光明皇后

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こうみょうこうごう
[生] 大宝1(701)
[没] 天平宝字4(760).6.7.

聖武天皇の皇后。藤原不比等の第3女。名を安宿媛 (あすかべひめ) ,のち光明子という。霊亀2 (716) 年皇太子時代の聖武天皇の妃となり,のちに孝謙 (称徳) 天皇となった阿倍皇女,基皇子を出生。

天平1 (729) 年天皇即位とともに臣下として初めて皇后位につき,皇后宮職で写経事業を行い,同 12年の日付の写経『五月一日経』が現存する。また,自筆と伝える皇后書写の『楽毅論 (がっきろん) 』が正倉院に伝存する。同2年悲田院施薬院を設立し,東大寺大仏,国分寺の創建にも努力した。天平感宝1 (749) 年天皇退位後は皇后宮職を改称した紫微中台 (しびちゅうだい) をおき,甥の藤原仲麻呂を長官として権勢をふるった。陵墓は奈良市法蓮町の佐保山東陵。