先島諸島
地理 | |
---|---|
場所 | 東シナ海・フィリピン海(太平洋) |
座標 |
北緯24度00分 - 26度00分 東経122度45分 - 125度45分 |
諸島 | 南西諸島 |
島数 | 44島(うち20島は有人島)[1] |
主要な島 |
西表島(289.27km2)[2] 石垣島(222.63km2)[2] 宮古島(159.25km2)[2] |
面積 |
818.45 km2 ({{rnd/b構文エラー: 予期しない演算子 < です。|構文エラー: 予期しない演算子 < です。|(構文エラー: 予期しない演算子 < です。)|構文エラー: 予期しない演算子 < です。 }} sq mi) (国土地理院、2010年10月1日現在)[2] |
最高標高 | 526 m (1,726 ft)[3] |
最高峰 | 於茂登岳[3] |
所属国 | |
都道府県 | 沖縄県 |
市町村 |
宮古島市、石垣市 宮古郡:多良間村 八重山郡:竹富町、与那国町 |
最大都市 | 宮古島市(人口52,039人[4]) |
先島諸島(さきしましょとう)は、日本の南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島・八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。
Contents
先島諸島に含まれうる諸島
尖閣諸島については、先島諸島に含めない場合[5][6][7]と、含める場合[8]とが有る。中国と台湾がそれぞれ領有権を主張している。
歴史
- テンプレート:沖縄県の歴史
先史
先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。約800年前ごろからカムィ焼や鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。13世紀頃までは、自前の船で琉球と先島諸島の往来をする事は難しく、両地域の結び付きは薄く、先島諸島は南琉球先史文化圏に属し、それは中国、台湾、フィリピン文化圏の影響が色濃いものであった。
近世
「元史」、「温州府志」には元代の1317年(延祐4年)に「密牙古人」が漂着したとの記録があり、これが中国の史書の初出である。1390年、宮古の与那覇勢頭豊見親(真佐久)が中山王察度のもとに初めて朝貢する。真佐久は琉球語を解せず、先島と琉球が異なる文化圏にあった事を示唆する。14世紀から15世紀には沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。
1609年、時の大和政権江戸幕府徳川家康、秀忠より琉球征伐御朱印状を得た薩摩藩島津氏が琉球王国に侵攻、琉球王尚寧王は降伏し琉球王国は薩摩藩に服属することとなったが、その後も王府は徴税代理人となり先島諸島からの年貢を徴収。1637年、王府は先島諸島に対して過酷な人頭税を導入。この制度は1903年まで続いた。
先島諸島の人頭税
琉球王府は先島諸島に対して過酷な人頭税を導入し圧政を強いた。薩摩および王府に加え、先島諸島の現地支配層による農民の二重搾取、強制賦役、弾圧や迫害の歴史は20世紀まで連綿と続いた[9]。圧政、干魃や暴風雨などによる不作や飢饉、大津波などの天災や疫病、熱病の流行による人口の大減少は、王府や支配層による農民の強制移住などの圧迫をもたらした。
与那国島には久部良割(くらぶばり)や人升田(とぅんぐだ)の伝説があり、それ自体は古琉球以前の南海の孤島における人減らしの伝説や奇譚の類の域を出ないものであるが、過酷な人頭税制などを背景に先島諸島の社会で少子化や嬰児の意図的な間引きなどが横行(左様な間引きは日本本土においても広見されている)し、王府が罰条によりそのような行為を禁じたのは史実である。
ともかく20世紀における先島諸島民の訴えによれば、薩摩支配下の琉球王国により宮古島・八重山諸島において「正頭(しょうず)」と呼ばれる15歳から50歳まで(数え年)の男女を対象に1637年から制度化され、年齢と性別・身分、居住地域の耕地状況(村位)を組み合わせて算定された額によって賦課が行われた(古琉球時代説もある)。この税制度は平均税率が八公二民と言われるほどの重税であり、しかも農作物の収穫が少ない年でも払わなければならず島民を苦しめたと言われる。この正頭は廃藩置県後も旧琉球王国の既得権益層への懐柔のために執られた旧慣温存策により存続したが、1893年(明治26年)に中村十作、城間正安、平良真牛、西里蒲ら4人により、沖縄本島の官憲や士族らの妨害を乗り越えて、国会請願書が当時内務大臣であった井上馨に届けられた。中村の同郷(新潟県)の読売新聞記者である増田義一の記事で国民に周知されるところとなり、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年(明治36年)廃止され、日本本土と同様の地租に切り替えられた[10]。
もっとも大﨑正治によれば、表向きの公定の貢租率は日本本土の四公六民に比べ、琉球で三公七民、先島では島により異なり四公 - 五公程と格別に重い訳では無かったが、前述のとおり現地支配層による過酷な二重搾取や強制賦役(「廿日オーデーラ」《20日公役》)、米を生産できない島への米貢納の強制とその代替として他島への強制移住、そもそも各島間の人口調整のための強制移住、違背者への過酷な弾圧など、結果として過酷な支配であったとしている。また王府の江戸上りや中国冊封使受け入れのための費用なども本来貢租とは別に先島の農民から間接的に徴収される事となった。王府はこのような二重搾取等を表向きは放置していた訳ではなく、割重穀事件において王府は表面上は現地支配層を厳しく指弾し処罰する内容となっていたが、現実には罰の猶予や緩徐が行われるなどの竜頭蛇尾に終始したと指摘しており[9]、これが多良間騒動や落書事件などの紛糾へと続くこととなる。なお、強制移住など王府・現地支配層による弾圧は琉球王府消滅とともに無くなったものの、過酷な搾取や強制賦役は旧慣温存政策により20世紀まで続いたと言う点では大﨑も一致している[9]。
近代
明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。
1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害された宮古島島民遭難事件事件に対し、日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。
1879年(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)するが、清との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。清も一度は応じ仮調印したが、「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで、清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の意向によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。琉球再興に動かない清の態度に抗議した脱清人・名城春傍(林世功)の自害もこの時のことである。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなった。
政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、前述のとおり、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。また1937年まで日本標準時より1時間遅い西部標準時が適用されていた。
太平洋戦争と米国統治
沖縄本島とは違って太平洋戦争の戦場にはならなかったものの、1945年に入ると激しい空襲と艦砲射撃を受け、6月以降には八重山諸島で山岳地帯や西表島などマラリア危険地域への移住命令が出され、マラリアによる死者が多数出た。宮古島は平坦で、連合軍の飛行場設置を恐れ3万人の陸軍兵が駐留した。約1割の兵士が戦病死したが、宮古の女性と仲良くなる兵士が多く、引き上げ時は港は悲しみの女性で一杯であった。残った兵士もいた。
さらに沖縄本島の陸軍が壊滅すると、軍、行政ともに機能が停止し、指揮系統が切断された守備隊の一部が畑から作物を盗んだり、島民に暴力を振るうなどしたため、石垣島の住民は自警団を結成してこれに対抗し、さらにこれを発展させて12月15日に「八重山自治会」を発足させた[11]。一方アメリカ軍は11月26日告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」を12月8日に宮古島で、12月23日に石垣島で公布、軍政樹立を宣言し、宮古支庁(現・宮古事務所)と八重山支庁(現・八重山事務所)を復活させた[12]。1952年の日本国との平和条約によって国際法上も米国統治下に置かれることが確認された。
沖縄返還後
1972年の沖縄返還に伴って日本国の施政権が回復した。しかし米国統治下で東経123度の与那国島の上空に防空識別圏の境界線が引かれていたため、返還後も島の領空の西3分の2は台湾の防空識別圏内のままであった。ただし台湾は、自主的に与那国島を避けるように台湾寄りの海上に防空識別圏の境界線を設定して運用しており、外務省も「防空上の問題は事実上生じない」という立場をとっていた。そして2010年6月25日に正式に防衛省の訓令の見直しが施行され、日本の防空識別圏が与那国島の西端から西側に14海里(領空12海里+緩衝地帯2海里)広げられて日本の領空と台湾の防空識別圏の重複問題が解決した。台湾の親中派の馬英九政権は「一方的な識別圏の変更は認められない」との声明を出したが、台湾は前述の通り、元より識別圏の境界線を与那国島上空から西側の海上に設定して運用していたため、問題にはならないと見られている。
テレビやラジオの放送は、テレビがNHK沖縄放送局(前身は沖縄放送協会(OHK))、ラジオは民放の琉球放送(RBC)が開局してサービスを開始した。民放のテレビ放送は1993年に中継局が開局するまで、全てケーブルテレビの自主放送で時差配信されていた。詳細は宮古島中継局を参照。
脚注
- ↑ “離島関係資料 第1 指定離島・島しょ・人口 (PDF)”. 沖縄県企画部地域・離島課 (2012年1月). . 2012閲覧. - 面積0.01km2以上の島の数。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 “平成22年 全国都道府県市区町村別面積調 (PDF)”. 国土地理院 (2011年10月1日). . 2012閲覧. - 先島諸島に属する市町村の面積の合計。
- ↑ 3.0 3.1 “沖縄県市町村別最高点一覧”. 沖縄県企画部土地対策課 (2004年10月). . 2012閲覧.
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「demography
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 角川日本地名大辞典 オンライン版 「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店
- ↑ デジタル大辞泉 小学館
- ↑ [1]大辞林 三省堂
- ↑ 百科事典マイペディア
- ↑ 9.0 9.1 9.2 “琉球八重山の人頭税を吟味する”. K-aiser 蔵書検索. 國學院大学. 2018年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2018閲覧.
- ↑ 高良倉吉「人頭税」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9)
- ↑ 後にこれを「八重山共和国」と呼ぶ俗称が現れた(桝田武宗『八重山共和国』筑摩書房、1990年など)が、「八重山自治会」は国際的な国家承認を求めたわけではなく、「八重山共和国」という呼称は当時の権力空白による政治状況を表現する比喩として理解すべきものである。
- ↑ 以上太平洋戦争末期から米軍軍政開始までの状況については大田靜男『八重山戦後史』(ひるぎ社、1985年)、37-71ページによる。