史
前史
元々十島村は、名前のとおり10島の有人島から成る村であった。現在の十島村(としまむら)である口之島・中之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・宝島+小宝島(小宝島は宝島の一部とされていた)・臥蛇島(現在は無人島)の下7島と現在の三島村である竹島・硫黄島・黒島の上3島が1908年4月1日、島嶼町村制制度施行に伴って十島村(じっとうそん)として発足した。この頃は村役場は中之島に置かれており、所属する郡は大島郡(1897年に川辺郡から大島郡へ変更)であった。
しかし太平洋戦争の敗戦により、連合国最高司令官によって出された覚書「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN677)によって、1946年2月2日以降、島内に北緯30度線が通る口之島を含む北緯30度以南がアメリカの占領下に置かれた為、現在の十島村地域と三島村地域は分断されることになる。役場を失った上3島は、仮の十島村役場を鹿児島市に設置した。
下七島のみとなったアメリカ合衆国統治下の十島村は大日本帝国政府及び鹿児島県の行政権を継承した大島支庁、同年10月からは臨時北部南西諸島政庁、1950年8月からは奄美群島政府を通じてアメリカ合衆国の統治を受けた。
本土復帰と村の設置
1951年(昭和26年)12月5日に連合国最高司令官によって出された覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」(SCAPIN677/1)により、北緯29度以北のトカラ列島の区域について日本の政治上、行政上の権利を回復し、1952年2月4日に下7島が日本へ復帰したものの既に上3島の行政機構は完成されており、それに元々別の市郡がある種子島・屋久島を跨いでの行政運営には無理があった。
十島村の本土復帰にあたって日本国政府が公布したポツダム命令である「昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令」(昭和26年政令第380号、のちに「鹿児島県大島郡十島村の区域に適用されるべき法令の暫定措置に関する政令」へ改題)が1951年12月21日に即日施行された。
同政令の第1項の規定により、当分の間政令で特別の定めをするものを除き、従前十島村の区域に適用されていた法令のみを適用するものと定められ、これらの法令の実施上、従前琉球諸島民政府又はその下位機関に属していた権限については、政令で定めるもの及び国会、裁判所の権限にあるものを除き、鹿児島県知事が行うものと定められた。
また、同政令の規定により暫定措置として公職選挙法、学校教育法等の法令が同政令を根拠として公布される政令の規定により、段階的に適用されることとなった。
また、十島村の区域に適用されていなかった地方自治法については「鹿兒島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令」が2月10日に施行されたことにより、同政令第1項の規定に基づき、地方自治法が適用され、下7島の区域をもって十島村(としまむら)が設置された。これにより自動的に上三島と下七島が分村された結果となった[3]。十島村の設置根拠となる同政令第1項の条文が以下のとおりである。
鹿兒島県大島郡十島村の区域で北緯二十九度から北緯三十度までの間にあるもの(口之島を含む。)に地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)及びこれに基く命令を適用する。この場合において、この政令施行の際現にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿兒島県大島郡十島村となるものとする。
同時に十島村(初代、地方自治法による自治体)は「鹿児島県告示第74号(大島郡十島村の境界)」により、それまでの下7島を含む村域から口之島を除く北緯30度以北に境界が変更され、同日施行の「鹿児島県告示第75号(大島郡十島村を三島村に変更する条例の許可)」によって村名を十島村から三島村に改称した[4]。
1952年(昭和27年)4月1日には、「昭和二十六年十二月五日附連合国最高司令官覚書「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件」に伴う鹿兒島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令」によって当分の間政令で特別の定めをするものを除き、従前の法令を適用すると定められていたが、鹿児島県大島郡十島村の区域に関する法令の適用に関する政令の施行により、一部の法令を除き全ての法令が適用されることとなった。
臥蛇島の無人島化
かつては人口が100人を越え、戦前はカツオ漁などにより他の島に比べ繁栄を誇っていた臥蛇島であったが、急峻な地形で大規模な築港ができないなどの理由から徐々に衰退。米軍統治下に入った戦後の一時期こそ活況を見せたが、それも長くは続かなかった。やがて、島内で完結した自給自足の自然経済から貨幣経済への移行がせまられたこと、本土復帰を経て昭和30~40年代の集団就職等による人口減などの問題、さらに週一回の定期航路さえ大シケのために欠航が続き、しばしば飢饉騒ぎが起きたことなど、島での生活を維持していくことが困難になった。
1970年(昭和45年)7月28日、全島民が鹿児島市等への集団移住を余儀なくされた。なお、この頃の人口は7世帯28人(1970年(昭和45年)1月調査時点)にまで減少しており、最後の日は4世帯16人であった。
村役場の本土移転、鹿児島郡への移管
十島村役場は行政運営の効率向上や全島の平等性等を理由に、1956年4月1日に中之島から鹿児島市へ正式に移転された。だが三島村と同様、役場職員の多くが村内に住所を持たないため村長選や村議会選の選挙権が無く、また税が村に入らないなどの問題がありかつ近年貨客フェリーが能力を向上させたことから再び役場を行政区内(中之島に限らず)に移転させる話が浮上しどの島が良いかアンケート調査も行われたが、その後進展していない。
1973年4月1日、郡の所属が大島郡から鹿児島郡へ変更される[5]。
平成の十島村
2006年、十島村役場は、周辺事態において工作船に乗った武装グループがトカラ列島に来襲すると想定し、中之島において国民保護法に基づく島外への避難訓練を実施した。
2009年7月22日の日食を観測できた場所であり、最も長く観測できるのは悪石島だった[6]ため、観光客が殺到した。十島村は、旅行会社に委託したツアー客以外の入島を制限していたが、ツアー以外の上陸者も後を絶たなかった[7]。だが、皆既日食当日の天候は暴風雨と大荒れになり日食の観測は出来なかったという[8]。
沿革
- 1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制により口之島・中之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・宝島(小宝島)・臥蛇島・竹島・硫黄島・黒島を以って大島郡十島村(じっとうそん)として発足。
- 1946年(昭和21年)
- 1950年(昭和25年) - 臨時北部南西諸島政庁が奄美群島政府となる。
- 1952年(昭和27年)
- 1970年(昭和45年)7月28日 - 集団移住により臥蛇島が無人島になる。
- 1973年(昭和48年)4月1日 - 大島郡から鹿児島郡所属に変更される。
遷移表
明治22年4月1日 | 明治22年 - 明治45年 | 大正1年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和27年 | 昭和27年 - 昭和40年 | 昭和40年 - 現在 | 現在 |
---|---|---|---|---|---|---|
川辺郡十島 (町村制未施行) |
明治30年4月1日 大島郡 明治41年4月1日 (島嶼町村制施行) 大島郡十島村 |
大正9年 (島嶼指定解除) 大島郡十島村 |
(上三島) 大島郡十島村 昭和22年5月3日 (地方自治法施行) 大島郡十島村 |
昭和27年2月10日 (境界変更・改称) 大島郡三島村 |
昭和48年4月1日 鹿児島郡三島村 |
鹿児島郡三島村 |
昭和21年2月2日 (アメリカ合衆国統治下) 十島村 |
昭和27年2月4日 (本土復帰・町村制) 大島郡十島村 昭和27年2月10日 (地方自治法適用) 大島郡十島村 |
昭和48年4月1日 鹿児島郡十島村 |
鹿児島郡十島村 |
行政
- 村長:肥後正司
村の行政機関
本庁
- 村長
- 副村長
- 総務課
- 総務室-総務係(出張所)・税務係・広報公聴係
- 政務推進室-財務係・企画消防係
- 地域振興課
- 定住対策室-相談窓口係・住宅整備係・就業支援係
- 産業振興室-産業係・観光係(高速船)
- 土木交通課
- 地域整備室-土木係・水道係・地籍係
- 航路対策室-村営船係(定期船)
- 住民課
- 村民室-村民係・保険係
- 健康福祉室-健康係(診療所)・福祉係・介護係
- 出納室-出納係
- 総務課
- 副村長
- 教育委員会
- 教育長
- 教育総務課
- 教育総務室-総務係・学校教育係(小学校・中学校)・社会教育係(歴史民俗資料館・天文台・中之島開発総合センター)
- 教育総務課
- 教育長
- 議会
- 議会事務局(兼務)
- 選挙管理委員会
- 事務局(兼務)
- 監査委員
- 書記(兼務)
- 農業委員会
- 事務局(兼務)
- 固定資産評価審査委員会
- 事務局(兼務)
支所・出張所
- 中之島出張所:鹿児島郡十島村中之島17番地 ※2008年3月31日までは中之島支所であった。
- 口之島出張所:鹿児島郡十島村口之島19番地
- 平島出張所:鹿児島郡十島村平島293番地
- 諏訪之瀬島出張所:鹿児島郡十島村諏訪之瀬島279番地
- 悪石島出張所:鹿児島郡十島村悪石島108番地
- 小宝島出張所:鹿児島郡十島村小宝島4番地19
- 宝島出張所:鹿児島郡十島村宝島923番地
- 十島開発総合センター:鹿児島郡十島村中之島145番地
消防
- 十島村消防団(事務所管は十島村役場総務課)
- 口之島消防分団
- 中之島消防分団
- 平島消防分団
- 諏訪之瀬島消防分団
- 悪石島消防分団
- 小宝島消防分団
- 宝島消防分団
金融機関
指定金融機関は、グリーン鹿児島農業協同組合(2018年3月1日より、鹿児島みらい農業協同組合)だが、村域に拠点はなく、鹿児島市の村役場に出納派出所を設置しているのみ。
他の金融機関も村域にはなく、郵便局及び簡易郵便局の貯金窓口のみとなっている。
- 郵便」"
県の行政機関
- 対象は全島に及び、全国で最も管轄範囲の広い駐在所である。
地域
人口
十島村(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
医療機関
- 口之島診療所:鹿児島郡十島村口之島146番地
- 中之島診療所:鹿児島郡十島村中之島27番地
- 平島診療所:鹿児島郡十島村平島97番地
- 諏訪之瀬島診療所:鹿児島郡十島村諏訪之瀬島90番地
- 悪石島診療所:鹿児島郡十島村悪石島17番地
- 小宝島診療所:鹿児島郡十島村小宝島4番地
- 宝島診療所:鹿児島郡十島村宝島1番地
教育
- 十島村教育委員会:鹿児島市泉町13番13号
小・中学校
- 村立
以下はすでに廃校となった小中学校である。
高等学校
村内に高等学校は無いため、大半の生徒が学区である鹿児島学区へ進学する。特例として県内は全ての県立高校が受験可能。ただし、山海留学生は除く。
文化施設
- 十島村歴史民俗資料館
- 中之島天文台
宿泊施設
各島に数件ずつ民宿があるが、受け入れられる人数に限りがあるため、あらかじめ予約が必要。
商店
一部の島に商店や販売所があるものの、必要な物資を全て賄える程ではない。その為、生活協同組合やインターネット等を利用した購入が多く行われている。
交通
村外および島同士のアクセス
村営船「フェリーとしま」が週2回、鹿児島港との間を往復している(多客期や村内事業がある場合は水曜日出港が追加され、週3回になる事もある)。鹿児島港を出ると口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島の各有人島に立ち寄り、奄美大島の名瀬港から折り返し運航をする。
2013年(平成25年)6月までは、1便は名瀬港往復、もう1便は宝島往復という運航方法であったが、村民の強い要望などもあり、同年7月1日からは全便が名瀬港往復となった。全便が名瀬港往復になる利点は、奄美市等での買い物や病院受診などの機会がこれまで以上に増える事や、従来より飛行機等との乗り継ぎがし易くなる点にある(奄美空港からの乗り継ぎ)。なお、ドックダイヤ時は三島村営船「みしま」が代船となる。
「主な運航ダイヤ」
- <往路>鹿児島(23:00)→口之島(5:10-5:20)→中之島(6:05-6:15)→平島(7:25-7:35)→諏訪之瀬島(8:20-8:30)→悪石島(9:15-9:25)→小宝島(10:35-10:45)→宝島(11:15-11:25)→名瀬(14:30)
- <復路>名瀬(3:00)→宝島(6:05-6:15)→小宝島(6:45-6:55)→悪石島(8:05-8:15)→諏訪之瀬島(9:00-9:10)→平島(9:55-10:05)→中之島(11:15-11:25)→口之島(12:10-12:20)→鹿児島(18:50)
現在は各島の港湾設備が整備され比較的安易に接岸することができるようになったが、かつては艀(はしけ)を使って人や荷物を受け渡ししていた為、時化の時などは立ち寄れない事が度々あった。なお、臥蛇島が集団移転を余儀なくされた理由の1つに、この艀作業従事者の不足(移住前は僅か3名)による生活困窮もあった。
- フェリーとしま ※航路の詳細や船舶要目についてはフェリーとしまを参照。
- ななしま2(行政連絡船)
航空
1983年頃まで日本内外航空によって鹿児島空港とのあいだに、ブリテン・ノーマン アイランダーによる不定期便が1日1便運航していた[9]が、現在は航空路線はない。
枕崎飛行場が運用されていた当時は東和航空のセスナ機による不定期運航が行われていたが枕崎飛行場の廃港に伴い東和航空も解散したため現在は無い。
但し予約すれば、鹿児島空港から新日本航空の小型機によるチャーター運航も可能である。
各島内
島内にはバスやタクシーなどの公共交通機関が無い為、村民は専ら自前で移動手段を整えている。
- 道路:アスファルトプラントが無い為、コンクリート舗装が主となっている。これは十島村だけでなく、県内の小規模離島のいずれでも共通している。
- 燃料:村内にはガソリンスタンドが無い為、村民は個人で県本土からドラム缶等により購入している。
- 車検:村内には自動車整備工場が無い為、車検の際は村外の整備工場に委託をするか自ら鹿児島市の鹿児島陸運支局に持って行き検査を受けなければならない。その為、かつては車検の場合に限りフェリーの車両航送運賃を通常の半額にする助成措置を行っていたが後に廃止されている。
- 運転免許:更新については、年に1回、各島を巡回する出張更新が行われているが、その日以外に更新を行う場合は鹿児島市の交通安全教育センターに出向く必要がある(優良免許所持者は県内いずれの警察署や幹部派出所でも更新出来る為、この限りではない)。取得については、原付免許に限り年に1回出張試験が行われているが、それ以外の免許については村外で取得しなければならない。
電力・通信など
郵便
郵便番号は村内全域が「891-5xxx」(鹿児島中央郵便局)である。
郵便局については以下の各局があるが、いずれもゆうちょ銀行ATMは設置されていない。なお、口之島、中之島、宝島各局は民営化前は集配局であったが、先立つ2007年3月12日以降は無集配局となり、集配局は鹿児島中央郵便局(鹿児島市)に変更された。
- 口之島郵便局
- 中之島郵便局
- 宝島郵便局
2017年まで、口之島、中之島、宝島以外の島には郵便局が無く、それらの島民は預金の出し入れに不便を強いられてきたが、2017年から2018年の2年間にかけて村の事業で簡易郵便局を整備する事になり、全島に郵便局が設置される見通しとなった。
電話
市外局番は村内全域が「09912」である。上記の市外局番相互間の通話は単位料金区域(中之島MA)であり市内通話扱いとなるほか、各島から鹿児島市および県内離島への通話(099(市内局番が200・800番台及び300番台の一部)、0997及び09913、09969)は、特例により隣接区域扱いとなる。収容局は、中之島局・悪石島局・宝島局である。
携帯電話については、NTTドコモとソフトバンクがサービスを提供している。(2016年3月現在)
インターネット
総務省の地域情報通信基盤整備推進交付金事業を活用し、村が通信事業者となって環境を整備。2010年12月1日から、無線アクセス方式による24時間定額インターネット接続サービスが開始された。一般家庭では概ね1Mbpsから3Mbpsでの通信が可能となっている。サービスの提供プロバイダは、鹿児島市に本社を置くSYNAPSEである。
地上波放送
鹿児島県を放送#放送対象地域とする県域放送のうち、テレビ放送は中之島中継局および名瀬中継局を受信することにより、全島で全チャンネルの視聴が可能であり、受信障害対策中継放送も行われている。また、ラジオ放送はエフエム鹿児島以外の聴取が可能である。
中之島中継局は南種子中継局からの電波を中継しており、村内への放送のほか奄美大島以南の地域へ電波を中継する役割も担っている。中之島中継局と名瀬中継局の距離は約170kmあり、地上波放送の中継距離としては全国的に見て比較的長距離である。
電力
村に初めて発電設備が導入されたのは中之島で、1952年の事である。当初は1日8時間のみの送電であったが、1956年の水力発電開始以降は24時間送電となった。1979年、小宝島が24時間送電となり全島の24時間送電が実現した。なお発電は全島を九州電力が受け持ち、基幹は火力発電(内燃力発電)である。
脚注
- ↑ 羽原清雅「トカラ・十島村の「格差」と地域の政治 - どうなる 七つに分散する離島村の闘い (PDF) 」 帝京社会学第21 号(2008年3月)、p.32
- ↑ かごしまの日本一 - 鹿児島県、2015年4月27日閲覧。
- ↑ 鹿児島県市町村変遷史 p.110
- ↑ 十島村略年表 - 十島村、2014年6月10日閲覧。
- ↑ 郡の区域変更(昭和47年自治省告示第298号、昭和47年11月29日付官報第13780号所収)
- ↑ トカラ皆既日食情報
- ↑ ツアー外、こっそり入島者 日食の十島村「出て行って」 - asahi.com(朝日新聞社)
- ↑ 日食見上げる人また人、天体の神秘に各地で歓声 : 皆既日食2009(自然・環境 : 九州発) - YOMIURI ONLINE(読売新聞)
- ↑ 『国鉄監修 交通公社の時刻表』1982年6月号 545ページ航空時刻表
参考文献
- 鹿児島県総務部参事室編『鹿児島県市町村変遷史』鹿児島県、1967年。