兒玉秀雄

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児玉秀雄(1935年)

兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年7月19日 - 昭和22年(1947年4月7日)は、日本政治家貴族院議員官僚伯爵

経歴

山口県出身で陸軍大将児玉源太郎の嫡男。 千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。

旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。

同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛日露戦争において遼東守備軍司令部付、満州軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。1906年、父源太郎の死去により子爵、翌年父の功労により伯爵。

その後は朝鮮に渡り、朝鮮総督府総務部会計課長、秘書官、1910年(明治43年)10月、朝鮮総督府総督官房会計局長、兼秘書官、貴族院議員(伯爵議員)、総務局長などを経て、1916年(大正5年)10月からおよそ2年間、内閣書記官長に就任。

その後も、賞勲局総裁、関東長官、1929年(昭和4年)から朝鮮総督府政務総監

その後は貴族院議員として貴族院研究会にて活躍。教育方面では、父・源太郎も校長を務めた成城学校(現在の成城中学校・高等学校)で第10代校長を務める。

1934年(昭和9年)10月、岡田内閣拓務大臣1937年(昭和12年)2月、林内閣逓信大臣1940年(昭和15年)1月~7月、米内内閣内務大臣1942年(昭和17年)、陸軍軍政最高顧問として第16軍今村均司令官)軍政下のジャワに赴任、1944年(昭和19年)、小磯内閣の無任所国務大臣1945年(昭和20年)2月~4月、同内閣で文部大臣就任。戦後、戦争指導政府の閣僚として公職追放中に病没。

栄典・授章・授賞

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族・親族

妻は寺内正毅の娘澤子。義弟に穂積重遠藤田嗣雄嗣治の兄で法制史学者)・木戸幸一らがいる。児玉氏も参照。1人娘貞子の夫児玉忠康広幡忠朝の三男)を婿養子に迎え、2人の間に生まれた映画監督の児玉進は孫に当たる[12]

脚注

注釈

  1. 学術誌、研究書、辞典類における歴史人物としての表記は「児玉秀雄」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉秀雄」、御署名原本における大臣副書の署名は「兒玉秀雄」である。なお父源太郎は大臣副書に「児玉源太郎」と署名していた。

出典

  1. 『官報』第6953号「叙任及辞令」1906年8月31日。
  2. 『官報』第1233号「叙任及辞令」1931年2月10日。
  3. 『官報』第7280号「叙任及辞令」1907年10月3日。
  4. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  5. 『官報』第743号「叙任及辞令」1915年1月26日。
  6. 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  7. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  8. 『官報』第293号「叙任及辞令」1927年12月19日。
  9. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  10. 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
  11. 『官報』第902号「叙任及辞令」1915年8月4日。
  12. 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597。

参考文献

  • 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』 秦郁彦・同研究会編、東京大学出版会、1981年
  • 『CD-ROM 現代日本人名録 物故者編.1901-2000』 日外アソシエーツ 2001年

関連文献

  • 『児玉秀雄関係文書I. 明治・大正期』 尚友倶楽部・同編集委員会編、同成社、2010年5月
  • 『児玉秀雄関係文書II. 昭和期』 同上、2010年9月-各々主に書簡集

外部リンク


公職
先代:
池上四郎
日本の旗 朝鮮総督府政務総監
第7代:1929年 - 1931年
次代:
今井田清徳
日本の爵位
先代:
陞爵
伯爵
兒玉家
初代または第2代
1907年 - 1947年
次代:
(死の翌月に)
華族制度廃止
先代:
兒玉源太郎
子爵
兒玉家第2代
1906年 - 1907年
次代:
陞爵



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