八番相撲
八番相撲(はちばんずもう)は、大相撲の本場所において、幕下以下の力士に例外的に組まれる8番目の割のことである。
概説
1960年7月場所以降、幕下以下の力士は1場所に7番の相撲を取ることが規定され、割の組み方は以下の規則が順守されている。
- 初日・2日目のいずれかに1番相撲
- 3日目・4日目のいずれかに2番相撲
- 5日目・6日目のいずれかに3番相撲
- 7日目・中日のいずれかに4番相撲[1]
- 9日目・10日目のいずれかに5番相撲[1]
- 11日目・12日目のいずれかに6番相撲[1]
- 13日目・14日目・千秋楽のいずれかに7番相撲[2]
ただし休場者が出る等して出場力士が奇数になった場合、序ノ口の最下位付近に在位する力士の対戦日をずらして調整する[3]が、最終的にどうしても全力士均等に7番の割を組めないことがある。その場合、7番取り終えた力士1名を選び、例外的に割を組む。この場合、その力士が8番目の相撲に勝った場合は「勝ち得」と言い、翌場所の番付編成上勝ち星として評価され、負けた場合は「負け得」と言い、黒星として扱われない。以下にこれらの具体な処遇の例を述べる。
- 2001年7月場所では東幕下筆頭の須磨ノ富士が八番相撲に勝って3勝5敗とした際は、翌場所の番付は西幕下筆頭で3勝4敗だった錦風の東幕下6枚目(4枚半降下)に対し、須磨ノ富士は東幕下7枚目(6枚降下)と逆転した。
- 2013年9月場所では東幕下4枚目の祥鳳が八番相撲に敗れて2勝6敗とした際は、翌場所の番付は東幕下5枚目で2勝5敗だった出羽疾風の西幕下14枚目(9枚半降下)に対し、祥鳳は西幕下12枚目(8枚半降下)と、黒星の数が多かった祥鳳の方が、下がり幅が少なかった。
すなわち、番付編成上の評価は「7番取って(n+1)勝の力士」>「八番相撲で勝って(n+1)勝の力士」>「7番取ってn勝の力士」=「八番相撲で負けてn勝の力士」とされる。但し、当場所を休場して13日目以降に再出場した力士に、13日目以降の3日間で2番の割が組まれた場合、その2番目の割は「八番相撲」としては扱われず、公式記録から「1休」が取り消され、番付編成上「7番取って勝数が等しい力士」と同等に評価される(後述)。
幕下以下の1場所7番制が導入された当初は、7番相撲を終えた時点で4勝3敗もしくは3勝4敗の力士に8番相撲が組まれ、最終成績が4勝4敗の「五分」となることも多く見られた。その具体例として、1972年1月場所に東幕下筆頭の渥美洋が4勝3敗から八番相撲を取り、負けて4勝4敗になったものの、負け得により番付編成上4勝3敗と同等の評価を受け、翌場所十両に返り咲いた。一方、翌1972年3月場所に東幕下筆頭に在位した青葉山が、3勝4敗から八番相撲を取り、勝って4勝4敗になった際は、翌場所も同地位に留置された。
平成以降は、7番相撲を終えた時点で5敗以上喫した幕下上位の力士か、序ノ口の力士が選ばれるケースが多く見られる。幕下上位で勝ち越しを決めた力士が選ばれた場合、十両昇進に有利に働くためと見られる。
1953年3月場所から1960年5月場所までは、幕下以下の力士は1場所に8番の相撲を取ることが原則であった。その時代には現在の八番相撲と同様の調整法として、幕下上位または序ノ口下位の力士に「九番相撲」が発生したこともあった。
珍しい例
- 1984年9月場所では、東序ノ口50枚目に在位した佐野(二所ノ関部屋)が、13日目の7番相撲を終えて7連敗。更に14日目に組まれた八番相撲でも敗れて「0勝8敗」となった。幕下以下1場所7番制導入以降、「1場所で0勝8敗」の公式記録を残した唯一のケースである。
- 1998年11月場所では、西幕下筆頭に在位した豊桜が、初日から休場したものの、7日目から途中出場し13日目を終えて「1勝3敗3休」だった。しかし千秋楽に十両の北勝光との割が組まれ、これに勝ったことで当場所の公式上の成績は「2勝3敗2休」とされ、翌場所の番付編成上も「2勝5敗」と評価された[4]。幕下以下1場所7番制導入以降、上述の経緯で幕下上位力士の「1休」が取り消された唯一のケースである[5]。
- 2005年11月場所では、西幕下4枚目に在位した玉光国が、13日目の7番相撲を終えて7連敗。15日目に八番相撲が組まれたが、対戦相手は東十両14枚目で14連敗していた燁司だった。幕下の全敗力士に十両力士との八番相撲が組まれ、しかも相手も当場所全敗という、非常に珍しいケースであった。更に燁司が千秋楽の取組前に引退届を提出して、割返しが行われなかったことから、玉光国が八番相撲の不戦勝で勝ち得という、類稀なる珍しい事態が発生した[6]。
- 2008年9月場所では、千秋楽前日の取組編成中に十両の玉春日が引退の意向を示し、審判部に直接出向き「千秋楽の割から名前を抜いてもらいたい」と願い出たため、東幕下筆頭で4勝3敗と勝ち越しを決めていた若荒雄に千秋楽に八番相撲が組まれるというイレギュラーな事態が発生した[7]。
- 上述の青葉山以降、3勝4敗の幕下力士に八番相撲が組まれたケースは一度もなく、勝ち越しを決めた幕下力士に八番相撲が組まれたケースも1988年9月場所で6勝1敗から八番相撲に負けて6勝2敗となった駒不動と、上述の若荒雄の2例のみである。
- 2011年1月場所では、12日目終了時点で出場者が奇数となったため、14日目に序ノ口の山田(玉ノ井部屋)に八番相撲が組まれたが、14日目に十両の舛ノ山が休場しその日は不戦敗になり、千秋楽の割から舛ノ山が消えたため、千秋楽に幕下の持丸に八番相撲が組まれ、結果的に幕下上位と序ノ口で各1名の力士が八番相撲を取った。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 4番相撲以降は、1番相撲から連勝もしくは連敗した力士同士の割が優先的に組まれる傾向がある。
- ↑ 6戦全勝同士及び6戦全敗(当場所未勝利)同士の割は、原則として13日目に組まれる。
- ↑ 具体例として、2015年11月場所に序ノ口最下位(西24枚目)に在位した服部桜は、5日目にも6日目にも3番相撲の割が組まれず、7日目に(3番相撲を終えた力士と)3番相撲の割が、中日に4番相撲の割が、それぞれ組まれた。
- ↑ 翌1999年1月場所の番付は、西幕下4枚目で2勝5敗だった玉力道の東幕下17枚目(12枚半降下)に対し、豊桜は西幕下11枚目(10枚降下)と、豊桜の方が下がり幅が少なかった。仮に豊桜の6日目までの休場が黒星と同等に扱われた場合、当場所の豊桜は「負け越し4点」として評価され、玉力道より下がり幅が多くなるはずである。
- ↑ 序ノ口では番付外への陥落を回避する力士が13日目から途中出場する傾向があるため、同様に「1休」が取り消されるケースは幕下上位ほど珍しくはない。直近の例としては、2015年11月場所では、東序ノ口24枚目に在位した北薩摩(千賀ノ浦部屋)は、初日から休場して13日目から途中出場したが、13日目・14日目と割が組まれ1勝1敗。公式記録上は「1勝1敗5休」とされ、翌2016年1月場所の番付では前場所に序ノ口に在位して1勝6敗だった力士と同等に扱われた。
- ↑ 燁司は不戦敗により、十両以上で9例目となる15戦全敗の成績で現役最後の場所を締めくくった。
- ↑ 結果は若荒雄が勝ち、番付編成上5勝3敗(勝ち越し2点)として評価され、翌2008年11月場所では西十両7枚目に昇進した。