俳句
俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされ、十七文字、十七音、十七語とも呼ばれる。俳句の有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句や無季俳句などもある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
Contents
概要
俳句は近世に発展した文芸である俳諧連歌、略して俳諧から生まれた近代文芸である。室町時代に流行した連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧であったが17世紀に松尾芭蕉が出てその芸術性を高め、なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、すなわち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。
さらに近代文芸として個人の創作性を重視して俳句を成立させたのが明治時代の正岡子規であった。子規は江戸末期の俳諧を月並俳諧と批判して近代化した文芸たらしめるための文学運動を行い、発句が俳句として自立した。俳句の自立後の視点から、芭蕉などの詠んだ俳諧の発句をさかのぼって、俳句と同一視するようになった。
季語や季感を持たない無季俳句や、定型からの自由を目指す自由律俳句も、詩感の追求という点で共通するため俳句に含むのが一般的であるが、それらを俳句と認めない立場も存在する。
また、英語などの非日本語による3行詩も「Haiku」と称される。日本語以外の俳句では五・七・五のシラブルの制約がなく、季語もない場合が多い。
現在では日本語を母語としない者が日本語で俳句を作っている。そうした俳人には現在マブソン青眼、ドゥーグル・J.リンズィー、アーサー・ビナードなどがいる。
日本の詩歌の伝統をひきついで成立した俳句は、五・七・五の拍(モーラ)による言葉の調べ(韻律)と「季語」と「切れ」によって短い詩でありながら心のなかの場景(心象)を大きくひろげることができる特徴を持っている。
歴史
明治
明治中期、正岡子規は、近世以来の月並俳諧を排して、写生を作句の根本に置き、自己の実感から生ずる新しい詩美を見いだそうとして、俳誌「ホトトギス」を刊行主宰した(1897年)。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。これらの子規の活動は、俳句革新運動と呼ばれている。
しかし子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の二派に分かれた。虚子は「ホトトギス」を主宰し、伝統的な季題や定型を守る立場をとった。一方の碧梧桐は写生主義をさらに徹底させ、自然観照における個性的な実感を重んじる立場をとった。虚子の俳風は、碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も「ホトトギス」も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
碧梧桐の門には、大須賀乙字、荻原井泉水、中塚一碧楼らがあった。乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア派の栗林一石路は、井泉水の門である。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌「層雲」を創刊したが(1911年)、その後あわただしく離合集散を繰り返した[1]。
大正
大正の初め、一方の虚子は再び俳壇に戻り、新傾向派と対立して季題・定型を提唱した。虚子ははじめ主情的傾向が強かったが、しだいに客観写生の傾向となった。さらに「花鳥諷詠」を説くなどその句風が変遷したが、常に俳壇の主流を占めた。この派には、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅らをはじめ、昭和に入っても、高野素十、松本たかし、山口青邨、富安風生、川端茅舎らのすぐれた俳人を輩出した[1]。
昭和
ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに「馬酔木」を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こった。
昭和十年代に入ると、新興俳句の主張は素材論にすぎないとし、俳句は「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする「人間探求派」というべき主張が起こった。中村草田男、加藤楸邨、石田波郷らである。
また大正から昭和にかけて、女性俳人の進出が目立った。杉田久女、三橋鷹女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子、石橋秀野らがいる。
敗戦後は桑原武夫の『第二芸術ー現代俳句について』(1946)によって、短詩型である俳句の限界が指摘された。それを契機に、伝統俳句と新興俳句とが積極的に交流し、新しい俳句についての省察が深まった。総合誌「俳句」が創刊(1952)されたことも、流派を越えた活動のために役立った。
1947年(昭和22年)には吉岡禅寺洞らを中心に口語俳句運動が起こった。翌48年には、山口誓子の「天狼」が、新鮮酷烈な俳句精神の発揮を目標として「根源俳句」説を提唱した。西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男らがこれに参加した。また1953年(昭和28年)には、俳句の中に社会的人間を発表しようとする「社会性俳句」論が起こった。これらの論争は、その後長く続いた。
安保闘争の前後は前衛俳句が盛んになった。金子兜太の「造型俳句論」「意識の造型」などが話題とされた。これに対して、「叙情の回復」を叫ぶ「リアリズム俳句」「季題論」も起こった。前衛俳句は、全共闘運動の鎮静した70年代には急速に沈潜していった[1]。
現代
俳句という最短詩型のはらむ可能性が、さまざまな立場や切り口からさぐられている。伝統と前衛、個と社会、諷詠と造形、詩と生活など、俳壇の動向は一言で尽くし難い。流派・傾向にかかわりなく、現代の俳壇で活躍している俳人には、森澄雄、石原八束、三橋敏雄、藤田湘子、鷹羽狩行、上田五千石、和田悟郎、川崎展宏、夏石番矢、佐藤鬼房、飯田龍太、田島和生、石寒太、長谷川櫂らがある。
なお、女性の進出はめざましい。戦後すぐに、細見綾子、野沢節子、桂信子らが登場して以来、津田清子、稲畑汀子、中村苑子、鷲谷七菜子、岡本眸、熊谷愛子、黒田杏子などがいる[1]。
また、現代の俳人は結社に所属している者が多い。結社に関しては俳句結社・結社誌の一覧を参照する。現在では、黒田杏子主宰の藍生、石寒太主宰の炎環、金子兜太主宰の海程、田島和生主宰の雉、中原道夫主宰の銀化、長谷川櫂主宰(2011年からは大谷至弘主宰)の古志、小澤實主宰の澤、小川軽舟主宰の鷹、有馬朗人主宰の天為などの活動がある。俳句甲子園などの取り組みもあるが、一般的には俳句人口は老齢化し減少が続いている。
俳句とは何か
「俳句とは何か」という、本質的問いに対する答えは多数存在する。
- 山本健吉
- 俳句評論家の山本健吉はエッセイ「挨拶と滑稽」のなかで、俳句の本質として3ヶ条をあげている。これが有名な「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」である。
- 松根東洋城
- 松根東洋城は俳句について大正天皇から問われた1914年、「渋柿のごときものにては候へど」の句を奉答したという。「渋柿のごときもの」、これはたしかに俳句の本質の一面といえよう。松根は、この句にちなんで主宰誌を「渋柿」と命名した。
- 他、著名な俳人
- など。
- 「寄物陳思」
- 俳句は「寄物陳思」の詩とも言われる。「万葉集」にある「物に寄せて思いを陳(の)べる」の意である。
(出典:安東次男・飯田龍太編「俳句の本・俳諧と俳句」筑摩書房、村山古郷・山下一海編「俳句用語の基礎知識」角川選書、「証言・昭和の俳句」角川書店)
- 桑原武夫
- フランス文学研究者・桑原武夫はエッセイの「第二芸術」にて(雑誌「世界」1946年)「俳句というものは同好者だけが特殊世界を作りその中で楽しむ芸事。大家と素人の区別もつかぬ第二芸術に過ぎない」と糾弾している。
特徴
俳句には次の特徴がある。
韻律
俳句は定型詩であり、五・七・五の韻律が重要な要素となっている。この韻律は開音節という日本語の特質から必然的に成立したリズムであって、俳句の制約とか、規則と考えるべきではない。五の部分が6音以上に、または七の部分が8音以上になることを字余りという。
例えば
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
芭蕉
は8・7・5で、上5が8の字余りである。そのほか字足らず、句またがりなど5・7・5定型に収まらない作品もある。さらに、俳句は定型詩ではないとして一句一律を唱える自由律俳句も存在する。
和歌の時代からの伝統であろうが、字余りがゆるされるのは母音ないし撥音が含まれる場合が多い。それは、母音および撥音が音の一単位としては少々短いためと思われる。例えば本位を「ほい」と表記する伝統は撥音が一音としては不足していることを表すだろうし、ア行で活用する動詞が「得」一語なのも母音だけでは語としてなにがしかの不足感をその当時の人々が感じていたからではなかろうか。
季語
俳句にとって、季語は大きな役割がある。季語を必ず入れなければならないとする有季(季語絶対)派から季語よりも季感が大切とする「季感」派、無季でもよいとする無季容認、無季俳句が旧来の俳句的情趣を打破するという「無季」派まで、さまざまな考え方がある。
松田ひろむは、「俳句に季語はあってもなくてもいいのでしょうか。そうではありません。はっきりいって季語はあったほうがいいのです。俳句にとって『季語』は大きな役割を果たします。季語は象徴となるイメージを与えてくれるのです。これを連想力といってもいいでしょう。また時間と空間を大きく広げる役割があるのです」(『入門詠んで楽しむ俳句16週間』新星出版社)という。
また橋本直は2006年3月の現代俳句協会青年部勉強会で「季語の現在─本意の変遷と生成、その未来」の基調報告を行ない、そこで「本来の季語、季題の役割は、通時的/共時的な詩的機能を引き出すためのものであって、あたかも軛のごとく自由を束縛するものではない」と問題を提起している。このように総じて有季定型派よりも無季、自由律に眼を向けた俳人のほうがより深く季語の役割について考えをすすめている。
有季絶対派は「季語・季題があればいい」として、かえって緊張感を欠いているともいえよう。また「俳諧の発句はその場に対する挨拶の意味を濃厚に含んでいたからである」とするが、現代の俳句は「俳諧の発句」とは異なるものとして発展してきているので、俳諧の発句という説は説得力を持っていない。
季語が季節の情感を表現していたかといえば談林の俳諧などではかえって季語を季感と切り離すことで、笑いを生みだすものとしていた部分もあった。
また、季語といい季題というが、それぞれの用語にはそれぞれの拘りがある。NHKのBS放送でも、「季語」という金子兜太と「季題」という稲畑汀子とがしばしば激論を交している。もともと季語・季題という言葉は江戸時代にはなかった。芭蕉の言葉にも「季節の一つも探り出したらんは 後世によき賜と也」(去来抄)とあり、この「季節」とは季語・季題のこと。その他芭蕉はすべて「季」(季の詞)といっている。大胆に要約すれば季の題を詠むとする立場が「季題」、それでは季題趣味に陥るとするのが「季語」派である。
切れ
俳諧では、最初に詠まれる発句は後に続ける脇句や平句の動機となる必要がある。そのため発句には、脇句に依存しない完結性が求められた。そこで編み出されたテクニックが「切れ」である。上手く切れた発句は「切れがある」と評価され、重視された。
たとえば有名な芭蕉の句
では、「古池や」の後で一呼吸、句の流れが切れている。これは、切れ字の「や」による効果である。読者はその一瞬の休符の合間に、作者を取り巻く環境や作者の思想・感情・情念・背景などを勝手に想像してしまう仕掛けになっている。このテクニックが「切れ」と呼ばれ、十七文字という限定された語数で、言葉に形と質感を与える効果を持つ。さらに、季語とあいまって句に余韻をかもしだす。
このような「切れ」は、現代の俳句でも重要なテクニックの一つである。
切れ字は、強制的に句を切るために使われる助詞のことである。現代の俳句でも使われている切れ字には「かな」「や」「けり」がある。俳句以前の連歌・俳諧の時代には「もがな」「し」「ぞ」「か」「よ」「せ」「れ」「つ」「ぬ」「へ」「ず」「いかに」「じ」「け」「らん」など、先の3個と合わせ、計18種類の助詞、助動詞が使われていた。
しかし、切れ字がなくても「切れ」が成立することもある。例えば、芭蕉の弟子・去来は『去来抄』「故実」の中で、こんな芭蕉の言葉を紹介している[2][3]。
「切字を入る句は句を切ため也。きれたる句は字を以て切るに不及。いまだ句の切レる不レ切を不知作者の為に、先達而切字の數を定らる。此定の字を入ては十に七八はおのづから句切る也。残り二三は入 レて不切句又入れずして切る句有り」(切れ字を入れるのは句を切るためである。しかし切れている句というのは切れ字によって切る必要はない。いまだに句が切れている、いないが、わからない作者のために、あらかじめ切れ字の数を定めているのである。この定め字を入れれば十のうち七八の句は自然に切れる。しかし残りの二三は切れ字を入れても切れない句である。また入れなくても切れる句もある。)
「きれ字に用時は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也」(切れ字を用いるときはいろは四十八字みな切れ字となるし、用いないときは一字も切れ字にならない。)
つまり芭蕉の言いたいことは、切れは句の内容の問題で切れ字があるなしの問題ではないということである。そのため、現代の俳句でも、その句のどこに切れがあるのかが話題に上がることがある。助詞の他には、名詞で切れることが多い。
客観写生
この言葉自体は高浜虚子のものであるが、その起源は芭蕉の句までたどることのできる俳句の特徴の1つである。芭蕉の門人・土芳は『三冊子』の中でこれを「見るにつけ、聞くにつけ、作者の感じるままを句に作るところは、すなわち俳諧の誠である」と表現している。江戸時代には客観や写生という言葉こそないが俳諧の誠というのは私意や虚偽を排し、対象をよく観察し、傾聴して、そのありさまを十七文字で表現することに全力を傾けるという意味である。
例としては
吹き飛ばす石は 浅間の野分かな
芭蕉
が挙げられる。ここには浅間山に登る芭蕉の感想などは、一切述べられていない。しかし、浅間山に吹く野分の凄さを「石まで吹き飛ばす」と表現することで読者は、荒涼とした風景とともに、こういう表現を選ぶ芭蕉という人物の面白さをもかえって十分に感じることができるのである。
川柳との違い
川柳も俳句と同じく俳諧に起源を持つ五・七・五の定形詩だが俳諧連歌の冒頭の発句が独立した俳句と違い、川柳は付け句(平句)を前句から独立的に鑑賞するようになったもので発句の性格を継承しておらず、そこから俳句と対照的な特徴を有する。
- 「季語」がない。
- 「切れ」がない。(一句一姿)
- 自分の思いをストレートに言い切り、「余韻」を残さない。(穿ち)
技法
水原秋桜子が『俳句の作り方』で「注意六条 禁忌八条」を提唱した。
まず、「俳句を詠むとき、意を注ぐべき六条」は以下のようなものである。
- 詩因を捉える
- 分量をわきまえる
- 省略を巧みにする
- 配合を工夫する
- わかる用語を使って
- 丁寧に詠む
省略については、俳句では17文字という限られた音で表現をしなければならないため、不用な言葉の省略が重要視される。体言止めにより動詞や助詞を省略したり、助詞で止めて後に来る動詞を省略したりすることが多い。また、予測可能な言葉を省くことにより、余韻を残したり時間的な「間」を表現することにもなる。
次に、俳句を詠むときで避けるべき八ヶ条は以下のようなものである。
- 無季の句を詠まない
- 重季の句を詠まない
- 空想の句を詠まない
- や・かなを併用した句を詠まない
- 字あまりの句を詠まない
- 感動を露出した句を詠まない
- 感動を誇張した句を詠まない
- 模倣の句を詠まない
これらはもちろん、水原秋桜子の見解であり、特に無季の句に関しては様々な議論がされている。
その他の技法として、本歌取りをあげる。これは有名な既存の俳句や短歌などから言葉を流用し、言外に本歌の内容を表現する技法である。例えば「見わたせば山もと霞む水無瀬川」から「山もと霞む」を流用し、言外に「水無瀬川」を示すなど。
また、句またがりという技法もある。これは、意味的な切れ目を五・七・五の音の切れ目とは異なる場所に持ってくることで、リズムに変化を与える。
著名な俳人
俳人の一覧も参照
江戸時代
(厳密には俳句ではなく俳諧を詠んだが、優れた地発句ゆえに俳句と同一視される)
- 松尾芭蕉(1644年 - 1694年)
- 向井去来(1651年 - 1704年)
- 服部嵐雪(1654年 - 1707年)
- 森川許六(1656年 - 1715年)
- 宝井其角(1661年 - 1707年)
- 与謝蕪村(1716年 - 1783年)
- 小林一茶(1763年 - 1827年)
近現代
- 正岡子規(1867年 - 1902年)
- 河東碧梧桐(1873年 - 1937年)
- 高浜虚子(1874年 - 1959年)
- 臼田亞浪(1879年 - 1951年)
- 種田山頭火(1882年 - 1940年)
- 荻原井泉水(1884年 - 1976年)
- 尾崎放哉(1885年 - 1926年)
- 飯田蛇笏(1886年 - 1962年)
- 原石鼎(1886年 - 1951年)
- 中塚一碧楼(1887年 - 1946年)
- 水原秋桜子(1892年 - 1981年)
- 山口青邨(1892年 - 1988年)
- 高野素十(1893年 - 1976年)
- 栗林一石路(1894年 - 1961年)
- 川端茅舎(1897年 - 1941年)
- 阿波野青畝(1899年 - 1992年)
- 永田耕衣(1900年 - 1997年)
- 西東三鬼(1900年 - 1962年)
- 日野草城(1901年 - 1956年)
- 山口誓子(1901年 - 1994年)
- 中村草田男(1901年 - 1983年)
- 芝不器男(1903年 - 1930年)
- 星野立子(1903年 - 1984年)
- 橋本夢道(1903年 - 1974年)
- 大野林火(1904年 - 1982年)
- 加藤楸邨(1905年 - 1993年)
- 松本たかし(1906年 - 1956年)
- 篠原鳳作(1906年 - 1936年)
- 京極杞陽(1908年 - 1981年)
- 石川桂郎(1909年 - 1975年)
- 古沢太穂(1913年 - 2000年)
- 石田波郷(1913年 - 1963年)
- 野見山朱鳥(1917年 - 1970年)
- 森澄雄(1919年 - 2010年)
- 飯田龍太(1920年 - 2007年)
- 有働亨(1920年 - 2010年)
- 赤尾兜子(1925年 - 1981年)
- 上田五千石(1933年 - 1997年)
書籍
- 入門書
- 『上田五千石 生きることをうたう(NHK俳句入門)』(日本放送出版協会、1990年5月)ISBN 978-4140160589
- 『金子兜太の俳句の作り方が面白いほどわかる本』 みんなの俳句学校入門の入門 楽書ブックス 金子兜太 中経出版(2002年6月) ISBN 4-8061-1637-8
- 『新実作俳句入門』 藤田湘子 立風書房(2000年6月) ISBN 978-4651600727
- 『入門 詠んで楽しむ俳句16週間』 松田ひろむ 新星出版社(2002年7月) ISBN 4-405-05558-0
- 『一億人の俳句入門』 長谷川櫂 講談社(2005年10月) ISBN 4-06-212930-2
- 『無敵の俳句生活』俳筋力の会 ナナ・コーポレート・コミュニケーション(2002年6月) ISBN 4-901491-06-7
- 『俳句で能力トレーニング 書いて覚えて作句しよう』明治書院(2006年9月) ISBN 4-625-68365-3
- 関連書
- 『俳句理解の心理学』 皆川直凡 北大路書房(2005年9月) ISBN 4-7628-2463-1
- 『俳句-その芸術性』金山有紘 玄文社 (2012年8月15日)ISBN 978-4-906645-20-6
参考文献
- 秋元不死男 『俳句入門』 角川学芸出版、1971年。ISBN 978-4047030527。
非日本語圏における俳句
俳句はこんにち非日本語圏においても広く受容され創作されている。英語圏の国々において盛んに詠まれているほか、スウェーデン、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、クロアチア、スロベニア、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、ロシア、中国、ペルー、メキシコ、アルゼンチン、ウルグアイ、コロンビア、ブラジル、インド、バングラデシュなどでも句作が行われている。台湾、ブラジルには日本語で俳句を詠む者も多い。
日本語を母語としない者による最初期の俳句としては、朝鮮通信使の訳官や通詞らによる江戸中期のものが知られており[4][5]、またオランダ人のヘンドリック・ドゥーフが19世紀初頭に俳句を書き残している[6][7]。これらはいずれも日本語による句作である。
20世紀初頭には、アメリカの野口米次郎やサダキチ・ハートマンが英語による俳句を発表し、イマジズム(写象主義)詩人たちのあいだで関心をもたれていたが、学習院大学等で教鞭をとったレジナルド・ブライスの紹介により本格的に知られるようになった。著名人ではタゴールやオクタビオ・パスなどが日本俳句の翻訳や母語による句作を試みている。ビート・ジェネレーションにも大きな影響を与えた。
英語俳句は3行17音節で構成されるのが典型的であるが、1、2、4行(またはそれ以上)のもの、16音節以下のものも珍しくない。英語俳句においても季語(season word)、切れ(cut)を入れるのが通則とされている。気候風土の違い(地域によっては四季が存在しない)もあって季語には日本語圏にはない文物・習慣も多く採用されたり[8][9]、週刊STによるルールのように「季節感を盛り込む」という程度で季語の規定がないケースもある。切れ字はないが、句読点や疑問符、感嘆符、ダッシュ等の使用により切れを明示することがある。
例:古池や蛙飛こむ水のおと
An old quiet pond...
A frog jumps into the pond,
Splash! Silence again.
日本語文中で、欧語による俳句を「ハイク」、「haiku」などと表記することもある。
中国語による俳句は漢俳と呼ばれる。漢俳は五字・七字・五字の三行十七字で構成するのが一般的である。漢俳には格律体と自由体とがあり、格律体は文言(文語文)を用い平仄、押韻のきまりがある。自由体には平仄・押韻はなく白話文を用いてもよい。
例:古池や蛙飛こむ水のおと
閑寂古池旁,青蛙跳入水中央,撲通一聲響。
非日本語での俳句においては17音節では言葉数が多くなってしまうという意見もあり、俳句としての簡潔さを追求するためにより少ない音節での句作を試みる動きもある。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 稲賀敬二、竹盛天雄、森野繁夫監修『新版初訂 新訂総合国語便覧』 第一学習社 2009年1月10日
- ↑ “去来抄(故実)”. 伊藤洋. . 2018閲覧.
- ↑ 秋元 (1971)、137頁
- ↑ 管宗次「朝鮮通信使による日本語韻文史料―発句、和歌などの短冊色紙をめぐって―」
- ↑ 李元植「朝鮮通信使の研究」
- ↑ Haiku in the Netherlands and Flanders by Max Verhart, in the German Haiku Society website
- ↑
- ↑ “英語俳句のルールがよく分からない件”. エキサイトニュース. (2012年6月3日) . 2012閲覧.
- ↑ William J. Higginsonの著書 "Haiku World" (ISBN 978-4770020901)ならびに、"The Haiku Seasons" (ISBN 978-4770016294)
- ↑ wikisource:Frog Poem参照。
関連項目
- Haiku OS --- “俳句”を語源とするオペレーティングシステム。社内に親日派が多かったBeOSのOSSとしての後継。