准后

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准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后皇太后皇后三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号[1]。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい、准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。

概要

准后の始まりは、貞観13年(871年)、清和天皇外戚である摂政藤原良房に三宮に準じて年官封戸随身兵仗を賜ったことである。次いで良房の養嗣子藤原基経が、摂政在任中に三宮に准じて随身兵杖、年官・年爵を賜ったことで、朝廷の正式な制度として定着し、以後、江戸時代に至るまで、皇族公家将軍家高僧に与えられた。いつごろまで実体的な経済的優遇を伴っていたかは不明であるが、時代が下るにつれ、次第に身分上の優遇を目的とした称号に変化していった。

摂関に対しては、良房・基経の後も、政治状況に応じて江戸時代に至るまで38名に宣下があった。寛和2年8月25日、一条天皇の外戚であった摂政藤原兼家は、太政官では第3位の右大臣であったが、右大臣を辞任して准三宮の待遇を得て、宮中の序列に置いては散官であっても三公の上位に列する待遇を得た。

また、醍醐天皇皇女康子内親王を始めとして、10世紀後半以降には内親王及び女王に多く准三宮が宣下された。男性皇族では寛弘8年(1011年)に敦康親王に与えられた。これは俗人の親王に対する唯一の准三宮宣下の例である。以降は法親王など僧籍に入った皇族がもっぱらその対象となった。

さらに、藤原道長正室源倫子を初例として、天皇の外祖父に準じる立場の者も三宮に准ぜられた例が開かれた。倫子の例は天皇の外祖母であったためであり、その後も同様の例がある。四条貞子のように天皇の外曾祖母という例さえある。さらに、出身の家柄が低いために、天皇の生母でありながら皇后・皇太后になれなかった天皇の側室にも対象は広げられた。また女院予定者に宣下の予告として前段階として三宮に准ぜられることも行なわれた。僧侶に対しては、鎌倉時代関白九条道家の子である仁和寺法助に与えられて開田准后と称されたのが初例で、室町時代には摂関家足利将軍家の僧侶に多く宣下された。

南北朝時代に入ると、北畠親房に与えられたのを契機として、天皇の外戚以外の臣下にも准后宣下の道が開かれた。室町幕府3代将軍足利義満は、明との勘合貿易を企図した際、明から臣下であるとして拒否されたため、准三宮宣下を受けて日本国准后の外交称号遣明使を派遣し、日本国王封号と朝貢貿易の許しを得ることに成功、巨万の富を得るなど准后の称号を政治的に利用した。これが慣例となり、足利義満以降15代将軍足利義昭に至るまで、一部の足利将軍に准后が宣下された。また、足利義持政権で政治顧問を務めて「黒衣の宰相」と呼ばれた醍醐寺三宝院満済も准后となっているほか、還俗前に天台座主を務めていた6代将軍足利義教(義円)は将軍就任以前に僧侶としての功績によって准后を受けていた。

准后の一覧

准后宣下を受けた人物の一覧。没後の追贈も含む。

摂関准后

皇族准后

ほとんどが内親王准后であり、のち三后女院に転上した者も多い。

後宮准后

天皇と配偶関係を持つ者、または天皇の生母・准母である者が多い。

僧徒准后

皇族または摂関家足利将軍家出身の僧徒に限定される。

その他の准后

天皇と縁戚関係を持つ者、または政治的宣下の色彩の濃い者が多い。

脚注

  1. 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)1194頁参照。

参考文献

  • 石川和外 「近世准三后考―座次規定の変遷を中心に―(歴史手帖)」(『日本歴史』第625号 吉川弘文館、2000年6月、NCID AN00198834
  • 樫山和民 「准三宮について―その沿革を中心として―」(『書陵部紀要』第36号 宮内庁書陵部、1984年、NCID AN00118722
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059
  • 安田歩 「室町期の准后―室町殿と公家・寺家との関係の一断面―」(『立命館史学』第26号 立命館史学会、2005年、NCID AN00250005
  • 手嶋大侑「「三宮」概念の変遷と「准三宮」」(『人間文化研究』23号 名古屋市立大学大学院人間文化研究科 2015年3月

人間文化研究

関連項目