光が丘 (練馬区)
光が丘 | |
---|---|
— 町丁 — | |
座標: 東経139度37分45.02秒北緯35.758806度 東経139.6291722度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 25px 練馬区 |
設置 | 1969年9月1日 |
面積[1] | |
- 計 | 1.671km2 (0.6mi2) |
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[2] | |
- 計 | 27,896人 |
等時帯 | 日本標準時 (UTC+9) |
郵便番号 | 179-0072[3] |
市外局番 | 03[4] |
ナンバープレート | 練馬 |
光が丘(ひかりがおか)は、東京都練馬区にある地名。現行行政地名は光が丘一丁目から光が丘七丁目。郵便番号は、179-0072[3]。
Contents
地理
光が丘は、練馬区北部に位置する新興住宅地と公園の総称である。
多くの団地が建ち並び、中心部には光が丘駅、ショッピングセンターIMAがある。団地内に多くの公園が点在し、光が丘駅北側には都立光が丘公園が位置する。光が丘公園は都内でも有数の面積を持ち、公園中に図書館、体育館、テニスコート、野球場を備えるなど人々の憩いの場となっている。都営地下鉄大江戸線が全線開通してからは新宿・青山・六本木・汐留・大門などの都心部へも電車一本で行けるようになった。
南北方向に長大な区域のため、居住区域によって利用可能な駅は異なる。光が丘駅を中心に、大江戸線の練馬春日町駅、東武東上線の成増駅・下赤塚駅、東京地下鉄有楽町線・副都心線の地下鉄成増駅・地下鉄赤塚駅・平和台駅、西武池袋線の練馬高野台駅が徒歩・バス等で利用可能である。また、国際興業バス練馬営業所が光が丘駅より平和台駅経由池袋駅東口行のバスを運行しており、池袋駅およびその先の副都心エリアへは必ず乗換を伴う事から、それらを嫌う住民が多く利用している。
埼玉県との境界が近く、いずれも光が丘に接してはいないものの付近には主要幹線道路が複数ある。北側に川越街道、西側に笹目通り、南側に目白通り、南東方向に環八通りがある。また、環七通り、関越自動車道練馬IC・東京外環自動車道大泉JCT、新大宮バイパスが比較的近い。
交通の面で現在は鉄道、道路共に比較的便利な街であるが、1990年頃までは都営大江戸線、西武池袋線練馬高野台駅が存在せず、また道路も東京外環自動車道全線と環八通りの一部区間が未開通で、さらに環八通りは井荻トンネルも未完成で西武新宿線との交差で常に大渋滞が起こり、便利とは言い難かった。
世帯数と人口
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
光が丘一丁目 | 1,537世帯 | 2,677人 |
光が丘二丁目 | 2,640世帯 | 5,711人 |
光が丘三丁目 | 3,947世帯 | 9,142人 |
光が丘五丁目 | 1,594世帯 | 3,367人 |
光が丘六丁目 | 469世帯 | 1,073人 |
光が丘七丁目 | 2,541世帯 | 5,926人 |
計 | 12,728世帯 | 27,896人 |
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
丁目 | 街区 | 小学校 | 中学校 |
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光が丘一丁目 | 全域 | 練馬区立光が丘第八小学校 | 練馬区立光が丘第四中学校 |
光が丘二丁目 | 1〜8番 | 練馬区立光が丘秋の陽小学校 | |
その他 | 練馬区立光が丘夏の雲小学校 | 練馬区立光が丘第三中学校 | |
光が丘三丁目 | 1〜2番 3番4〜9号 5〜7番 8番8~12号 9番1号 | ||
その他 | 練馬区立光が丘春の風小学校 | 練馬区立光が丘第二中学校 | |
光が丘五丁目 | 全域 | 練馬区立光が丘四季の香小学校 | 練馬区立光が丘第一中学校 |
光が丘六丁目 | 全域 | ||
光が丘七丁目 | 全域 | 練馬区立光が丘春の風小学校 | 練馬区立光が丘第二中学校 |
歴史
元は武蔵国豊島郡上練馬村田柄、高松および下土支田村(土支田)にまたがる地区で、広大な農地だった。
地区の中央部である、現在の地域医療振興協会練馬光が丘病院付近には、西から東へ田柄川(江戸時代は土支田川と呼ばれる)および田柄用水(現在の光が丘第二アパート付近の分水堰で田柄川と分水)が流れ、流域の東部に水田が、北と南の一部には、練馬大根の畑があった。地区の北西部(ふれあい橋周辺)は、盛岡藩抱地(かかえち)で南部山と呼ばれる畑山があった。曲がりくねった農道と、屋敷森が随所に見られる農村地帯で、成増飛行場建設直前には、約80世帯が居住していた。
成増飛行場建設までは、以下の神社や道路があった。
- 神社
- 稲荷神社 - 現在の光が丘公園駐車場入口付近
- 阿夫利神社 - 現在の夏の雲公園付近
- 道路
- 土支田通り - 旧導者道、現在の土支田通りの延長。現在の光丘高校角交差点から、ゆりの木通りを結ぶ。
- 平林寺道 - 現在の光が丘公園西交差点と光が丘北交差点の中間点から、光が丘第八小学校付近で土支田通りと交差し、たがら公園南を結ぶ。
- 学校道 - 現在の旭町南地区区民館から、夏の雲公園の北付近で長命寺道と交わる。
- 長命寺道 - 現在の光が丘児童館南から、田柄高校角交差点、光が丘美術館前を通り、現在の光が丘消防署前交差点の南から、光が丘第三小学校前交差点付近までを結ぶ。
- 長久保道 - 現在の夏の雲公園南の交差点から、笹目通りまでを結ぶ。
- 豊島園通り - 旧上練馬道。現在の田柄五丁目交差点から、田柄第三小学校の中央を通り、田柄高校角交差点を結ぶ。当地以外は、現在の豊島園通りと同じ。
- 現在の田柄第三小学校の中央から、田柄高校角交差点までの間は、長命寺道と豊島園通りが重複する。
地名の由来
練馬区のイメージである「緑と太陽のまち」にちなんで名付けられた。緑が丘・緑台・青葉台・若葉台・光が丘の五つの候補があった。
沿革
- 1939年(昭和14年)4月:紀元2600年記念事業の一つである、東京府策定の環状緑地帯計画に、土支田・田柄・高松の地域一体を、大泉大緑地とする計画が盛り込まれた。
- 1940年(昭和15年)2月:臨時府議会で東京緑地帯計画が可決された。同年3月30日付の内務省告示では、大泉大緑地のみが削除された。
- 1942年(昭和17年):旧日本陸軍の成増飛行場が現在の光が丘公園に建設される。現在のIMAの中央やや東寄りを、南北に滑走路が貫いていた。
- 1945年(昭和20年):太平洋戦争敗戦により、成増飛行場が連合国に接収される。
- 1946年(昭和21年)3月25日:東武啓志線が全線開通。
- 1947年(昭和22年)3月3日:連合国軍が、成増飛行場跡地をグラントハイツと改称する。名称の由来は第18代アメリカ大統領のグラント将軍にちなむ。
- 1947年(昭和22年)4月:グラントハイツの建設着工。
- 1948年(昭和23年)6月:グラントハイツが完成。アメリカ空軍の家族宿舎となる。このことから周囲には米軍関連の店も並んだ。
- 1952年(昭和27年)7月26日:日米政府間協定上の米軍施設名「グラント・ハイツ住宅地区」(FAC(施設)番号3006)として、練馬区土支田町、高松町、田柄町、春日町、旭町の一部が、米軍無期限使用施設に指定される[6]。
- 1958年(昭和33年)9月26日:狩野川台風により田柄用水があふれ、グラントハイツが浸水被害。
- 1959年(昭和34年)7月22日:東武啓志線が廃線。
- 1960年代:グラントハイツの返還運動が高まる
- 1961年(昭和36年)4月19日:日米政府間協定上の米軍施設名が「グラント・ハイツ住宅地区」に改まる[7]。
- 1964年(昭和39年)12月18日:練馬区長(須田操)が、東京都知事(東龍太郎)にグラントハイツ開放を要請。
- 1969年(昭和44年)8月27日:防衛庁長官(有田喜一)が、グラントハイツを視察し、米軍と話し合う。
- 1969年(昭和44年)9月1日:当地区に住居表示を実施。田柄町一丁目、田柄町二丁目、高松町一丁目の一部、高松町二丁目の一部、旭町の一部が光が丘になり[8]、正式の町名となった。この時点では光が丘には「丁目」の設定はなく、全体が光が丘1番街区だった。
- 1971年(昭和46年)8月19日:外務省にて日米合同委員会が開かれ、1974年3月を期限として、グラントハイツ全面返還を合意。
- 1972年(昭和47年):敷地の半分を公園、半分を団地などの住宅地にする跡地の再開発計画の策定
- 1973年(昭和48年)9月30日:グラントハイツの全面返還が完了[9]。国有地約1,034,059m2、公有地約9,283m2、民有地約2,452m2、民有地(イーズメント)約368m2、国有建物約107,484m2および付帯設備等が返還された。返還に伴う代替施設として、横田飛行場を米軍へ追加提供した。
- 1977年(昭和52年)2月:都立光が丘公園の建設工事着工
- 1980年(昭和55年)10月:練馬給水所完成、一部通水開始。
- 1981年(昭和56年)3月-5月:住宅、清掃工場の建築着工。
- 1981年(昭和56年)12月:都立光が丘公園が開園。
- 1983年(昭和58年)3月1日:住居表示の変更を実施。従来の「光が丘」の大部分が、光が丘一丁目から七丁目となった[10]。この際、旧光が丘の一部が旭町一丁目33番、旭町二丁目1番および11番、田柄二丁目42番、高松五丁目24番に編入された。
- 1983年(昭和58年)3月:ゆりの木通り完成。
- 1983年(昭和58年)3月-4月:都営住宅・公団住宅の入居開始(地区内で初めての入居)。練馬区立光が丘第一小学校、光が丘第二保育園、旭町第二保育園開設。
- 1983年(昭和58年)5月:練馬区清掃工場光が丘工場仮稼動開始。
- 1983年(昭和58年)6月:光が丘公園野球場、テニスコート、陸上競技場利用開始。地下鉄有楽町線開通。
- 1983年(昭和58年)7月:旭町南地区区民館開設(清掃工場の還元施設)。
- 1983年(昭和58年)10月:清掃工場本格稼動開始。
- 1984年(昭和59年)3月-4月:光が丘出張所、練馬区立光が丘第四小学校、練馬区立光が丘第一中学校、練馬区立光が丘第四中学校、光が丘公園派出所、光が丘第三保育園、光が丘あじさい学童クラブ開設。
- 1984年(昭和59年)4月:バス運行開始。
- 1986年(昭和61年):光連協発足(15団体加盟)。
- 1987年(昭和62年):IMAオープン。
- 1990年(平成2年):光が丘警察署開設。
- 1991年(平成3年):光が丘郵便局開局。都営地下鉄12号線(現・大江戸線)の開通。パチンコ店進出の反対運動始まる。
- 1992年(平成4年):光連協がパチンコ店進出反対を決定。
- 1993年(平成5年):光連協がパチンコ店出店反対要望書を区長・区議会・住都公団に提出。
- 1994年(平成6年):光が丘地区区民館開設。光が丘体育館開設。
- 1995年(平成7年):光が丘図書館開館。光が丘にパチンコ店がオープン。
- この頃から子どもの数が激減。小中学校の統廃合案が実施され始める。
- 2012年(平成24年):光が丘第三小学校跡施設にアオバ・ジャパン・インターナショナルスクール光が丘キャンパスが開設。
- 2013年(平成25年):光が丘第五小学校を改修、こども発達支援センターを開設。光が丘第二小学校跡施設、光が丘第七小学校跡施設を暫定的に区の管理下に置き、生涯学習団体等の活動場所として利用。
町名の変遷
地租改正後の記録として残る小字は以下のとおり。左が現町名、右が小字名である。
- 光が丘一丁目 - 北神明(きたしんめい)
- 光が丘二丁目 - 菅原(すがわら)、八丁原(はっちょうはら)
- 光が丘三丁目 - 北高松、菅原、西田柄、東高松
- 光が丘四丁目 - 庚塚(かねづか)、八丁原
- 光が丘五丁目 - 菅原、大門山(だいもんやま)、八丁原
- 光が丘六丁目 - 大門(だいもん)、大門山
- 光が丘七丁目 - 北高松、大門、平松(ひらまつ)
実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ、各町名ともその一部) |
---|---|---|
光が丘 | 1969年9月1日 | 田柄町一丁目(全域)、田柄町二丁目(全域)、高松町一丁目、高松町二丁目、旭町 |
実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部) |
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光が丘一丁目 | 1983年3月1日 | 光が丘 |
光が丘二丁目 | ||
光が丘三丁目 | ||
光が丘四丁目 | ||
光が丘五丁目 | ||
光が丘六丁目 | ||
光が丘七丁目 |
光が丘パークタウン
光が丘パークタウン(ひかりがおかパークタウン)は、光が丘の多くの部分を占める集合住宅街。光が丘団地ともいう。
都市再生機構 (UR) と東京都住宅供給公社 (JKK東京) の分譲・賃貸住宅で構成され、一部板橋区に属している。小学校は5校、中学校が4校、都立高校が1校ある。いずれは、老人ホームになることを視野に入れて建設されている。ごみ処理場の廃熱を活かした、地域熱供給も導入されている。
高齢化
光が丘の65歳以上の人口(高齢人口)が占める割合(高齢者化率)は14%[11]と、全国平均の20.04%[12]と比べれば低めである。しかし、光が丘における非高齢人口に占める60-64歳の割合は9%、55歳-64歳だと22%になり今後5-10年の間に高齢化率は大きく上がってゆく可能性が高い。現に団地が分譲されたのが他より5年程度早かった光が丘五丁目の高齢化率は51%にまで達している。ただし賃貸住宅が多い丁目は高齢化率は低いので、高齢化は場所によって大きく異なってくることが予想される。
一つの原因としては、光が丘団地は1980年代に新造され、当時20-30代の若いファミリー層が一気に移り住んできた背景にある。当時、多くの子供を抱え入居し、その後子供が成人し、親の手から離れ独立、結局、両親のみがそのまま光が丘団地に居住し続けて今に至っているケースが多い。光が丘団地は、都営住宅など比較的住居費が安いアパートが多く、また都営住宅は基本的に給与によって住居費も変動する。息子娘が社会人になると世帯所得で住居費計算されるため、子供達がその場に留まると高額な住居費になるか、最終的には収入超過で退去の対象となる。よって、社会人となった子供たちは光が丘団地を離れざるを得ない。定年を迎え年老いた両親は年金生活に入り、さらにつましい生活になるが、年金生活になることで、現役時より更に住居費用が安くなり、結果的に、高齢により転居をすることが体力的にしんどくなることに加え、前述のような公営住宅における住居費の恩恵を受けることで、より高齢者が光が丘団地で定住化するという構図が浮き彫りになる。
光が丘各小学校中学校の急速な統廃合は、このような光が丘団地における高齢者の定住化と、子供達の流出によって起こされたものでもある。また、高齢者の定住化は、新しいファミリー層の入居を阻害する要素にもなり(一等地にある都営住宅なため、依然として入居競争率は高い)、学校の統廃合はいよいよ必然となった。
一方で、近年光が丘の急速な高齢化を懸念して、各アパート自治体は、集会場で老人会を開催したり、孤独死対策、急病人が生じる事を懸念し、定期的な部屋の巡回、呼びかけをするなど、高齢化対策が次第に活発化している。
光が丘団地が造成された1980年代と現在を比べると、子供たちの遊び声は少なくなり、団地の至る所に老人が増え、団地全体がひっそりとした空気に包まれつつあるのは否めないが、これは光が丘団地に限ったことではなく、多摩ニュータウンなど大規模な団地群で、造成後長期経過した場所では一様にみられる現象である。
各丁目の高齢化率[13]
- 光が丘一丁目 20%
- 光が丘二丁目 12%
- 光が丘三丁目 13%
- 光が丘四丁目 (公園のため住民基本台帳上の人口は0)
- 光が丘五丁目 51%
- 光が丘六丁目 16%
- 光が丘七丁目 12%
光連協
光が丘には町内会・自治会にあたる東京都練馬区光が丘地区住民組織連絡協議会(略称:光連協)という住民組織が存在する。賃貸住宅の自治会と分譲住宅の管理組合計35団体が加盟し、総世帯数は12157世帯(2006年6月24日現在)に達する光が丘地区最大の住民団体となっている。この規模は通常の町内会・自治会等と比べてかなり巨大な部類に属する。光連協内部は自治会(賃貸住宅)が加入する自治会部会と管理組合が加入する管理組合部会に分けられ、それぞれの固有の問題が扱われている。他にも防災対策専門委員会や自転車問題専門委員会など光が丘地域の問題に密着した専門委員会も六つ設けられている。
交通
その他
- スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズなどの東映特撮を初めとしたドラマに、光が丘公園入り口のM字のオブジェや光が丘の公園各所、団地内などがよく使われている。これは近隣の大泉に東映の撮影所があるためで、交通の便利さのほか、エリア内に電柱がほとんどなく建物も新しかったこと、公園の広さと多さからくる景観の良さなどから重宝されていた。1980年代後半から東映ヒーローの撮影に毎週のように利用されていたが、近年は目新しさがなくなってきており、都内の道路事情の改善、各所に景観のよい場所も増えてきたせいか以前よりは登場頻度は減っている模様である。光が丘内で爆破やカースタントなどを含む危険な撮影は難しいため、いわゆる「変身前」の俳優による、戦闘シーン以外の撮影が主であるが、光が丘公園内で簡単なアクションや殺陣が撮影されることもあったため、ヒーローや専用のバイク、車両の姿がよく見かけられた。これに伴って、光が丘内の特定の建物(区民センター、郵便局、警察署、病院など)が看板だけ別物をかぶせて架空の組織の本部などとして撮影されることも多かった。
- 前述の東映撮影所との関連で、現在配信されている通信カラオケの映像にも光が丘で撮影されているものがある。
- 比較的ファミリー世帯(F1-F3層)が多い団地であり、地域の中心に主要駅とショッピングセンターがあることからニュース番組やワイドショーなどで、一般視聴者の意見を求めるインタビューで利用されることがしばしばある。
- 練馬区は東京23区内で夏の最高気温を記録することが多く、お天気コーナーのロケが入ることもある。なお、23区内のアメダス観測所は練馬区豊玉上のほか、東京(千代田区)、世田谷(世田谷区)、江戸川臨海(江戸川区)、羽田(大田区)の5箇所であり、「練馬」が都内最高気温と報じられた場合も、この5箇所のみの比較である。
- 映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』で、とある重要人物の住所として光が丘団地(2丁目)が撮影に使用された。
- アニメ『デジモンアドベンチャー』ではしばしば重要な場所として登場した。練馬区はアニメを活用した観光振興の一環として、区民センター前にキャラクター入りの観光案内板を設置している。
- 尾崎豊の「米軍キャンプ」(アルバム「壊れた扉から」収録)で「米軍キャンプ跡の崩れかけた工場」とうたわれているのは、グラントハイツと呼ばれていた頃の風景である。
- 見通しが良く碁盤目状に整備された道路網が適しているためか、周辺地域の幾つかの自動車教習所で路上技能教習のコースとして利用される。
脚注
- ↑ “練馬区統計書 - 町丁別土地面積、気温、降水量の推移、住民基本台帳による世帯数と人口など”. 練馬区 (2016年10月1日). . 2018閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 “世帯と人口(人口統計) - 町丁目別”. 練馬区 (2017年12月5日). . 2018閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 “郵便番号”. 日本郵便. . 2018閲覧.
- ↑ “市外局番の一覧”. 総務省. . 2018閲覧.
- ↑ “区立小中学校 学区域一覧”. 練馬区 (2017年8月24日). . 2018閲覧.
- ↑ 同日、外務省告示第34号
- ↑ 同日、調達庁告示第4号
- ↑ 昭和44年12月16日、自治省告示第197号
- ↑ 昭和49年1月22日、防衛施設庁告示第1号。
- ↑ 昭和58年3月19日、自治省告示第62号
- ↑ 2005年1月1日現在・住民基本台帳
- ↑ 2006年版 高齢化社会白書
- ↑ 住民基本台帳より計算 2005年1月1日現在 小数点以下切捨て
関連項目
外部リンク
旭町 | 板橋区赤塚新町 | |||
北 | 田柄 | |||
西 光が丘 東 | ||||
南 | ||||
高松 | 春日町 |